魔王に浮気疑惑です


 アランの一瞬の隙をついたネルが、その場を飛び出した。すぐに反応したアランも、ネルの後に続く。

 ネル自身、どうしてそのときそんな行動を起こしたのか、正直分かっていなかった。

 だってこれは、考えての行動じゃない。闖入者の正体が、月光を溶かし込んだような見事な金の髪で、紫水晶アメジストみたいな深みのある紫眼だと認識した途端、身体が勝手に動いてしまったのだから。

 自分にはないその可憐な姿が、いつも妬ましいと思っていた。

 それは、その全てが、あの人を夢中にさせていると知っていたからだろう。

 だからネルは、猛スピードで闖入者へと向かう自分を、そして腹の底から沸き起こってくるぐちゃぐちゃな醜い感情を、もう、止めることなんてできないでいた。


「――――っ!」


 アランが叫ぶ。焦りの声で。

 それは、止めるための名前だったのか、それとも守るための名前だったのか。

 願わくは、せめてこういうときくらい、自分を選んでほしいと思ったネルである。


 *


 幾分か落ち着いて、エレーナの部屋を出た後のこと。メルヴィナは、部屋ではなく外に出ていた。

 部屋に戻っても、たぶんまだ眠れないだろう。気分は落ち着いても、脳の整理ができていない。夜風に当たりながら冷静になろうと、メルヴィナは昼間のベンチに向かっていた。

 が、そこに辿り着く前に、彼女はふと足を止める。なんとなく、今一番聞きたくて、でも聞きたくない声に名前を呼ばれた気がしたから。


「アラン……?」


 探すように後ろを振り返った、その刹那。

 身を切るような向かい風に襲われて、メルヴィナは咄嗟に両腕で顔を覆った。

 風が止み、静寂が空気に溶け込んでいく。

 風のいたずらだろうか。それにしてもすごい突風だったと思いながら、メルヴィナはゆっくりと腕を下ろしていった。

 開けた視界の先に、一人の男が現れる。それがアランの背中だと分かるのに、そう時間はかからなかった。


「アラン? どうしてあなたがここに……」


 いきなりすぎて、思わずそう訊いてしまう。


「それはこちらのセリフです、メルヴィナ様。私を遠ざけておきながら、こんな夜中に外を出歩くとは感心いたしませんね。さあ、今すぐお部屋にお戻りを」


 常とは違い、その声は突き放すように冷たかった。いつものアランとは違う態度に、メルヴィナはびくりと肩を震わせる。

 さっきアランから逃げたこともあり、なおさら気まずい思いをした。ここは、言われたとおり部屋に戻ったほうがいいかもしれない。そう、思ったのに。

 運悪く、とでも言えばいいのか。踵を返そうとしたときに、メルヴィナはアラン以外の存在に気づいてしまった。彼の腕の中にいる、見知らぬ女性の存在に。


(だ、れ……?)


 ドクン、と胸が騒いだ。嫌な騒ぎ方だ。ドクン、ドクン――ドクドクドクドク。

 口が勝手に開いていく。乾いた空気が喉を通る。やめて。やめろ。やめなさい。それを訊いたら、後戻りはできないのに。


「ア、ラン。その方は、お知り合い?」


 訊ねた後に、自分はなんてバカなんだろうとメルヴィナは思った。

 だってアランが。アランが、メルヴィナに質問されたそのときに、腕の中の存在をさらに強く抱きしめたから。

 

(なんで……なんでそんな、私から、隠すみたいな……)


 ぎゅっと唇を噛む。メルヴィナが悟るには、十分すぎる行為だった。

 誰かを抱きしめるアラン。その腕の中には、夜目にも分かるほど美しい曲線美を持つ女性。

 メルヴィナから隠そうとするということは、二人の関係は秘密だったのだろう。だから、メルヴィナは知らなかった。今の今まで、アランに〝そういう人〟がいたことを。

 打ちのめされるメルヴィナに、アランがとどめを刺してくる。


「メルヴィナ様には関係ございません。それより、早くお部屋に戻ってください。今はあなた様が気安く出かけていい時間ではありませんよ」

「……っ」


 心を刺されるとは、こういう感覚なのだろうか。まるで熱した鉄に刺し貫かれたような激痛だ。熱いのと痛いのが同時にくる。

 関係ない、だなんて。

 そのとおりすぎて、何も言い返せなかった。


「……そう、ね。悪かったわ、邪魔をして。もう行くから、あなたもあまり遅くならないようにね」


 なけなしのプライドを掻き集めて、メルヴィナはそう言った。走りたくなんてなかった。走って、逃げるように去ってしまえば、自分が傷ついたことを認めてしまう。

 だからメルヴィナは、いつもの聖女然とした足取りでこの場を去っていく。


(そう、そうだったの。まさか、あのアランにね)


 彼は呼び止めない。メルヴィナは後ろを振り返れない。アランの相手が気になって仕方ないくせに、知るのが怖いとも感じている。


(でも、不思議なことじゃないわ。変態だけど、それを差し引いても、アランは素敵な男性だもの)


