聖女は魔王を拒絶します


 アランを本気で怒らせた、とメルヴィナは彼の笑みを見て思う。凄みがいつもと違った。色気も尋常じゃない。本気で怒れば怒るほど艶めく、アラン特有の怒り方だ。

 が、正直メルヴィナは、ヴァリオにそんなことを囁かれた覚えがない。浄化を終えてからは、ずっとアランたちのことを考えていた。

 いや、そのほとんどがアランのことだ。メルヴィナとしてもアランとこれほど長く離れていたのは初めてで、なんだか落ち着かなかったから。いつもそばにいる人がいないというのは、思ったよりも心を不安にさせるらしい。

 しかし、これをどう伝えるべきか。メルヴィナはそれに悩んだ。自分の想いは間違っても言えない。では誤魔化す? 下手なことを言えば、ヴァリオは確実に殺されるだろう。アランによって。

 さて、どうしたものか。


「さあメルヴィナ様、私にお命じください。ヴァリオ・コスドの抹殺を」

「あのね、アラン。それはいくらなんでもやりすぎだわ。私も油断していたのがいけないし」

「そうですね。それに関しては同意いたします。あなた様の髪の毛一本でさえ、私以外の者が触れるなど我慢なりません」

「あなたもダメに決まってるでしょ」

「ご冗談を」

「冗談じゃないから」


 はぁ、とメルヴィナは深く息を吐く。

 このやりとりも、いったい何度繰り返したことか。ダメと言って止めるような男でないことは、メルヴィナももう知っている。

 でも、念には念を入れておかないと、また昨日のように……


「では、メルヴィナ様もお気をつけください」

「えっ」


 なんの前触れもなく、後ろから顎をくいっと上げられる。無理やり固定された視界の先には、アランの綺麗な顔があった。

 でも、そこに笑みはない。あるのはメルヴィナの心を見透かそうとする、強く熱い眼差しだった。

 それはまるで、昨夜の扇情的なアランのようで。


「っ、アラン、離して」

「メルヴィナ様がこんなふうに隙だらけだから、この男のように調子に乗る輩が減らないのです」

「反省してる! してるから、いい加減に――」

「ほら、あと少しで、キスもできてしまいますね?」


 キス? とその意味を理解するより先に、アランとの距離がぐっと縮まった。

 アランの少しだけ長い前髪が触れて、アランの吐息が顔をくすぐる。近い。近すぎる。


「〜〜〜〜っンの」


 あまりに近くて、顔はどうせ真っ赤になっているのだろう。自覚している。

 これはからかわれているのだろうか。昨日のことがある。きっと彼はからかっている。

 でもさすがにこれは、おふざけの域を逸脱していた。

 だって、あと数センチで本当に唇と唇が触れてしまいそうなのだから。


「メルヴィナ様?」

「……ンの」

「はい?」

「アランの」

「はい」

「アランのっ、大バカ変態人でなしッッッ!」

「――ぐふっ」


 メルヴィナは叫ぶと同時に右足を振り上げた。渾身の力で落とされたそれは、アラン――ではなくて。

 アランが素早く身代わりにした、ヴァリオへと落ちた。


「う、わー……もろ入ったな、あれ」

「自業自得ですわよ」


 端でジルとエレーナがそんな会話を交わしていたことなど、このときのメルヴィナが知る由もない。


「メルヴィナ様、なかなか強烈な、良いかかと落としです。私にもぜひ、夜にやっていただけますと盛り上がります」

「盛り上がるってなによ! ていうかなんで逃げるの!」

「まずはこの男に制裁をと思いまして」

「どうするのよっ。コスド様、白目向いてない?」

「さすがはメルヴィナ様です。これからもぜひ、不埒な輩にはそのようなご対応をお願いいたします」

「しないわよ!」


 すっかりアランの空気に流されている。飼っている猫は、最初はなから諦めモードに入っていた。おかげでさっきから怒鳴りっぱなしだ。

 いつものアランなら、ここまでメルヴィナを怒らせることはない。公務のとき、お茶会のとき、パーティのとき。今までの彼は――人目のあるところ限定だが――王族の騎士にふさわしい振る舞いをしていた。だからメルヴィナの猫も大人しかった。

 なのにどうしてか、旅が始まってからのアランは自分の奇行を隠そうともしない。おかげでメルヴィナの猫は、行儀よくしようと頑張っても、結局毛を逆立てることになっている。


