第9話 ココロ、板挟み
多重人格。もしくは解離性同一性障害。
本人には抱えきれないつらい出来事を経験してしまったとき、それらを「他人が経験したこと」と思い込もうとしたり、その時の記憶を切り離し封じ込め、次に似た場面に遭遇したときには「その事象に負けない自分」を創り上げて、心が壊れてしまうことを回避する、人間の精神の働き。
「――なんだが、オレたちの場合は事情が違う」
そういって、自分が二重人格者だと語る生駒くん――違う、”生駒祐樹の副人格を名乗る何者か”は、こちらのペースを無視して話し続けている。
「ごめん、まだ頭がついていけてないんだけど……」
「だろうな、お前そんなに頭いい方じゃねぇし。……ま、とにかく目の前で話してるオレが”生駒くん”の本性だとか、そういう単純でありがちなことじゃねぇし、かと言って病名がつく精神病患者ってほど大それたものでもねぇってことだけ、今は分かってりゃいい」
”彼”は怠そうに手元の水を少し飲む。わたしも一度なんとも言えなくなってしまった気持ちを落ち着けるべく、よく冷えた液体を流し込んでいく。
「……それで、さっき言ってた”事情が違う”って、どういうこと? 普通の解離性同一性障害……多重人格ってことじゃないんだよね?」
「あぁ。多重人格ってのは普通、主人格は副人格のことなんざ認識してねぇ。基本的に”逃げる”ための行為なんだから、その証明である副人格を認識したら意味ねぇからな。
けど、祐樹はオレのことをキッチリ認識してるし、何なら頭ん中で会話したりもする。学校じゃなるべく話さねぇし、話しても声には出ないようにしてるみてぇだけどな」
「そっか、優花さんが言ってた”独り言”って……」
「……あの姉貴、予想外に余計なことまで話してやがんな……。まぁいいや、どうせ昔のことも聞いたんだろ?」
なんだか問い詰められている気がして、なんだから委縮して頷いてしまう。
「ったく……。でー、まぁ親父が死んで、その死体を見つけたとき、アイツはどうしていいか分からなかった。だから自分の裡に問いかけて……まずは姉に電話をかけることにした。”帰りにあれとこれ買ってきて”、ってな」
「……え、どうして?」
「血の繋がった父親が首を吊ってる光景なんざ、姉に見せたくなかったから」
「……!?」
あぁそうか。彼らしいといえば彼らしい……けど、少なくとも八歳かそこらの子供の取る行動じゃない。優花さんがそれを言わなかったのは……罪悪感だろう。あの察しのいい人が未だに気付いていない訳がない。
「まぁそれからと言うもの、アイツは自失した姉の代わりに色んなことをこなすようになった。けど、まだ中学にも上がってない子供だ、どうしていいか分からなくなる度に自分に訊いて……ついにこんなことを訊いちまった。『お父さんはなんで、僕たちをおいてしんじゃったの? 僕の本当の家族はどうしてしんじゃったの?』、ってな」
「それは――!」
「いい。座れ」
”彼”は思わず詰め寄ったわたしをたしなめる。その表情は厳しいけれど、怒っている風ではなかった。大人しく座る。……”彼”は、この件についての同情や何某かの感情を求めていない。
「……で、その答えはいくら自分の中を探しても見つからない。それでも探して探して探して……それに答えるはずの”自分”は、唐突にこんなことを言った。『空が綺麗だな』って」
「!? もしかして、それが……」
「そう。オレが初めて自分の意志で話した瞬間で、あいつが時々空を見上げてぼーっとしてる理由だよ」
「なっ……」
あぁ、それはいくら聞いても「なんでもない」って答える訳だ。
だって、空を見ている理由なんて、本当になんでもないんだもの。ただ見つからない答えを探す中で、ふと目を逸らした先に、青空があっただけ。……今も空を見上げ続けているのは、疑問に思ってもその答えが自分の中にないのだと、気付いてしまったからだろう。
