魔王はご機嫌斜めです
愛しい主に今夜はもう休むようにと言い逃げされたアランは、不機嫌を隠しもしないで〝神官〟に与えられた部屋に籠っていた。
機嫌が悪いのは、拗ねているのが大半だ。誰よりも大切な存在が、自分の腕の中から逃げていった。それは、アランにとって心を焼かれるほどの苦痛だった。
(なぜですか、メルヴィナ様……っ)
苛立ちも募る。どうして逃げたのかと。あなたが頼るべき存在は、自分だけでいいのにと。
脳裏に蘇る。エレーナの背中に隠れて、自分を見ようともしないメルヴィナの姿が。
(っ、そこは私の場所です。他人がたやすく奪っていい場所じゃない! ああ、メルヴィナ様。メルヴィナ様が足りない。少し、焦りすぎたのでしょうか)
攻めれば逃げられることくらい、容易に想像できたのに。
だからゆっくり、じわじわ、時間をかけて彼女の感覚を麻痺させていく予定だったのに。
まさか、自分がこうも我慢のきかない男だとは思わなかった。
(結局今日は全然触れませんでした。ですが、今夜はもう部屋に来ないよう言いつけられていますし……)
それはなんの拷問だ、とアランは思う。
もちろん、触れないからという意味もある。が、それだけじゃない。別の意味でも拷問だった。
というのも、彼女はいつも、ちょっと目を離した隙に何かに巻き込まれているからだ。
あるときは、アランの目を盗んだ不届き者に口説かれていて。(もちろんそのあと二度と調子に乗らないよう完膚なきまでに叩き潰し)
またあるときは、弱い魔物にからかわれて行方不明になっていた。(その魔物は当然灰にして)
酷いときは、上級の魔物に喰われそうになっていたこともある。(こちらは知能がある分、生き地獄を味わわせてやった)
ちょっとだ。
本当に、目を離した一刻にも満たない隙に、彼女はそんな事態に陥っていた。
これでそばを離れろなんて、やはり拷問以外の何ものでもない。
心配で心配で、とにかく心配で。本当に気が狂いかけた。今日の魔物退治のときは、ジルに八つ当たりのごとく魔物をけしかけることで気を紛らわせたが、あんな思いは二度とごめんだった。ましてや自分のいない間に他の男に
本当は、どんなときも離れてなんていたくない。彼女が寝ているときでさえ、かたわらに控えていたいのに――
「い、いたぁーーー!!」
突然、窓の外から叫び声が響いた。それが聞き知っている声だったから、アランは分かりやすく片眉をつり上げる。
「ひっ」
叫び声の
男女の二人組。それが、二階に位置するこの部屋の外にいる。
男のほうは目が大きく、女に見えなくもない容姿だ。
逆に女のほうは、女にしては鋭い目つきで、背筋もぴんと伸びている。男より凛々しい雰囲気だった。
完全に、性別逆のほうがよかったのでは? と言いたくなるコンビである。
さらに加えるなら、このコンビは、男よりも女のほうが強かった。
しかし、強者が絶対とされる魔族ならば、男だろうが女だろうが関係ない。強ければ、女らしくなくても、男らしくなくても、尊敬の眼差しを注がれる。
そう、窓の外で難なく空中に浮く彼らの正体は、魔王に仕える魔族だった。
「お久しぶりでございます、魔王陛下。文句を言いたいことがたくさんございますので、中に入れてくださいますね? 入れてくださらないなら今ここで暴れる所存ですが」
見た目は人間と全く変わらない、けれど人間にはない
「ちょっ、ネル!? アラン様にそんなこと言って知らないよ!? 僕、とばっちりはごめんだよおおお!?」
「黙りなさいネロ。情けない。お願いだからその涙を引っ込めて。眼球を抉り出せば止まるの?」
「仮にも双子の兄にそれは酷いよっ。なんでそんな毒舌なの。ドSな妹なんて需要ないよ! だからアラン様にも――」
「殺されたいの、ネロ」
「ひわわっ」
