s1 ep17-4

「そういえば、ここって誰が買い戻したことになってんの?」

 開栓したボトルビールを差し出して中野は尋ねた。

 小洒落たカラーリングのラベルに、グラスを掲げる猿のイラスト。冷蔵庫でキンキンに冷えてたソイツは珍しく国産クラフトビールで、酒屋の大阪土産って話だった。

 先週、元同僚も出張とやらで関西方面に行ってなかったっけ?

 チラリと思ったが、まぁ己の生活に影響しない限りは何だっていい。

 ただ、これっぽっちも興味がないと言ったら嘘になる。

 彼ら──新井と冨賀が、ロシアの騒動後も何かとつるんでることは周知の事実だ。

 なのに二人一緒の現場にばったり出くわそうものなら、どういうわけか酒屋が手負いの獣みたいな面構えになって「別に仲いいとかじゃねぇからな」とでも言わんばかりの警戒心満載な風情でひとり消えちまう。一方、残された新井は気にする素振りもない。

 そんな思わせぶりな局面を見せつけられて、何も勘繰るなってほうが無理な話じゃないか?

「今の名義は俺の十一番目の偽名になってる。でも、あんたが望むならいつだって変更する」

 ダイニングの椅子からテーブルの上に両脚を投げ出していた坂上が、ボトルを受け取りながら質問に答えた。

 何の変哲もないナチュラルな色合いのテーブルは、昔ここにあった食卓に似てる気がする。

 庭で聞いた衝撃的な告白のあと、この上で彼を抱いた。

 屋内に戻ってリビングに入ると、そこは天国みたいに──ってのは勿論、入国したことがない中野は実態を知らないから比喩に過ぎないけど──涼しかった。来る途中に同居人がリモートで冷やしておいてくれたらしい。

 おかげで、クソ暑さに耐えながら汗だくのセックスに励むか、快適な室温になるまでビールを飲みながら待つうちに萎えちまうかの二択を迫られずに済んだ。

 とは言えフェイクレザーの黒いソファはベタつきそうだし、大の男二人が取っ組み合うには少々狭い。そして涼しいのは一階の居室だけとくれば、ダイニングテーブルというチョイスは自明の理だった。

「家の名義なんかいらないよ」

 中野は笑って、天板の端に尻を引っかけた。罰ゲームでもないのにそんな重荷を自ら望むヤツがいたら、修行僧か救世主かドMの三択でしかない。

 それはそうと、家を買えるような偽名があるのに今さら正式なIDなんて必要なのか──? という素朴な疑問が脳裏に浮かんだものの、口にする愚は犯さなかった。

 一年前までの自分なら理解できなかったかもしれない。否、できなかった。だけど今はわかる。

 つまりソイツは、ギフトラッピングみたいなものだ。たとえ体裁を整えるための非生産的な包装に過ぎなくとも、リボンのシールを一枚貼っただけで中身の存在感は絶対のものとなり、特別なオンリーワンに変身する。

 同居人のIDも同じことなんだろう。

「ところで、なんで十一番目の偽名?」

「この物件を購入するのに一番向いてる人物だったから」

「どんなキャラ?」

「高校教師」

「へぇ……」

 気になる点がいくつかあった。

 何の教科担当なのか。実際に教壇に立ったことはあるのか。

 あるなら共学か女子校か、男子校か。飲食店での注文もままならないコミュ障のくせに、一体どんな先生を演じたのか。偽名は全部でいくつあって、他はどういうプロフィールなのか。

