第一話 魔王は護衛中です
魔王は変態のようです
窓から差し込む淡い光が、心地よい目覚めを促す静かな朝。
洗練された調度品ばかりが揃うこの寝室に、部屋の四分の一を占める、これまた立派な天蓋付きベッドに沈み込んでいる一人の少女がいた。
聞こえてくる寝息は規則正しく、まだ彼女が夢の中にいることを教えてくれる。
淡い桃色と空色、そして白で統一されたこの部屋は、王女の唯一心休まる場所だった。だからこそ、この部屋に入って来られる人物は限られている。
「……っ」
まず、王女付きの侍女たち。彼女たちは部屋の掃除を任せられており、また隣に備え付けられている湯殿で入浴の手伝いもしてくれる。
が、彼女たちの仕事は、あくまでそれだけ。ゆえに、朝から寝室に足を運ぶことはない。
なら、王女の身の回りの世話は、いったい誰がやっているのか。
外では小鳥も目覚めたのか、チュンとかわいらしい鳴き声が聞こえてくる。そのさわやかさとは対照的な黒い影が、王女――メルヴィナにかぶさった。
「ああ……」
メルヴィナの寝顔を覗いた男が、うっとりとした溜息をこぼす。
メルヴィナはまだ起きない。足音はおろか、彼は己の気配さえ消していた。全ては、目の前で眠る無防備で愛らしい王女をいつまでも眺めているために。
初めて会った頃から四年が経ち、十八歳となったメルヴィナ。彼女は蕾が花開くように女性の身体へと成長した。
肌は白く、なめらかで。太ももや二の腕、そして胸には柔らかそうなお肉がほどよくついて。まさに食べ頃だと、誘惑に負けそうになる。
しかし、彼女の中で一番に目を引かれるのが、その瞳に違いなかった。
彼女の瞳は、珍しい
「……んん……」
メルヴィナが寝返りを打った。その拍子に短い声が漏れる。
そんなことにすら、男――
ほぼ無意識に、彼の手はメルヴィナへと伸びていく。それが彼女の足に触れようとした、そのとき――
「触ったら一生口聞かないわよ」
メルヴィナの鋭い声が、アランを制した。
「おはようございます、メルヴィナ様。よく眠れましたか?」
「白々しい。あなた今、私の足にまたキスしようとしたでしょ?」
「そんな……私のような者がメルヴィナ様のおみ足に口づけるなど、畏れ多いことにございます」
そう言いながらも、アランのにこにことした笑みはちっとも崩れない。
「まっっったくそんな風に見えないけど?」
「気のせいです」
「アラン、私は言ったわね? 忠誠を誓うだか何だか知らないけど、足の甲にキスするのはやめてって」
「ええ。ですから今は、足の裏にキスを……」
「もっと嫌よ!」
心地いい朝が台無しだ。
けれど、これは今に始まったことではない。
「畏れ多いって言ったわよね、今」
「畏れ多いですが、触らないとは申しておりません」
どんな屁理屈よ! メルヴィナは衝動的にそう怒鳴りたいのをなんとか堪えた。
「だいたい、気配を消して入って来るなとも言ったわよね。お願いだから普通に起こして」
「分かりました。メルヴィナ様がそう仰るのであれば、普通に、起こしに参ります」
「……アラン、普通の意味、本当に分かってる?」
「もちろんです。今までメルヴィナ様のお気持ちを汲み取れず、大変申し訳ございませんでした。気配を消すなということは、つまり私の存在を存分に味わいたいということですね? ええ応えましょう。次からは気配を消すことなく、存分に存在を感じていただくため、まずその神秘的な御髪から……」
「もういいわ。今のは聞かなかったことにして」
「といいますと?」
「~~っ気配を消してもいいから足にも髪にも頬にも
「さすがメルヴィナ様。私が申し上げていない『頬』にも先手を打つとは、私のことをよく知ってくださっているのですね」
アランが蕩けたような瞳で微笑む。そしてこの緩みきった笑みには、どうにも弱いメルヴィナだった。
だってその瞳からは、惜しげもない愛情が伝わってくるから。それがたとえ敬愛の部類に入るとしても、見目のいいアランからそんな眼差しを差し出されれば、平常心でいろというほうが難しい。
