s1 ep16-5
その胸の裡を実際に口にしたのは酒屋だった。
「まさか、鏡を見たことがないとか言わねぇよな?」
「少なくとも出勤前には見るよ、これでも一応リーマンだからね」
「そんとき鏡の向こうにはどんなヤツが見えてんだ?」
「鏡の向こう側は壁だけど俺からは見えないな、鏡に阻まれてるから」
「──」
数秒無言になった黒豹みたいな男は、外観だけなら大人しい草食動物のようなエージェントへと目をシフトした。
「何か言ってやれよ、ガード。他人に守って欲しけりゃ猫を被る術でも覚えて可愛く擦り寄ってみせろってな」
「可愛くなくても俺は守るよ、仕事だから」
優しげな面構えを引っ提げて素っ気なく投げ返した同僚に、中野は尋ねてみた。
「俺、あの彼と似てる?」
「そうだな、アジア人の血が混ざってるから何とも言い難いけど、確かに親父さんの系統ではあるんじゃないか?」
「あぁ、そう」
もしかして中野さん、とアンナの声。
「お父さんの顔すらググってないんじゃない?」
その問いに中野が無言で肩を竦めると、やっぱりな……という空気が周囲に流れた。
だって仕方ない。実の父親なんて言ったところで、所詮は知らないロシア人に過ぎないわけだから。しかも自分の人生とは全く無縁の億万長者とくれば、興味なんか持つのは無理に決まってる。
それくらいなら、赤鉛筆を耳に挟んで競馬新聞片手にウインズ浅草あたりをウロつき、ホッピー通りで涙に暮れるようなロマンスグレーが「お父さんだよ」と現れるほうが、まだよっぽど実感が湧くと言うものだ。
だから、お父さんの画像出せるけど見る? というクリスの申し出を中野はやんわり断った。
「どんなルーツに実ったのかなんて、気にしなきゃならないとしたら食材くらいだよね?」
「うん? まぁ……そうだね?」
曖昧に首を捻ったシステム屋は、宙に数秒目を投げたあとセルフレームのメガネをクイッと上げて口調を変えた。
「それはそうと、セルゲイはあんなとこで何やってんだろうね? お母さんがパーティやってるってのに、外で怪しげな男たちと密会なんかしちゃってさ」
「息子は息子で、母親と折り合いが悪いって噂だしな」
答えたのは冨賀だった。
「へぇ、そうなんだ?」
「正しくは、息子を溺愛するあまりヴェロニカの干渉が過ぎて、セルゲイが母親を疎んじてる……とか、そんな話だったな」
「息子に過干渉なお母さんって、どこの国にもいるものなんだね」
溜め息混じりに首を振るクリスの様子からすると、ひょっとしたら身につまされるものでもあったのかもしれない。
中野は見るともなく、無機質な機器類と生命を持たないアメコミフィギュアがひしめく室内を目で一巡した。室温管理のためだろうか、ここも中野坂上の地下と同じく窓がない。
いずれにしても夜明けは数時間先だ。
今はまだ、中野にも坂上にも等しく陽の光は届かない。
突然、壁面ディスプレイの一画が慌ただしくなった。
次いで複数の映像が同じくザワつき始めたかと思ったら、唐突にダミアンカメラも復活した。
既に寝室は出たらしい。廊下を進む定まらない視界は、右往左往する招待客たちの姿を映していた。相変わらず音声は聞こえなくとも、現場の混乱は存分に伝わってくる。近くにヴェロニカの姿はない。
何が起こったのかを最初に掴んだのは情報屋だった。
自分のラップトップ──また元の椅子に戻ってたから、相変わらず正しく膝の
「まだ詳しいことはわからねぇけど、男が数人乱入してきて突然撃ち合いが始まったみてぇだな」
「どういうこと? Kがそんな雑なプランを立てるとも思えないし、一体どこの誰が何をやらかしたのよ?」
武器商人が憤慨を孕み、エージェント二人は厳しい表情でどこかに電話をかけ始めた。システム屋と情報屋はそれぞれ、ディスプレイを睨みながらキーボードを叩き続けていた。
ひとり手持ち無沙汰な中野は、彼らの誰にともなく尋ねた。
「でもこういうのって、想定外の何かが起こること自体は想定内だよね?」
「それはそうなんだけど。だからプランをいくつか用意してるはずだし、今もそのどれかを──」
答えかけたアンナの声が途切れたのは、おそらく彼女の目が壁のディスプレイに向いていたからだろう。
中野も同じものを見ていた。
巨大なウォールミラーの前を通り過ぎた直後、速やかにUターンするダミアンカメラの映像を。
クラシカルな装飾に縁取られた巨大な鏡の中で、シルクのガウン──色はチャコールグレイ──を羽織っただけのパンイチ野郎が乱れた髪を整え始めた。浅黒い肌、エキゾチックな面構え、グローバルなファッションモデルも余裕で務まりそうな引き締まった長身の肉体美。
坂上に拾われたときは不健全に倦んでいた頽廃の風情は、前に見たときよりも数段マシになったように見えた。かわりに、彫りの深い物憂げな眼差しにチラつくのは自信と自己陶酔の色合いだった。
