S1 Episode17 夏の庭 ─終章─

s1 ep17-1

 中野が同居人と暮らしてた建物が爆破されてから、およそ八カ月。

 盆を過ぎたとは言え、まだまだ日射しが容赦なく照りつける真夏の日曜、中野が電車を降りたのは久しくご無沙汰していた土地だった。

 地図的に言えば、中野坂上エリアから緩やかな右肩下がりで都心を横切った東側。

 普段は馴染みのない──地元の近くを通っていても乗る機会が滅多にない路線で荒川を越え、旧江戸川を越え、ついでに都県境も越えた千葉県某所。

 それなりの利便性と落ち着いた住宅エリアが同居するベッドタウンは、各駅しか停まらないけど職場の最寄り駅までなら所要時間は三十分だ。

「そうだ、トイレットペーパー買って帰んないとだね」

 駅前広場越しにドラッグストアの看板をチラ見して中野が言うと、隣を歩く同居人から素っ気ない声が返ってきた。

「ここで?」

「いや、戻ってからでいいよ。あぁでも、いかにも同居してますって顔して、二人でトイレットペーパーぶら提げて電車に乗るのもアリだよね。何だったらファンシーなパッケージに入ったピンクのロールとか買ってさ」

 ふと目を寄越した坂上の眉間に、じわりと不可解が浮かんだ。

「何のために?」

「どの部分についての質問?」

「ファンシーなパッケージに入ったピンクのロール」

「意味はないけど、まぁ意味がないってことが重要かな」

「意味がわかんねぇ」

「ないものを理解するのは難しいね」

「──」

「とにかくトイレットペーパーを買わなきゃなんないってこと。でもピンクじゃないにしても、ちょっとくらい色とか柄のついたヤツでもいいと思わない? あそこのトイレって、オシャレを通り越してシンプルすぎるし」

 彼らは現在、叔父のが所有する目白のセーフハウスで仮住まい中だった。

 つまり残念なことに、今の二人は中野坂上に住む中野と坂上じゃない。

 けど、だからって中野が中野じゃなくなるわけでもないし、同居人は『坂上』以外の何者でもない。あのバーのカウンターで名乗った瞬間、その名前は駅名とは関係なく彼のものになった。

 第一、中野だって人のことは言えない。中学のときから名乗ってる叔父の姓なんて坂上以上にルーツが怪しい。

 未婚の可南子と叔父の苗字が違うのは、両親の離婚で生き別れたからだ──と聞かされてたのに、実は真っ赤な他人だった。

 そうと知った今では、叔父の姓だけじゃなく周囲の人間の名前も全て疑わしいし、職場で机を並べるメンバーやら、通勤電車で毎朝一緒になる顔ぶれやら、コンビニのレジにいつもいる学生バイトのお兄ちゃんまでもがひとり残らず偽名だったとしても、多分中野は驚かない。

 そもそも苗字なんてのは、地名やロケーションに由来するものが多いはず。なら坂上のネーミングはある意味、由緒正しいと言えるんじゃないだろうか?

 いずれにしても、だ。

 彼の名前を正当化するために御託を並べる必要は、もうない。

 何故なら同居人はこのたび、坂上さかがみけいという名を正式に得た。



 中野坂上のの真相は、原因究明が長期化してるだの何だのと有耶無耶になったまま、のらりくらりと闇に葬られていった。

 瓦礫の下からは怪しい残骸が山ほど出てきたはずなのに、唯一の住人だった中野の扱いが『事故で住まいが吹っ飛んじまった不運な賃借人』に過ぎなかったことも、前のアパート同様の不自然さだと思う。

 だけど面倒は回避できたほうが有り難いし、揉み消し工作のカラクリにも興味はない。

 半壊した隣のアパートは、被害を免れた二部屋にしか入居者がいなくて、どちらも無事で事件とは無関係。

 ただし裏のお宅は、アンナのと関係があったという奥様……ではなく、夫のほうが秘密裡に拘束されて姿を消した。新井やヒカルが属する会社の仕業だった。

 理由はこうだ。

 ロシアの組織から依頼された人物を起点に数人を介したどっかの誰かが、事業に失敗して多額の借金を抱え込んでた裏の亭主にカネを積み、その亭主が知人を起点に数人を介してアンナの飼い犬の調教師──もとい、友人の知人──と妻が知り合うよう仕組んだ。

 狙いは、K御用達の武器商人であり、中野のガードのひとりと恋人関係にもあるアンナの周辺から情報を嗅ぎ取ること。でも、それだけじゃない。

 仮に裏のお宅を神田川さんとしよう。

 あるとき、神田川家の妻が通うピラティスだかホットヨガだかのクラスに、外国人ビジネスマンの奥様だという新入りがやってきた。

 ダンナの長期出張についてきた、日本語の拙い金髪美女。

 普段なら美形の同性を敬遠する神田川妻は──自分の引き立て役にならない女は邪魔でしかないからだ──何故か彼女とだけは瞬く間に親しくなった。

 否、親しくなったどころじゃない。

 いくらも経たないうちに神田川家に入り浸るようになった金髪女は、どういうわけだか、気づけば一家と寝食を共にする半居候にまで昇格していた。

 出張ビジネスマンの夫とやらは一体どうしてるのか。

 そんな疑問を抱きもせず合宿か寮生活気分でキャッキャしていた神田川妻は、彼女が隣接する古ビルの監視役として送り込まれたウォッチャーだなんて夢にも思わなかっただろう。