 そもそも偽造IDのキャラ設定なんて、誰が創作してるのか──

「なぁ、あんた」

 抑揚に欠ける声が思考を遮断した。

「あのとき、なんで俺を抱いたんだ?」

 高校教諭に占領されてた脳味噌が質問を理解するまで、五秒はかかったと思う。

「えっと……最初にセックスしたときのこと?」

「そう」

「またどうして今頃?」

「いつ訊こうが俺の勝手だろ」

「そりゃそうだけどさ」

 言いながら思った。困ったことになった。

 どうして抱いたかなんて、自分が教えてほしいくらいだった。が、そんな答えが不正解だってことは中野にもわかる。

 だから時間を稼ぐために、まずこう投げ返した。

「それってまさか、例の訊きたいことと言いたいことっていうアレ?」

 ロシアから戻ったら、訊きたいことと言いたいことがひとつずつある。そのために戻ってくる。

 鬼退治へ発つ前に同居人が残していったセリフだ。チームの遠征中に中野を守る役目が元同僚に決まった日の夜、ベッドの中で彼はそう言った。

「もしかして今のが訊きたいことで、庭での告白が言いたいことだったりする?」

「だったら何だ?」

「生きて帰れるかどうかもわからなかったのに、そんな大事なことを保留にしたまま去ったってわけ?」

「だから、それを言うために戻ってくるって言っただろ」

「だよね、言ったよね。なのに帰ってきてから何度訊いてもはぐらかしといて、半年以上経って急にどうしたんだよ」

「帰ってきて半年以内に言うなんて、別に言ってねぇよな」

 らしくもない屁理屈を寄越した坂上は、グッとボトルを呷るなり沈黙しちまった。

 俯き気味の眼差しは見慣れたものだった。

 言いたいことはあるのに、どう伝えればいいのかわからない。そんなときに見せる、いつもの面構え。

 帰ってきてからこれまでの間、中野の追及を素っ気ない態度で躱すたび、逸らした頬の向こうにこの顔を隠してたのかもしれない。

 やがて、ボソボソと低い声が漏れてきた。

「──さっき、庭で」

「うん?」

「鳥の墓の前で振り向いたら、あんたがこっちに向かって歩いてくるところで」

「うん」

「同じだったんだ。あそこで初めて、あんたに声をかけられたときと……」

「あぁ。じゃあ、俺の肩に憑いてる霊を見てたわけじゃないんだね」

「いるわけねぇって言ったよな、さっき」

 跳ね返ってきた声は醒めきってたけど、ある意味、そこにいたのは霊みたいなものかもしれない。

 五歳の坂上の前に現れて、彼の脳味噌の底に居座り続けた亡霊だ。

 およそ四半世紀前の夏の日、庭の片隅に蹲っていた小さな背中。振り向いた幼児の頑なな無表情が脳裏に蘇ってくる。

「で、恋に落ちた瞬間の甘酸っぱいデジャヴが訪れて、隠し続けてきた秘密を告白するほど動揺したってことかな?」

「そんなんじゃねぇし、ここに来たら言うつもりだった」

「まぁ、何にせよ言ったわけだからね。じゃあ俺も白状するよ、あんたの質問への答え」

 中野はボトルの結露を指で拭うと、ひと息に続けた。

「あんたを抱いた理由は何もなかった」

「──」

「あのとき、テレビを観てたよね」

 明度の低いシーンが多かったから、映り込みを避けるために灯りを消していた。

「ネガティヴな主人公の退屈な映画を観ながら、あんたが珍しく長いセリフを喋り始めてさ。その声を聞いてたら、何て言うのかな……自然に身体が動いてたっていうか? 自分でも呆れるほど月並みだけど、ピッタリな表現が他にないからしょうがない」

 聞いてるのか、聞き流してるのか、坂上は無言で大阪土産を傾けてる。

「ただ、これだけは主張させてほしい。テストステロンの分泌量が絶頂期の男子高校生みたいに、突然制御不能の性衝動に襲われたとかでは決してないよ。むしろ変な話、性欲とはかけ離れたステイタスだったと思う。心身ともにね。それでもあのときは、あぁするのが当然みたいな感じだったんだ。どうしてなのかは全くわからないけど」

「そうか」

 坂上の短い相槌。

 が、それだけだった。だから一応尋ねた。

「それだけ?」

「何が?」

「そうか、で終わり?」

「他に何を言わせたいんだ?」

「いや、納得してくれたならいいんだけどさ……」

「俺が納得するかどうかは関係なくねぇか? 俺は理由を訊いて、あんたは答えた。そこに嘘さえなけりゃ内容は何だっていい」

「DKみたいな性衝動に駆られただけって理由でも?」

「嘘じゃねぇならな」

 坂上はビールを干してテーブルから脚を降ろし、立ち上がって冷蔵庫の扉を開けた。

 その背中に向かって中野は言った。

「今のは単なる例えだからね?」

「どうでもいい」

「偽IDで高校の先生をやってるとき、男子生徒に言い寄られたりしなかった?」

「いきなり何なんだ?」

「同僚の男性教師に迫られたりとかは?」

「なんで全部野郎なんだよ」

「ところでさ、俺も訊きたいことがあったんだ」

 椅子に戻った坂上が、ボトルを開栓しながら無言の目を寄越した。

「バーで再会した夜、俺を殺すために部屋に侵入しただろ?」

「──」

「あぁ、身構えなくても、質問は夜じゃなくて朝のことだよ。俺が起きてって台所で出くわしたとき、何を考えたのかなって」

 目覚めたら前の晩にバーで出会った男が台所にいて、買った覚えのないボトルビールを呷ってた。まるで自分ちみたいな顔して。

 だけど彼にとって、あの瞬間にどう出るかが決定的なターニングポイントだったことは間違いない。だから何をどう感じたのか訊いてみたかった。

 が、今度も返ってきたのは短いひとことだった。

「殺さなくて良かった」

「それだけ?」

「やっぱり殺しときゃ良かったとでも答えりゃ満足なのか?」

「いや、うん……それが嘘じゃないなら、俺も甘んじて受け止めるよ」

「嘘に決まってんだろ」

「どっちが? 殺しときゃ良かったってのが? それとも殺さなくて良かったってほう?」

 坂上の眉間に面倒くさげな色が浮かんだ。

「組織を裏切って追われる身になった上、後ろ盾を失くして世界中の殺し屋から狙われる羽目になっても、あんたを殺さなくて良かった。それ以外に何を思えってんだ?」

「ごめん、そうだよね」

 中野は微笑んで肩を竦めると、アイスグレイのリネンシャツの胸ポケットを探った。

「じゃあ、お互いに疑問が解消されて一件落着したところで──」

 抜き取った二つ折りの紙切れを開いて、テーブルに置く。

 すっかり折り癖のついたソイツは一葉の写真だった。

「これ、うちの母親から預かったんだ。正しくは、俺の子ども時代のアルバムのどこかに挟まってるはずだからあんたに渡せって、中東のどっかの国から命じられたんだけどね」

 ロシアの組織を壊滅させたあとも、母の可南子は世界のどこかを飛び回っていた。

 それ自体は相変わらずだし、四半世紀も死んだと思い込まされてたんだから今さら心配も何もない。

 ただ、やたらと危機に直面するような無茶は控えて欲しい要素が一点だけあった。

 坂上お抱えのシステム屋、クリスが同行してることだ。

 四谷の棲処を捨てた彼が、どうせ次の箱も決まってないし……と自ら志願して飛び出してったのが約ひと月前。今思えば、この家のシステム関係を構築し終えたタイミングだったのかもしれない。

「でも俺はアルバムなんて持ってないし、あったとしても中野坂上で丸焦げになっちまってる。そう言ったら、錦糸町の倉庫にあるって言うんだよ」

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