剥き出しのシックスパックと黒いビキニブリーフに目を据えたまま、中野は隣で腕組みして立つ武器商人に声を投げた。
「あくまで客観的なイメージだけどさ、彼とのセックスは楽しいだろうね」
「中野さん、試してみる?」
「いや……」
鏡の前で悠長に身だしなみを整える姿からは、水面の己に恋をしたナルキッソスも顔負けの強烈な自己愛性が伝わってくる。
いっそ感心しながら眺め、中野は思った──このまま背中から弾でも喰らえば、自分にキスをしようとして水死した語源さながらになるな。
が、彼が大事なミッションをクリアしたか否かがわからない今はまだ、そうなってもらっては困る。どんな目に遭おうが知ったことじゃないけど、坂上の過去をデリートするための鍵だけは入手して欲しい。
ディスプレイの中の男がパッと耳を押さえて肩を竦め、そそくさと鏡の前を離れた。ヘッドセットに叱責でも飛び込んできたんだろうか。
「あんな男だけど、肉と欲の権化みたいな女が手放さなかっただけあって相当な素質よ? 中野さんもせっかくだから、一度くらい抱かれるほうを体験してみてもいいんじゃないかしら」
「せっかくだけど」
中野は素早く跳ね返した。
「俺はそっちには向かない気がするし、同時期に複数の相手と肉体関係を結べるほど器用じゃないんだよね」
わかりやすい説明で丁重に辞退したのは、電話を終えた同僚が斜め後ろに立ってることに気づいたからだった。
自惚れたいわけでは決してない。だけど万一「下になる立場を体験してみるんなら俺でいいじゃないか」なんて言われでもしたら、返す言葉を考えなきゃいけなくなる。
が、折良くヒカルが電話を終えたおかげで、アンナもするりと軌道修正してくれた。
「まぁとにかく、プランは何重にもあるはずだから心配しなくても大丈夫よ」
百戦錬磨の武器商人も、目下の恋人である女子エージェントの臍は曲げたくないようだ。
中野は答えた。
「そうだね、みんなプロなんだしね」
何のプロだかはわからないけど。
いずれにしても、案じたところでどうなるものでもない。壁の画面はどれも未だ、混乱の様相を映し出していた。ミトロファノフ家に向かってるものだろうか、公道のライブカメラらしき映像の中をパトカーの車列がフルスピードで横切っていく。
「あっ!」
いきなり、デスクに並ぶディスプレイと睨めっこしていたシステム屋が声を上げて立ち上がった。
「さっきチラッと映った銃撃犯らしい男をひとり顔認識システムにかけたら、92%の確率でマッチした人物がいたんだよ!」
興奮した声音とともに壁面ディスプレイの一面に現れた姿を眺め、中野はクリスに目を戻した。
「銃撃犯、覆面してるけど?」
「覆面から出てる目の部分に加えて、隠れてる部分をアウトラインや陰影から予測するアルゴリズムを使ったんだ。誰だと思う?」
「何もったいぶってんだ、さっさと言いな白豚野郎」
武器商人がイラついた声音で銃口を向けると、弾かれたように──勿論、実際に弾かれてはいない──システム屋から答えが飛び出した。
「セルゲイだよ」
「セルゲイ?」
女子二人が顔を見合わせ、ヒカルが訊き返した。
「って、あの? さっき怪しげな男たちと一緒に映ってた、ヴェロニカの息子?」
「そう。その、さっきの映像と比較してみたんだ。この覆面の彼が丁度同じような角度で映ったときにピンと来て、試しにやってみたら予測部分のしきい値が……」
今度はアンナの銃口より早く、ヒカルの半信半疑の呆れ声がクリスの御託を遮った。
「息子が母親のパーティで祝砲をぶっ放したって言うの?」
「銃乱射をそう表現してもいいならね」
クリスが言って、机上のマシンを操作する。壁の覆面男に別の画像──似たアングルで捉えたセルゲイの顔が重なり、いくつもの点と線でトレースされた末に『92%』の文字が表示された、そのときだった。
祝砲ならぬ叩きつけるようなアラームの音が複数、ほぼ同時に炸裂したのは。
タイミングがタイミングだったから中野は一瞬、やたら派手な認証完了通知かと思った。が、違った。
全員が動きを止めた次の瞬間、クリスが机のディスプレイに目を振り向けて顔色を変え、猛然とキーボードを打ちながらディスプレイに向かって──否、正確にはディスプレイにかぶりつくように身を乗り出して、ヘッドセットに叫んだ。
「中野くん! 中野くーん!!」
「俺ならここにいるけど?」
「あれ!? あっ、そうだった!」
と、どうやら相当混乱してるらしいシステム屋がほんの僅かに呆けた刹那、今度は情報屋がラップトップを片手で掴んだまま猛然と立ち上がった。
勢いで倒れた椅子が床のケーブルを引っかけて何かの機器を引きずり、ソイツが薙いだアメコミフィギュアの林が床にバラ撒かれてクリスの悲鳴が上がる。
が、冨賀の叩きつけるような怒鳴り声がそれを掻き消した。
「中野坂上が爆破された……!!」
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