s1 ep17-2
駅から目的地までは、のんびり歩いて十分くらいだった。
盆を過ぎ、朝晩は多少過ごしやすくなった気がするとは言え、まだまだ猛暑日連続記録チャレンジの真っ最中。灼け付くような日射しの下の徒歩十分ってのは、自他共に認めるインドア派にしてみれば苦行と称しても過言じゃない。
しかも、そろそろ到着しようかというタイミングで前方の停留所から走り去るバスなんか目撃したら尚更だ。
「あれに乗ってくれば、涼しい空間に座ったまま短時間で運んでもらえたはずだよね?」
それとない中野のクレームを聞いて、坂上がチラリと振り返った。
「あんた、口で言うほど暑そうに見えねぇけど」
「色素の濃度による視覚効果じゃないかな。ひたすら心頭滅却しながら歩いてた俺の奮闘、伝わってなかった?」
「模型屋とか八百屋の店先を興味津々で眺めながらか? 器用だな」
「気を紛らわせるっていう行為は、今までにしたことある?」
が──やがて河川に近いエリアに辿り着いたとき、暑さがすうっと遠のくような感覚をおぼえて中野は無意識に足を止めていた。
川風が運んできた仄かな涼のせいじゃない。視界に現れた風景のせいだ。
まず目に入ったのは、小ぢんまりとした白っぽいマンション。
かつて、その敷地の一画には、温和な父と無口な男児がひっそりと暮らす借家が建っていた。
マンションの東隣には古びたコンクリートのブロック塀が連なり、等間隔に並ぶ高木の狭間にスレート葺きの赤い屋根が覗いている。
近づくにつれて黒い門扉越しに見えてくる芝生の緑。白い壁。
昔ながらの、二階建ての一軒家──
知らず呟きが漏れた。
「随分前に売ったのに……」
母と暮らし、坂上と初めて出会った家。
子ども時代を過ごした家屋は、売却したときすでに、お世辞にも浅いとは言えない築年数だったはずだ。だからとっくに建て替えられたか、隣家と同じくマンションにでも変わったとばかり思っていた。
なのに目の前にある佇まいは、あまりにも当時の面影に満ちている。
立ち尽くす中野の隣で、抑揚のない声が淡々と白状した。
「ロシアの件が片付いたあと、買い戻してリフォームしてたんだ。できるだけ昔と同じ状態になるように」
午前中のことだ。
中野が作ってやったワンプレートのブランチを無心につついていた同居人は、スクランブルエッグの最後の一片を食い終えるなり、唐突にこんなリクエストを投げてきた。
──子供の頃に住んでた辺りを見に行きたい。
平素と変わらない声音や面構えに、隠し事やサプライズの影は一切なかったというのに、全く天然モノのポーカーフェイスってヤツはタチが悪い。
「記憶を頼りにやってみて、なんか違うなって思ったら手直しして……でももう、そろそろいいかと思って」
濃紺のパーカーのポケットに手を突っ込んで、坂上が俯き加減にボソボソ漏らす。彼のブラックスキニーの足もと、白いコンバースとアスファルトに色濃く影が落ちていた。
「幸い、あんたたちのあとに住んでた夫婦が、この外観を気に入って買ったらしくて。おかげでエクステリアにはほとんど手を入れてなかったから、外側は多少メンテする程度で済んだけどな」
「外側はってことは、中は?」
「
二階のユニットバスは残しても良かったんじゃないか……? 中野は思ったが言わなかった。コイツは多分、不便だからって歴史的建造物にエスカレータなんか設置すべきじゃないのと同じタイプの事案だろう。
「人ん家の間取りなんかよく覚えてたね、幼児の頃に見たっきりなのに」
「あの頃のことは何もかも覚えてる」
即答した横顔を数秒眺めてから、中野はおもむろに口を開いた。
「今回の工事も、いつものところにやってもらったわけ? 銃弾で穴だらけになった地下室を半日で原状回復させた例の業者?」
「だったら何だ?」
「そこの人って、まさか酒屋みたいな下心があったりしないよね」
「あったらどうするんだ?」
「殺し屋を雇うとか?」
「俺以外のか」
熱の籠もらない声の中に嫉妬じみた匂いを勝手に嗅ぎ取ったとしても、口に出さなければ怒らせることも否定されることもない。
だから余計なことは言わず、中野は小さく首を傾けてこれだけ答えた。
「あんたはもう殺し屋じゃない」
「──」
どこか面映ゆい気配を孕んだ僅かな沈黙。
やがて、言葉に迷うような口ぶりが返ってきた。
「そもそも、あんた……冨賀に下心なんかあるって本気で思ってんのか?」
「どうだろう、五分五分ってとこかな」
初めは100パーセント本気だった。が、中野のガードをしていた元同僚が酒屋と親しくなった時期から、その勘繰りは半信半疑に目減りした。
と、いう内心をヒカルにだけは打ち明けてもいいかなと考えているうちに、彼女は次の任務で南米のどこかへ旅立ってしまった。
余談ながらエージェント女子と武器商人の仲は順調なようだ。
つい先日、仕事でコロンビアに飛んだアンナが会いに行ったはずだから、今頃はカリブ海の高級ヴィラにでもしけ込んでバカンスを楽しんでるかもしれない。
何か突発的なトラブル──たとえば、女子二人乗りのオフロードバイクがカルタヘナあたりのカラフルな家並みを縫って、麻薬カルテル相手に鬼ごっこを繰り広げるような事態でも勃発していない限り?