窓の外は随分賑やかだ。結界を己にまとわりつかせているようなので、これだけうるさくても他の者に来訪を悟られることはないだろう。
しかしその騒がしさも、すぐに時が止まったように静かになった。アランが放った殺気のせいで。
「私からすれば、二人とも死にたいように見えますが」
ぞわりと、二人の肌が総毛立つ。耳がいい彼ら魔族に、窓という薄皮など意味がない。おかげでアランの凍えるほど低い声が難なく聞こえた。
このときばかりは、よく悲鳴を上げる兄のネロでさえ、声を失って慄いている。
彼らは、来るタイミングを間違えたのだ。
「私は来るなと言ったはずですが。なぜ、おまえたちがここにいるのでしょうね?」
変な汗が背中を滑った。
「あ、ああああの! これは、その、ですね」
「……畏れ多くも、魔王陛下であらせられるアラン様に、そろそろヴォルスゲニアにお戻りいただきたく進言申し上げに参った次第です」
ようは、魔族が住まう、ひいては魔王城に戻って来いと。
「なるほど。どうやら本当に失礼なことを言いに来たようですね。私は私の役割をちゃんと果たしているはずです。それ以外で私が何をしようと、私の勝手でしょう? ――もう一度訊きます。ネロ、ネル。おまえたちは、何をしに、ここへ来たのでしょう」
底冷えする微笑みだ、と双子は思った。
これでも魔族の中ではナンバー4とナンバー5の彼らだが、そんな彼らでさえ逆らいたくないと思わせる、圧倒的な力の差。
アランの側近として、人のものさしで言えばそれなりに長く仕えてきたが、王がここまで怒りを露わにするのは初めてだ。
こくりと唾を呑み込んで、ネルは意を決して口を開いた。
「お言葉ですが、人間の茶番に付き合うのはもうおやめくださいと申し上げているのです。無闇にお力を使えば、その分アラン様の寿命が縮まることになりましょう。たかが人間の小娘など、わざわざアランさま、が……――――かはっ」
「ネル!?」
話の途中でネルの腹に直撃したのは、アランの容赦ない攻撃だった。彼の瞳の奥に、金の揺らめきがちらついている。アランが本気の証拠である。
しかし、手加減はされていたのか、死ぬほどの攻撃ではない。血が流れたくらいなら、むしろ温情を賜ったというものだ。
アランが、優雅とも言える動作で外に出た。
「ア、アラン様っ、申しわけ、妹が、申し訳ありませんっ! 出直します! 今すぐ出直させていただきますのでっ」
ですからどうか、この場は見逃してくださいッ!
ペコペコと頭を下げて、涙目でネロが懇願する。けれど、そんな彼にアランが向けたのは、無慈悲な冷笑だった。
「残念ですがネロ、おまえの妹は侮辱してはならない御方を侮辱しました。それを私に見過ごせと?」
「め、滅相もこざいません! ただネルも、その、アラン様のことを心配して……っ」
「――たかが人間の、と言いましたか」
「ひっ」
アランの研ぎ澄まされた殺気が、さらに膨れ上がる。
「おかしいですね、ネル? 昔は私も、そのたかが人間だったのですが」
「っ! 失言でした。お許しください、我らが王」
さすがのネルも、これには血の気を引かせた。彼女が生まれる前からアランはすでに魔王だったので、魔族の中でも上位の者しか知らないその事実を、すっかり失念していたのだ。
「ではネル、ネロ。今すぐヴォルスゲニアに戻り、たぬきにこう伝えていただけますか。私の邪魔をするのであれば、ヴォルスを更地と化して差し上げましょう、と」
「えっ、なんで分か……」
「どうせおまえたちをけしかけたのは、あの
実は魔族たちにも、王のかたわらには人間と同じような役職に就く者たちがいる。
人間と違うのは、その役職がそのまま実力主義のもとに決められているところか。だからこそ、魔王の右腕と呼ばれる宰相は、魔族のナンバー2である。
