s1 ep17-3
足もとから玄関まで続くアプローチ。
石畳の両脇から広がる、芝生の艶やかな緑色。
子どもの頃、この庭はもっと広いと思っていた。昔、叔父と来たときも同じように感じたのを憶えてる。
とはいえ物件の規模的にはちょうどいい面積だと思うし、敷地や家屋が無駄に広ければデメリットが最低二つは発生するに違いない。
ひとつは手入れの手間が増えること。
もうひとつは、敵襲のリスクが高まること。
殺し屋を送り込まれるような女が息子と二人で暮らしてたんだから、ほどよくコンパクトで目立たない棲処がいいに決まってる。
中野の脳裏に、ふと以前観た映画が浮かんできた。
よくある『元凄腕のナントカ』的な主人公が、凄腕だったわりには窓ガラス率が高めで空間が広い──要するに、外からよく見えて隠れるところが少ない──スタイリッシュな一軒家で、屋内外ともに何のトラップも仕掛けず警戒心の欠片もない隠居生活を送っていたら、ある晩プロですらないヤツらにあっさり襲撃されちまう……という呆れて言葉も出ないオープニング。
話のメインは、その際に巻き添えを喰らって犠牲になった妻だか恋人だか愛犬だかの敵討ちのために返り咲くという、極めてありがちな復讐劇だった。
当時、付き合っていた──フリをしていた──ヒカルが、主役を演じる世界的有名俳優のアクション見たさに独断とゴリ押しでチョイスした、おうちデート用のハリウッド映画だ。が、残念なことに、彼氏のほうは開始から三十分も経たないうちに眠くなっちまった。
だってB級アクションのお約束みたいなストーリーの退屈さもさることながら、妻だか犬だかが殺られたのはどう見たって主人公の危機管理意識の甘さが原因だし、それ以前にキャラクタや設定、演出やセリフや映像の何もかも全てに魅力というものが皆無だったからだ。
なのに船を漕いでは腿を抓り上げられ、痛みで覚醒するたびにツッコミどころしかないシーンを強制鑑賞させられ、再び睡魔に襲われてはまた腿をギリギリ抓られるという、断眠法拷問みたいな無間地獄の二時間足らず。
全く、どうして女子ってのは、まるで強迫観念みたいにパートナーと体験を共有したがるんだろう?
そのくせメシを食いに行って同じメニューをオーダーしようとしたら、決まってこう言うのだ──せっかく二人いるのに同じもの頼むなんて、もったいないじゃない!?
意味がわからない。
とにかく忍耐の果てに映画はエンドロールを迎え、ヒカルが深い溜め息とともに呟いた。
アクション……どこにあった?
真逆のスタンスで視聴を終えた二人は、結局ほぼ同じ感想に着地した。つまり、こうだ。作品を構成するあらゆる要素において「浅い」と「陳腐」の二語しかない映画。唯一の救いは二人の意見が一致した点か。まるで共感できないレビューに延々付き合わされるのは拷問の続きでしかない。
けどじゃあ、あの二時間の苦しみは一体何だったのか──?
ほろ苦い追憶に浸る中野の前で、それこそ『元凄腕のナントカ』的な同居人が尻ポケットから銀色の鍵を取り出した。
「意外に普通の鍵なんだね」
「コイツはカムフラージュ用だ」
聞けば、テロ多発国メーカーの高性能ディンプルキーではあるものの、あくまで一般の住宅を装うために設置しただけだという。
メインの玄関セキュリティは、色褪せた旧型のドアホンと無愛想な宅配ボックス。
けど、どんなシステムなのかは割愛する。それよりも、昭和の香り漂う木製ドアが微かに蝶番を軋ませながら開いたからだ。
タイル張りの三和土、バリアフリーとは無縁の上がり框。
まっすぐ奥へ伸びる廊下の、飴色の床板。手前には、やや急勾配な階段。
住んでた頃の匂いまで嗅ぎ取れそうなノスタルジアを、中野は深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
これといった思い出があるわけでもない。なのに懐かしさがじわりと全身に広がる、この感覚は何だろう?