 そう。妻の友人が自宅に居座るのを黙認することも、神田川夫に課せられた『仕事』のひとつだった。

 ついでに、浮気のため留守がちな妻のいぬ間に亭主のほうもウォッチャーとさんざん楽しんだ──とか、ここまでのネタにちょい足しすれば映画の一本も作れそうなエピソードの末、あの晩の爆破に至った。

 で、情報を洗いざらい吐かせるためにヒカルたちの会社が亭主を攫ったというけど、本当にそれだけなのか、用が済んだらどうするのか、中野は聞いてないしどうでもいい。

 妻のほうは、夫がいなくなっても騒ぎ立てないようカネで口を封じた。

 別の言い方をするなら、カネで機嫌よく黙ってくれた。そりゃ、非課税の大金が転がり込んでくる上に愛人と過ごせる時間が増えるんだから、文句なんかあるわけない。

 これもひとつの、愛とやらの行く末ってヤツだ。

 胸の裡に咲いた美しい花が死ぬまで変わらないなんて幻想を信じてる人間がいるとしたら、よっぽど頑丈な箱の中で育ったか、ピーターパン・シンドロームを患ってる野郎か──性別を限定するのは、ソイツがどうやら男性特有の病らしいからだ──もしくはピーターパン以外の病気か、そうでなければ初めから美しくなんかなかったかの四択しかないと中野は思ってる。

 ヒトの心だって経年劣化する。

 モノと同じく負荷によって疲弊し、擦り減って衰える。

 勿論、モノと同じくメンテナンス次第で消耗を抑えることもできるだろう。何なら、それこそ頑丈な箱にでも入れておけばいい。

 だけど、そんなものを後生大事に仕舞い込んでる無菌培養の産物みたいな人物なんて、中野は未だかつてお目にかかったことがなかった。

 とにかく中野坂上の事故は既に片付いたも同然で、瓦礫もすっかり撤去された土地では上物の建設が進行中。廃業した定食屋の煤けたビルから一転、新たな箱は──まぁソイツは今、関係ない。

 ロシアの相続問題は、父親の事業をセルゲイが継ぐことで決着した。

 最初からそうしてりゃコトは単純だったのに、酔狂な億万長者が海外ドラマ並みに荒唐無稽なレクリエーションを用意してくれたせいで──まぁこれも、ここで恨み節を並べたってどうなるものでもない。

 妻の魔手から長男を守るためにガードを付けておきながら、一方でデスゲームに巻き込むという矛盾の不可解さも、故人が当たり前のことを好まないタイプだったという以外に説明が見当たらない。

 けど考えたってわかりようがないから、これも別にいい。他人の思惑を憶測するなんて愚行は時間の浪費でしかない。

 ただ、今回の騒動は無駄に傍迷惑なだけじゃなかった。禍から転じてくれた福が三つもある。

 ひとつ目は、中野を消すために坂上が派遣されたおかげで二人が再会できたこと。

 ふたつ目は、中野が手にした遺産の一部を遣って坂上の正式なIDを手に入れたこと。

 ふたつ目を手配したのは叔父だ。何をどうしたのかは知らないけど、今じゃ役所に行けば同居人の住民票を取得することだってできる。

 ご丁寧にマイナンバーカードまで取り揃えた各種身分証類が届いたとき、二人は半信半疑で中野区役所を訪れた。

 不慣れな正規の手続きを踏んで、窓口で受け取った一枚の紙切れ──職員のお姉さんから笑顔とともに渡された住民票をしばらく眺めていた同居人は、やがてぎこちなく顔を上げて中野を見た。

 胸の裡に渦巻く感情を、どう表現したらいいのかわからない。頼りなく揺らいだ面構えには、そんな戸惑いがありありと浮かんで見えた。

 全く、反則以外の何ものでもないよな? このギャップ……

 相変わらずのコミュ障っぷりに内心で苦笑しつつ、中野はゆっくりと首を傾けてこう言った。

「このへんが初めてで知り合いもいなくて泊まるところがなかったら、うちにきてもいいよ?」

 途端に何故か、つい今しがた揺らいだばかりの眼差しが銃口みたいに凶悪な圧力を孕んだ。一体、何が地雷だったんだろう?

 そして禍が生んだ最後の福──みっつ目は、ダミアンが盗んだ情報をもとにロシアの組織を壊滅させ、坂上が晴れて自由を得たこと。

 決して簡単なミッションじゃなかったとは思う。悪の巣窟を叩き潰すまでの数カ月間に、母の可南子なんか三度も死にかけたらしい。でも本題には関係ないから、その件は端折る。

 こうして稀代の殺し屋として名を馳せた『K』は過去の存在となり、クリスとダミアンの最強タッグによる情報操作で彼の身の安全も確保された。

 おかげで、セキュリティ上の都合からクルマ移動ばかりだった坂上が公共の交通機関を使いたがるようになって、今日もクソ暑いなか電車と徒歩のブラ散歩に付き合わされてるというわけだ。

 つい先日さっぱりと髪を切ったばかりの同居人は、真夏日の気温もどこ吹く風の涼しげな風情で中野の前を歩いて行く。

 寒い国で育ったくせに、剥き出しの項は汗もかいてない。

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