彼は先代魔王が残した魔族なので、アランよりも年上だ。何かと口うるさいたぬきジジイ、というのがアランの彼に対する印象だった。
「私はメルヴィナ様のおそばを離れるつもりはないと、あのたぬきにはよく言い聞かせたはずです。役目を全うするならそれで良いと、あのたぬきも頷きましたからね。今さら横槍を入れてくるなと伝えておきなさい」
「はいぃ了解しましたあ!」
元気よく返事をして、ネロは妹の肩を抱く。無理やりこの場から離脱させようとすると、当の妹のほうが抵抗した。アランにまだ言い足りない様子だ。
押しても引っ張っても動いてくれない妹には、兄が目も当てられないほど焦っている。
「ネル、ネル。お願いだから今はやめよう戻ろうすぐに立ち去ろう!?」
アランの機嫌をこれ以上損ねれば、それこそ殺されると分かっているからだ。
なのに、涙目で懇願しても、ネルは兄を完全に無視していた。納得のいかなそうな目つきで、ともすれば、酷く傷ついたような表情で――
「なぜですか、アラン様……!」
悲痛な声音を、吐き出した。
「なぜ、そうまでして聖女にかまうのです? 彼女は一国の王女です。たとえ勇者と結ばれることがなくとも、いずれは別の男と結婚する身! そんな女のそばに、なぜそうまでしていようとするのです!?」
今まで溜めていた鬱憤を晴らすように、ネルが一気に捲し立てた。そんな妹の叫びを聞いて、兄はたまらず引っ張っていた手を止める。妹を憐憫の目で見つめた。
この片割れが、心底アランに憧れていることを、兄はもちろん知っている。そしてその憧れが恋に転じていることも、兄は早くから気づいていた。
何よりも、自分の片割れのこと。いつも一緒にいるからこそ、その純粋な想いに気づかないわけがない。
だから、兄は憐憫の眼差しを送ったのだ。どんなに妹がアランを想おうと、彼の心の中にはたった一人しか存在しない。可憐で、無邪気で、
案の定、問われたアランはというと。
さらに機嫌を急低下させた絶対零度の瞳で、ネルを静かに見返していた。
「言いたいことは、それだけですか?」
凪いだ風のように静かな声だった。なのに、本能が警鐘を打ち鳴らす。心臓はどくどくと忙しなく動き出し、アランから降りかかる重圧で息が止まりそうだ。
「どうしました、ネル。私の問いに答えられませんか?」
「――っ」
「それは残念ですね。もっと面白いことを聞かせてもらえるかと期待したのですが」
さて、とアランの顔から笑みが消える。
「一度ならず二度までも、『そんな女』と、メルヴィナ様を侮辱しましたね? まさかあなたがこれほど愚かな女性だとは思いもしませんでした」
怒りの沸点などとうに超え、〝怒った〟という表現が赤子のようにかわいらしいほど、今のアランからは凄まじい怒気を感じる。
ヤバイ、とネロが思ったときには、アランは長剣を手に持っていた。
両刃の剣だ。剣身の根元には、水晶が埋め込まれている。元は透明だっただろうそれは、今は三分の二ほどが濁っていた。使い手を選ぶ、気難しい剣である。
その長剣を認めた双子は、顔から色を失くした。アランがこの上なく本気だと悟ったからだ。
「さあ、どんなふうに痛めつけてほしいですか? 要望くらいは聞いてあげましょう」
アランが剣を構えた――そのとき。
下方から、ふいに人の気配がした。夜中だというのに誰かが外に出てきたらしい。
アランは眉間にしわを寄せる。邪魔が入った、と思ったが。
現れた人間の正体を知って、そんな思いも吹き飛んだ。だってそこにいたのは、アランが何よりも、誰よりも大切で愛しいメルヴィナだったから。
アランの動きが一瞬止まる。
そしてその一瞬が、全てを決めた瞬間だった。
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