コンバースを脱いで先に上がった坂上が、奇妙な表情で目を寄越していた。
「うん? 何その、ひた隠しにしてきた恋人をいよいよ紹介するときみたいな顔?」
「そんなんじゃない」
「ならいいけど、で?」
「その……スリッパとかねぇんだ」
「──」
中野は数秒、廊下の板材を踏む同居人の足もとを眺めた。
無地のスニーカーソックスは、小学生の絵の具箱から出てきたビリジアンみたいな緑色だった。個人的には嫌いじゃないけど、彼が緑色の靴下を持ってたなんて初めて知った。
「……え? 地下室でさんざん、土足エリアと土禁エリアの境界が曖昧な生活を送ってたのに、今更どうしたんだよ?」
「念のため言っただけだろ」
「念のため訊くけど、スリッパ履いてないと危険なトラップなんかがあったりはしないよね」
「スリッパじゃ防御できないトラップならあるけど、あんたが引っかかる心配はない」
「それ、ほんとに大丈夫? 神に誓う?」
「存在しないものには誓えないし、あんたに限って神なんか信じてるとも思えねぇ」
「否定はしないけど、そうはっきり言われると何だかな」
「──」
「ごめん、その通りだね。宗教なんてのは人間の弱さが産んだ妄想と哲学の融合に過ぎないと思ってるよ、個人的にはね。けどまぁどうせ、地球上における物事ってのは大半がヒトの脳味噌から発生した……」
スリッパなしで廊下を歩き始めた中野は、すぐに掃き出し窓からの眺めに気を取られて立ち止まった。
木枠にガラスが嵌まった古めかしい引き戸は、そうは見えないけど相当特殊な構造らしい。どう見てもセキュリティ性能に不安を覚える真鍮製の
見た目からすると不自然なほどスムーズな動きでガラス戸がスライドした途端、飛び込んできたのは辺りを満たす蝉時雨のノイズだった。
それと、どこか湿り気を帯びた土の匂い。
足もとに置かれた無骨な踏石も昔と変わらない。けど、載っかってる二足の黒いサンダルは真新しい。
踵部分にドクター・マーチンのロゴが刻まれたソイツに足を突っ込むと同時に、ザァッと梢を鳴らして、どこかの枝から鳥が飛び立った。
か細い、それでいて鋭くけたたましい囀り。BGMのようにさんざめいていた蝉の声が一瞬遠退き、すぐに何事もなかったかのような素振りで戻る。
中野は子どもの頃から、蝉という生命体が苦手だった。
顔の造作、精巧すぎる模様、デリカシーのなさ、全てが受け容れがたい。
小学生の頃なんかは、夏休みともなれば虫取り網と虫カゴをブラ提げて蝉捕りに行く同級生が一人や二人は必ずいたけど、中野にしてみれば正気の沙汰じゃなかった。
「なぁあんた、子どもの頃に蝉を捕ったりしてた?」
「いや」
廊下に立つ坂上から素っ気ない声が落ちてくる。
「だろうね。そういうタイプじゃなかったよね」
「というより、子ども時代の大半を蝉なんかいないところで過ごしたからな」
どうやらネタの振り方を誤ったらしい。
そう気づいたけど、不自然な軌道修正はせずに中野は続けた。
「蝉がいないなんて羨ましいな」
「嫌いなのか、あんた」
「少なくとも好きって感情からは遠いね」
「理由は?」
「いくつかあるよ。でも全部引っくるめてひとことで言えば、こうかな。生理的に無理」
「あんたらしいな」
「どこらへんが?」
「理由のないところが」
「理由は今、言ったよね」
中野は肩を竦めて何気なく庭を見回した。
普通の家庭よりも数倍、外部の目を警戒する必要があったからだろうか。塀沿いに並ぶ庭木は心なしか間隔が狭く、どれも密に繁る葉が青々と光る高木だ。
その密集する梢に誘われて野鳥がやってきて、何らかの理由で死を迎え、幼い坂上が亡骸を発見して、二人で庭の片隅に埋めた。
今日と同じくらい暑かった遠い夏の日。
あの小さな墓は、どうなってしまったんだろう?