 ようやく建物の中に入った。

 もう彼の目が届かないと安心したからか、メルヴィナの足がだんだん早歩きになっていく。


(背が高くて、かっこよくて。強くて、気配り上手で。料理だって上手だし、お茶を淹れるのも上手だわ。そんな人、女性が放っておくわけないものね)


 しまいには、メルヴィナは走り出していた。息が切れてもお構い無しに。


(だからこれは、自然なこと。他の女性のものになったってって言ったのは、私じゃない)


 は、は、と呼吸を乱しながら、メルヴィナは部屋へと辿り着く。

 乱暴に扉を開けて閉めると、そのままずるずると崩折れた。

 

「っ、だったらなんで泣いてるのよ、バカ……」


 ひとり言が、静寂の中にぽつんと落ちる。

 頬はすでに濡れていた。

 彼の腕の中の存在に、どうして気づいてしまったのか。


「最悪よ。なんで今さら、そんなもの見せてくるのよ……っ」


 アランのバカ、と小さく非難する。なんで今さら、そんな光景を見せるのか。気づかせるのか。この程度も耐えられないなんて、気づきたくなかったのに。

 たかが抱擁。されど抱擁。

 メルヴィナは、〝たかが〟と言える自分でありたかった。

 なのに結果はどうだ。〝されど〟と言わざるを得ない自分がいる。


「バカ、バカ。アランのバカ、鬼畜、変態っ」


 なんで自分は王女なのだろう。聖女なのだろう。

 もう何度目かになる問いかけを、心の中で繰り返す。王女でなければ、聖女でなければ、彼を好きでいてもよかった? 許された?

 詮無い自問。分かっている。それでも思わずにはいられない。

 窓外の夜空は、憎らしいほどに輝いている。自分が浄化したからなのだが、今はそれを誇らしいとも思えなかった。この幻想的な空の下、二人が逢瀬を交わしていたのかと思えば。


「ふふ、笑っちゃうわ。聖女失格もいいところね」


 まさか自分が、これほど醜悪な心を持っていたとは。笑える。何が聖女だ。何が慈悲深い心だ。今のメルヴィナの心の中は、ドス黒い嵐が吹き荒れているのに。


「あー……やだ、やだわ。やだやだ。どう考えてもまずいじゃないの、これ」


 嫉妬とは、なんて恐ろしい感情だろう。自分が自分でなくなってしまう。衝動のままに任せたら、きっとメルヴィナは今すぐにでもあの女性に喧嘩を売りにいく。

 でもそんなことをして、アランに嫌われたくはないのだ。それだけが、メルヴィナの衝動を抑えている。


(そうよ、今は、好きなだけ泣けばいいわ。今なら大丈夫。誰も来ないから)


 人前では泣けない。泣かない。だって聖女だから。こんなときにも自分の運命を意識させられて、余計に涙が溢れてきた。


(もういい。今は、好きなだけ泣いてやる)


 開き直ったともいうけれど。

 泣けるときに泣いてしまうのが、賢い立ち直り方だと知っている。

 それに、明日はアルマ=ニーアに向けて出発するのだ。この気持ちを引きずって、また浄化を失敗するわけにはいかないから。

 だから、涙も、負の感情も、出せるときに出してしまう。


「……鼻水が……」


 ずびっと鼻をすする。色々と出しすぎて、酷い顔になっている。自覚はあるが、どうせ誰にも見られない。構うものかと、メルヴィナはまた泣いた。


(明日、どうしようかしら)


 悩むのは、明日、アランとどんな顔で会うかだ。嫉妬に塗れた女の顔は、もちろん却下である。なら主として、知らないふりをしてあげる?


(……自信がないわね)


 だって、アランの顔を見ただけで、たぶんまた泣いてしまうような気がしたから。

 

(じゃあ、聖女の顔?)


 ああ、それがいいかもしれない。メルヴィナにとって、一番慣れ親しんだ対応だ。一番、猫をかぶりやすい顔だ。


(そうね。きっと大丈夫。大丈夫よ。私は聖女なんだから。大丈夫、大丈夫……)


 ゆっくりと、深呼吸する。涙を服の袖で拭いながら。大丈夫、大丈夫、と繰り返す。

 自己暗示をかけるように。


「大丈夫。だって私は、聖女なんだから。聖女なら、笑っていなくてはね」


 そう、それが、メルヴィナの運命だから。

 ――〝聖女とは、誰にも愛情の心を持ち〟


「〝自分のことより、他者を思い〟……――」


 夜が更けていく。

 メルヴィナは、珍しく聖女の教えを口にした。アランと出会う前は、一人寂しい夜に、こうして何度も呟いていた。

 この教えは嫌いだけれど、慣れというのは怖いもので。

 聖女なんだから、という言葉は、意外にもメルヴィナを助けてくれることがある。

 たとえばそう、こんなふうに、悲しいことに押し潰されそうになったとき。

 聖女なんだから、と唱えれば、無理をしてでも頑張らなきゃいけなくなる。


「だから大丈夫。きっと明日には、もう」


 ちゃんと、笑えているはずだ。

 そのためにメルヴィナは、自分の猫に〝涙〟という餌をこれでもかと捧げた。


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