ちなみに先輩エージェントのほうは近々本業を辞めて別の組織に属する予定になってるけど、それはまた別の話。
「ところでこの家、どんな人たちが住んでたんだろう? 夫婦って言ったっけ」
「元地方公務員と専業主婦の二人暮らし。四年前に夫がリタイアしてから、共通の趣味である釣り三昧の生活を送りたくて瀬戸内の島への移住を考え始めてたらしい」
「お手本みたいな理想の夫婦像だね」
「子どもは四人。長男は医療機器メーカーのトップ営業マン、妻と一男一女の四人家族で都内の湾岸エリアのタワマンに居住中」
「そこはかとなくエリート臭が漂ってきそうなプロフィールだけど、タワマンってデメリットしか思いつかないんだよなぁ。特に高層階」
「好んで蓼を食いたがる虫だって世の中にはいるだろ」
「経済的自由権の行使だね。で?」
「ウェブデザイナーの長女は埼玉の長閑なベッドタウンで庭付きの戸建てを借りて、事実婚の妻と同棲中」
「あぁ、そっちのほうが断ぜ──ん?」
「近所でも評判の仲の良さだったのに、この半年ほどはアラスカンマラミュートの育て方を巡って
「へぇ、そりゃ大変だね……」
「外科医の次女は紛争地域の医療活動に従事するため十年前に日本を出たきり一度も帰国してなくて、ルート配送ドライバーだった末っ子の次男は配送先のパート事務員の義父と駆け落ちして二年前から行方不明」
「待って、そんなことまで本人たちが教えてくれたんじゃないよね? どうせ酒屋経由なんだろうけど何のために得た情報? 何その、理想の夫婦のセカンドライフからだんだん乖離してく家族の肖像? ていうか途中、長女と妻って言った? あと配送先の事務員の義父って何? そもそも何があったら取引先のパートさんの親となんか知り合うわけ?」
「質問が多いな、あんた。事務員の夫の父親だよ」
最後から二番目の質問にだけ坂上が答えたとき、綿菓子みたいにふわふわの小型犬を連れた女が通りかかった。
年の頃は三十前後、近所の住人だろう。
魅惑的なプロポーションや真夏っぽい露出度の高さは、かつて次々に到来した刺客たちを連想させたけど、同居人が警戒しないところを見ると無害な一般市民のようだ。
足取りを緩めて艶やかな笑みで挨拶を寄越した彼女に、中野が代表してビジネスモードの笑顔で応じた。何しろ隣のツレがコミュ障全開の表情で沈黙してるから仕方ない。
色気たっぷりの流し目とともに去っていく後ろ姿と綿菓子の尻を見送っていたら、不意にシャツの裾を引かれた。
「──暑ィし、入んねぇ?」
斜め四十五度に視線を俯けたまま、坂上がぶっきらぼうに言った。
「そうだね。でも、あんた全然暑そうに見えないよ?」
バス停のクレームに喰らったセリフを拝借した途端、忌々しげな上目遣いで睨まれた。どうやら頬が弛んじまってたらしい。
「何ニヤけてんだ?」
「大丈夫。あの色っぽいお姉さんより、あんたのほうが百倍そそるよ。いや、彼女はゼロだから言い方を変えたほうがいいのかな。ゼロは百倍にしたってゼロだもんね」
「どうでもいい」
ますます硬くなる声。物騒な同居人がこれ以上ヘソを曲げないうちに、軌道を変えることにする。
「懐かしいな、これらも昔のまま?」
尋ねたのは家の前景についてだった。古臭いコンクリートのブロック塀も、規則的に配された青海波デザインの透かしブロックも、黒い縦格子の門扉も、記憶に残る当時の様子と変わらない。
「そうだな。コイツは何度か塗り直してるようだけど、他は……」
鉄製の門扉を掴んだ坂上が、何かに気を取られたように動きを止めた。
「どうかした?」
「いや」
「もしかして、中に誰か潜んでる可能性があるとか?」
「その心配はない」
「じゃあ何?」
「だから別に──ただ、この門を見るたびに、昔ここからあんたたちが出てきたことを思い出すってだけだ」
「あぁ俺と叔父さん? ここを売りに出した頃の話だよね。ほんと、声かけてくれたら良かったのにさ……過ぎたことをどうこう言うのは趣味じゃないけど、そしたら遙かに安全で効率よく再会できたはずだと思わない?」
「しょうがないだろ」
「どんな障害があったわけ?」
「そんな気分になれなかった」
坂上は投げ出すように言って、今度こそ門扉を押し開けた。
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