「まぁそれからと言うもの、何か困ったときに”自分”に問いかけるまでもなく答えが返ってくるようになって、それがあるからどうにか日常生活を送れてるって訳だ。学校じゃ極力話さないようにしてるからあんなだけどな」
「……そっか」
なんだから今日いちにちで、いくつも謎が解けている。彼の過去も、空を見てる理由も、学校でだけ極端に生活が送れない理由も。
けど、ここで疑問がひとつ残る。
「あなたは……それをわたしに話してどうしたいの?」
学校では話さないようにしている――独り言を聞かれないためだろう――のなら、身の回りのことはオレがやらせるから必要ない、というのは違うだろう。けど、かと言って”彼”が自分の存在をわたしに知らせたかっただけにも見えない。
「それは――っと」
そこでタイミング悪く注文した料理が届く。決まり文句の「ごゆっくりどうぞ」がいつも以上に社交辞令にしか聞こえなかった。彼の話し方とわたしの様子を周りからみれば、まるで別れ話の最中にでも見えるだろうから。……まだ付き合ってもないのに。
「……とりあえず、先に食うか」
「……そうだね」
それからわたしたちは無言で食べ進めた。ほどよく弾力のある麺も、濃厚な卵も、アクセントに振りかけられたコショウも、そのどれもが額縁の向こうの写真を見ているように、そこにあるものをぼんやりとしか感じない。
結局一言も交わさないまま、一度もまともに味を感じないまま食べ終わる。先に食べ終えて待っていた”彼”の「出よう」という提案に、特に反対する気もなかったので、そのまま店を出る。
……しれっと自分ひとりで全額出したところだけ、いつもの生駒くんの姿に見えた。丁重にお断りした。
「……それで、結局どうしたかったの? わたしに自分のことを知らせたかっただけ……って感じでもないけど」
答えの返ってきていなかった問いを、もう一度投げかける。
”彼”は小さく深呼吸して。
「言った通り、オレたちは普通の二重人格とは違う。そもそも、本当にそう呼べるようなもんなのかもわからねぇ。自問自答の相手に無理やりキャラ付けしてるだけ……かもしれねぇしな」
「…………」
「……けどさ。そんなあやふやなモンにでも縋らなきゃどうしようもねぇってほどに、あいつはとっくに限界なんだ。ちょっと前までは、オレが表に出てくることなんて絶対有り得なかったんだぜ? そもそも役割を果たすだけなら、あいつの疑問に答えてりゃいいんだし」
「……だったら、どうして」
どうして出てこれるようになってしまったのか。
「お前と関わるようになったからだよ」
「……!!」
あぁ、そういうことか。
「あいつは自分……オレっていうだけに頼って、それでもなんとかやっていた。けどお前っていう、他に頼れる相手が出来ちまった。多分お前が思ってる以上に、祐樹はお前に気を許してるよ。けどな」
「けど……何?」
さっさと言って欲しい。わたしだって、そこまで察しの悪い人間じゃない。
「あいつは、人がいつ死ぬか分からねぇことを知っている。その身をもってな」
「……っ!」
どうして悪い予感というものは、ここぞという時に外れてくれないんだろう。
「……いついなくなるか分からない相手には、気を許せない。頼って、縋って、いないとどうしようもないくらいに大切になってしまったら、別れるのがもっと辛くなる――そういうこと、なんだね」
彼は何も言わない。やっぱりそういうことなんだ。
優花さんと別居しているのはともかく、連絡もほとんど取り合っていなかった理由が、これで合点がいった。生駒くんにとってそれは、たとえ自分の姉であっても例外じゃないんだ。
「……勘違いするな。あいつだって別に迷惑がってる訳じゃない。身近に感じてるからこそ苦しいんだ。
――だから、あいつをこれ以上苦しめないでやってほしい。後は一生かけて、オレがやる」
それは、明確すぎる”断絶”の意志だった。
わたしが絶対に聞きたくなかった、
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