「最近のあなたはタチが悪いわ。昨日といい、さっきといい、私で遊ばないで」

「昨日、と言いますのは、私がメルヴィナ様にキスをした件ですか?」

「は!?」

「まあ……」


 アランの嘘に、ジルとエレーナが真っ先に反応した。嘘だけれど完全な嘘でないことが、メルヴィナの羞恥心を刺激する。


「へ、変なふうに言わないでくれる!? 違うんです、クラウゼ様、エレーナ様。キスと言っても、挨拶のキスなんです」

「あらあら」

「うわ、ヘタレか」


 ジルのツッコミには、アランの額に青筋が浮かんだ。どうやら火がついてしまったらしい。アランは笑顔を貼り付けたまま、メルヴィナの腕をがしりと掴むと。


「ちょっと、アラン?」

「あれが挨拶のキスですって?」

「……え?」


 なんだか、アランから不穏な気配が漂ってくるのは気のせいか。


「なるほど、そうですか。私があんなに想いを込めて送ったキスを、メルヴィナ様はたかが挨拶のキスと仰るのですね」


 あ、これヤバイやつだ。そう思ったのはメルヴィナだけじゃない。ジルも思った。なぜかエレーナだけは、楽しげに目を細めていたが。


「分かりました。では、昨晩のものよりも、もっと濃密で深い大人のキスを送りましょう。ええ、ちょうど私も、あんな軽いキスでは満足しておりませんでしたので」

「ア、アラン? なんか話がおかしくなってるわ。一度落ち着かない? 冷静になりましょう」

「いいえ、私はいたって冷静ですよ。さあメルヴィナ様、そのかわいらしいお口を開けてくださいますか?」


 メルヴィナは、逆にきつく口を閉じた。彼女だってもう十八歳だ。男女のあれやこれについて、たとえ経験がなくとも知識はある。そして、メルヴィナが知っているということを、アランもまた知っている。絶対に開けるものかと、口元にしわができるまで力を入れた。

 それを見たアランが、くすりと笑う。


「まあ別に、そのままでも構いませんけれどね」


 無理やりこじ開けるのも楽しそうです。そう囁きながら、アランが本当にそのまま近づいてきた。

 逃げようともがいても、アランの力には敵わない。メルヴィナの頭は完全に混乱していた。

 心臓なんて、今にも爆発しそうである。


(な、なんでこんなことになってるの!?)


 躱す、のは無理だ。なにせアランのほうが強いのだから。

 足技で難を逃れる、のも無理だろう。どうせ押さえつけられる。

 

(じゃあ、じゃあ……っ)


 そうだ。一つだけ、アランに有効な技がある。メルヴィナは閃いた。自分だけが使えて、アランだけに効くものが。

 メルヴィナは、固く閉じていた口を大きく開け、ありったけの力で叫ぶ。


「アラン! 今すぐ私を離さないなら、あなたとは一生口を聞かないわ!」


 その瞬間。

 さっと、脊髄反射のごとく、アランがメルヴィナを離す。効果覿面だ。

 アランはすぐに「しまった」と自分の失態に気づくと、歯噛みした。引き戻そうとしたときには、もうメルヴィナはエレーナの元に逃げていて。その背中に隠れる彼女は、完全にアランを拒絶していた。


「メルヴィナ様……?」

「近寄らないで! アラン、あなたには私がいいと言うまで、私への接触を禁止するわ。破ったら絶交だから」

「ぜっ……!?」


 あまりに酷い仕打ちに、さすがのアランも愕然とする。「ぜっこう……」と呆然と呟く様は、かわいそうなくらい悲愴感が漂っていた。

 メルヴィナはつい絆されそうになる自分をぐっとこらえると、そんなアランを無視して。


「エレーナ様、クラウゼ様。ごめんなさい。今日はもうお部屋に戻りませんか? 明日は次のアルマ=ニーアに向かいますし、早めに休んだほうがいいと思うんです」


 二人にそう提案した。

 二人とも一連のやりとりをスルーすることにしたのか、あっさりと頷いてくれる。


「メ、メルヴィナ様」


 しかし、アランの動揺した声がメルヴィナを呼び止める。メルヴィナはそれすら無視した。エレーナの袖をぎゅっと握って、アランを見ようともしない。それが、アランの心をさらに抉る。

 近寄らないで。触らないで。そう拒絶されただけでなく、今メルヴィナは、自分以外の人間を頼っている。彼にはそれが信じられなかった。

 今までだったら、父王より、母王妃より、そして家族の中では一番親しかっただろう兄王子より、自分が率先して頼られていたというのに。

 その悪夢のような光景に、アランは自分が今どこに立っているのかさえ分からなくなる。メルヴィナにこれほど拒絶されたのは、これが初めてだったから。

 エレーナが、溜息混じりに言う。


「アラン様も、自業自得ですわね。とにかく今夜は各々で食事を摂ることにいたしましょう。司祭様たちにはわたくしから申し上げておきますわ。ですから皆様、どうぞ明朝までに頭を冷やしておいてくださいませね」


 この提案に異を唱える者など、この場にはいなかった。


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