むしろ、メルヴィナはよく耐えている。
アランがこんな油断した笑みを向けるのはメルヴィナにだけだが、極たまに、メルヴィナに向けたそれを他の令嬢が見てしまったときなんかは、気絶者が相次ぐ事態となる。
――この人、微笑みで人を殺せるわ……。
メルヴィナがそう思ったのは、数知れず。
でもそれは黙っていれば――というより、彼の性格を知らなければ、という条件付きだ。
残念ながら、メルヴィナはアランに見惚れる前に本性を知ってしまったので、ときめくことはあっても気絶はしない。初対面でいきなり人の脛にキスをする人間なんて、世界中どこを探してもこの変態だけだろう。
そう、聖女の護衛騎士ことアランは、こともあろうに、この国の重鎮たちが揃っていた騎士就任式で、許可もなくメルヴィナの右脛にキスをしてきたのだ。
一同が顔を真っ青にしていると、彼はさぞ悔しそうにこう言った。
『申し訳ありません、メルヴィナ様。本当は真の忠誠を誓うため、あなた様のおみ足の裏を拝借したかったのですが、さすがにこの大勢にあなた様の柔肌を晒すわけにはまいりません。今はこちらで我慢します』
――いや、我慢するとこ絶対間違ってる!
このとき誰もがそう思った。まずキスをするな、と。
おかげで、王妃気絶。国王現実逃避。アランと旧知であった兄王子は、全身に鳥肌を立たせたという。
「ではメルヴィナ様、これからは気配を消してもいいというお許しをいただきましたので、そのようにさせていただきますね」
これを聞いたメルヴィナは「しまった」と思った。
まさか、初めからその許可をもらうために、自分を怒らせたのではないか、と。
はめられたと思ったときにはすでに遅く、メルヴィナが何か言いたげに口を震わせても、アランは素知らぬふりで首を傾げただけだった。
本当に、油断ならない男である。
「さて、本日のご予定ですが、午前は教会にて浄化を行なっていただきまして、それが終わる頃に勇者が……」
「?」
いつもどおり、メルヴィナはアランが淹れてくれた紅茶を味わっていた。このアーリーモーニングティーを飲みながら一日の予定を聞くのが日課である。
が、それがふいに止まった。
「メルヴィナ様」
「な、なに?」
わざとらしい微笑みを向けられて、メルヴィナは少し警戒する。この笑みのアランには、要注意だ。経験で知っていた。
アランがおもむろに近づいてくる。メルヴィナは逃げようとしたが、手には紅茶入りのカップを持っている。彼はまさにそのカップを奪うと、左手でメルヴィナの頭を自分の胸元へと引き寄せた。
「なっ、アラン!?」
突然のことで固まるメルヴィナをよそに、アランの右手は彼女の髪を梳いていく。でもそれは、甘い触れ方ではない。どちらかというと事務的で、彼の瞳は鋭かった。
ただ、抱きしめられる形となってしまったメルヴィナには、その全てが見えていないけれど。
だから、彼女の髪に憑いていた魔物の残滓を、アランが見つけて跡形もなく消したことも、メルヴィナには知る由もないことだった。
「ちょっとアラン! いきなりなんなの? 離れて」
「申し訳ありません、メルヴィナ様。今日はついに勇者が来るのかと思ったら、私の愛しいメルヴィナ様が汚されないかと不安になりまして」
アランはそっとメルヴィナから離れる。
黒い皮手袋をした彼の右手は、何かを閉じ込めるように握りしめられている。
でもやはり、メルヴィナがそれに気づくことはない。
「不安になったからって、なんで私を抱きしめるのよ」
「少しでも男の匂いがついていれば、虫除けになるかもと思いまして」
「ならないわよ!」
これが、ヴェステル王国第一王女メルヴィナ・リストークと、その護衛騎士アランの日常である。
彼の変態ぶりに振り回されるメルヴィナは、いつだって溜息がつきものだ。
そして、王女をそんな目に遭わせるこの男こそ、実は世界の平和を脅かすと有名な、魔王その人だった。
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