「あそこらへんだっけ?」
中野は南西の一角を指差した。
「鳥のお墓作ったところって」
「あぁ……」
「目印に石か何か置いた気がするんだけど、まだ残ってたりしないのかな」
「ある」
「ほんとに?」
「こんな嘘吐いてどうすんだ?」
「それはそうだね、あるなら見たいな」
坂上は無言でドクター・マーチンを突っかけて降りてくると、パーカーのポケットに両手を突っ込んで中野が指したほうへと歩いていった。
照りつける日射しに白っぽく霞んで見える濃紺の背中。ランダムに流れてくる川風がさわさわと葉擦れを起こし、輝かんばかりに鮮やかな芝生の上で木漏れ日が絶え間なく形を変えていく。
「ここに──」
木陰にしゃがみ込んで振り返った坂上が、近づく中野を見上げて沈黙した。
つられて周りを見てみたけど、これといって不審なものはない。
目を戻した。
彼の姿勢も目線も、凍りついたように変わらない。ただ、途方に暮れた子どもみたいな面構えを見る限り、少なくとも侵入者の気配を察知したとかいうわけじゃなさそうだった。
「あ、わかる?」
「は? 何が……」
「俺の肩に憑いてる霊が見えてんだよね?」
「いるわけねぇ」
「神や仏みたいに?」
「どうだっていい」
「じゃあ、惚れ直して見蕩れてた?」
最後の問いには答えず、坂上は俯いて草むらを探り始めた。
腰の後ろに浮かぶ銃把の陰影。快晴の休日に、閑静な住宅街のド真ん中でソイツをぶっ放すような事態が訪れないことを中野は切に願った。じゃなきゃ、せっかく同居人が取り戻してくれた家を見学しただけで手放す羽目になっちまう。
「あぁ、それだね」
隣に屈んで手元を覗くと、半ば土に埋まった石の一部が見えていた。
チャコールグレイに白い斑模様が入ってるはずのそれは、握り拳大で丸っこいハート型をしていて、見ようによっては小鳥を模したようでもあった。
だから、鳥を埋葬した地面を見つめ続ける幼児の気が済むようにと、少年時代の中野はこう提案した。
形も鳥っぽいし、模様が羽根みたいだと思わない? これを置いておけば、きっと仲間に守られてるみたいで寂しくないよ──
正直に言う。心にもないことをしゃあしゃあと口にした。だって暑いのは苦手なのに、炎天下の庭で隣にしゃがみ込んだ幼児がいつまで経っても動かないからだ。
あの日と同じ、うだるような暑さ。
あの日と同じく、同居人は膝を抱えて沈黙したまま動かない。
「ここで眠ってる子、何の鳥だったのかなぁ」
「昔、調べてみたことがある。強いて言うならツグミに似てたけど、夏の日本にはいないらしいな」
「ロシアからやってくる冬鳥なんだっけ? もしかしたら帰りそびれて、高温多湿の日本で夏を越せなかったって可能性もあるよね」
「俺も、もう帰ってくることはないって思ってた」
興味のない海ドラを眺めながらどうでもいいコメントを投げるときみたいに、まるで熱のこもらない声だった。
鳥の話じゃないことは尋ねるまでもない。
ツグミと同じくロシアからやってきた男児は、無事に日本の夏を越しながらも連れ去られ、北の大陸で成長して、十年を経て再び東洋の島国へと舞い戻ってきた。
「あれ、でもさ、もともと日本に戻される予定だったって言ってなかったっけ?」
そのために不自由しない教育を受けていた、と聞いた気がする。
「よく憶えてるな」
「そりゃ憶えてるよ」
「日本には戻る予定だったけど、そうじゃなくて、ここに──またこの庭に立つ日がくるとは思ってなかった」
「あぁ……けどほら、渡り鳥って毎年同じ場所に飛来するって言うし」
「俺は鳥じゃない」
「さっき自ら鳥にシンクロしたのに」
どこか、すぐ近くで蝉が鳴き出した。
種類はわからない。彼らについて知識を得ようなんて考えたこともないから当然だ。が、これだけは自信を持って言える。少なくともツクツクボウシじゃない。
蝉の名前が何であれ、ゴリ押しで夏を意識させる音色に温度感覚伝達の神経メカニズムが刺激でもされたのか、中野の脳内で大人しくしてたヤツらが一斉に暑い暑いと喚き始めた。
そろそろ、家に入ろうと促しても許される頃合いかもしれない。
鬱蒼と繁る庭木の緑に囲まれ、グラウンドカバーの芝生で地表が覆われていたって、暑さを感じないほど涼しくなるわけじゃない。
「とにかく、あんたは同じ場所に戻ってきて、高温多湿の夏も元気に越せてる。俺なんかよりよっぽどね」
「体温のセルフコントロールも生命維持活動の一環だからな」
「生命維持活動って、もっと原始的な生理機能を指す気がするけど、まぁいいよ。さて」
家に入らない? そう続けるはずだった。
だけど提案は寸前に遮られた。
「ここで」
素早いひとことのあと、ほんの僅かな一拍を置いて低い声が静かに続いた。
「ここで俺、あんたと会って……」
中野の視線から隠すかのように横顔を覆う五本の指。その隙間に覗く皮膚がほんのり色づいて見えるのは、暑さにやられた脳味噌が情報処理を行う過程でバグを起こした結果の錯覚かもしれないし、平気な顔してる坂上も実は危うく熱中症になりかけてるサインなのかもしれない。
だけど多分、どちらでもなかった。
「初恋──だったんだ」
およそ四半世紀前の夏の日。
初めて言葉を交わして、この庭で並んでしゃがみ込んで一緒に鳥を埋めた、隣家の子ども。
今、中野の隣にいるのは世界中で暗躍した稀代の殺し屋なんかじゃない。
死んだ鳥を、小さな墓を、無心に見つめ続けていたコミュ障な五歳児だ。
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