s1 ep16-4

 余談ながら、これまで中野の裡にはこんなイメージが根付いていた。

 海の向こうでは、応接室だの個人オフィスだの寝室だのに客人を招き入れると自動的にアルコールを勧めるのが習わしである──

 しかしもちろん、そんなものは海外ドラマの中だけだろうと心得てもいた。

 現実には、警察関係組織のトップクラスのオフィスを訪ねた途端に真っ昼間からヴィンテージもののウイスキーで満たされたバカラのタンブラーをスマートな手付きで差し出されたりはしないだろう、と。

 が、今。

 真っ昼間のオフィスじゃなく夜の寝室バージョンではあるけど、リアル海ドラもどきのシーンが目の前で展開されてるとくる。

 まるで五つ星ホテルのスイートルームみたいに、エレガントでラグジュアリィなインテリアコーディネート。奥のバーコーナーで二脚のグラスに赤ワインを注ぐ、黒いドレスの立ち姿。

 カウンターにボトルを置いて振り向いた女が、妖艶な微笑みとともにグラスを差し出して寄越す。ソイツを受け取りながら、虫唾が走るほど繊細な風情で白い頬に触れる男の浅黒い指先。

 レンズの性能がいいらしい。さすがの魔女も間近で映せば肌年齢を隠しきれない。

 が、見る者を引き摺り込むかのようなグレイの瞳の色合いが、その事実から目を逸らさせる。ついでに目蓋を取り囲む濃密な睫毛のボリュームも、一体何割が自前なんだか気になって仕方なくさせる。

 優美に伸びてくる華奢な手は、グラスを満たす液体と同じくらい真っ赤な血で染まってきたに違いない。

 獲物を前にした捕食者みたいに淫蕩な表情が、ふとダミアンの元飼い主を彷彿させた。

 趣味と実益を兼ねて他人の生命を弄び、犯した男の額を撃ち抜くことを至上の愉しみとしていた殺し屋。きっと彼女たちは所属カテゴリが同じなんだろう。これはどうやら、適役過ぎるドMな犬──エキゾチックなシステム屋のモチベーションを必要以上に煽りそうだ。

 壁面ディスプレイの映像は、そのドMの目線を忠実に追っていた。

 夫の周忌イベントにしては大胆すぎるんじゃないかとドン引きされかねないほど開放感のあるデコルテの奥で、白く豊満な二つの膨らみが押しくらまんじゅうみたいにギュッと身を寄せ合ってるのがよく見える。

 何気なく武器商人に目を遣ると、セクシィダイナマイトな美女はやたら挑戦的な眼差しでクッと顎を上げて鼻で嗤うところだった。

 己の土俵に乗ってきた不届き者を排斥しようと本能が働く、一種の縄張り行動的な条件反射なんだろうか?

 が、そんなライバルの存在など露知らず、画面の中では笑みを掃いた唇がこちらに向かって何事か語りかけていた。

 深紅でもなく朱色でもない、くすんだ風合いの赤い口紅──その色を表現する語彙は中野の辞書には載ってない──は、瞳の色と絶妙にマッチしてる。が、同じ色がスタンプみたいにグラスの縁に付着してるのは興醒めするってものだった。

 考えるともなく思いながら、聞こえないことがわかっていても無意識に耳を澄ませて女の顔を凝視していた中野は、不意に脳味噌の片隅のセイフティゾーンで誰かがパチンと指を鳴らすのを感じてハッとした。

「そうか」

 思わず声を上げると、一斉に全員の視線が集まった。

 新井の硬い声が素早く尋ねた。

「どうしたんだ?」

「うん、あのさ、実はこういう顔タイプのロシア人女優がいたよなってさっきからずっと気になってたんだ。スヴェトラーナ・コドチェンコワだね。年齢と髪の色は違うけど、彼女が歳を取ったらこんな感じになると思わない?」

 すると数秒、暗くて寒い秘密基地が静寂に包まれた。

「それ──」

 宇宙人にでも出くわしたかのような目で口を開いたのは情報屋だった。

「今考えることか……?」

「じゃないかもしんないけど、そういうのわかんないとモヤモヤしない?」

 エージェント二人が呆れと諦めをミックスした顔で宙を仰ぎ、武器屋は唇の端を歪めて苦笑を浮かべるけど、だって仕方ない。

 求める答えは扉の外で待機してるというのに、なかなか飛び込んできてくれる気配がないもどかしさ。言うなれば、飲み口のすぐ際に隠れてるくせに一向に出てこないコーンスープ缶の粒みたいなモノだ。そんな焦れったさ、誰だって嫌に決まってる。

 だけど賛同を得られる気配はなさそうだ──と小さく肩を竦めたとき、ただひとりシステム屋だけが、だよね! と目を丸くして声を弾ませた。

「実を言うと僕も前から、誰かに似てる気がするなぁって思ってたんだよね! 言われてみればそうだね、おかげでスッキリしたよ中野くん、ありがとう」

「あぁそう? スッキリのお裾分けができたみたいで良かったよ」

「ていうか誰よ、それ」

 二人の満足げな応酬にヒカルの刺が割り込んだとき、新井と冨賀の声が重なった。

「あ」

「おいおい」

 彼らの視線の先では、ダミアンカメラの全画面が黒一色に塗りつぶされていた。

「不具合か?」

 冨賀の問いに、クリスが滑らかな指遣いでキーボードを叩いて首を振る。

「いや、ダミアンがカメラを切ったみたいだね。まぁほら……これからそのぉ、一戦交える予定なわけだから?」

 システム屋は、隠し切れないダダ漏れの未練を滲ませながらも諦めたらしい。八面の映像がそれぞれ個別の防カメ動画に切り替わるのを見て、ヒカルが舌打ちした。

「何よ、これからいいとこだってのにさ。殺し屋に飼われてた性奴隷の駄犬が今更出し惜しみする必要なんかどこにあんのよ?」

「まぁいいじゃない」

 おっとりと宥めたのは、目を細めたアンナだ。

「カメラがオンになってたって、見えるのは昼ドラみたいな濡れ場でもダミアンご自慢の肉体美でもなく、若い男にまさぐられてヨガるオバサマの裸だけよ? それとも、なぁに? ヒカルには普段たっぷりいいモノ見せてるつもりなのに、まだ足りないって言うのかしら?」

 クオリティ、メリハリともに狂おしいほどダイナミックな武器商人の、滴らんばかりにセクシィな微笑み。対して、エージェント女子の険は引っ込むどころかますます尖る。

 ついでに部屋の主は雪崩れた餅みたいな顔面に物欲しげな色を掃き、情報屋はニヤつきながら脚を組み替え、先輩エージェントは聞かなかったフリで我関せずの体を貫いた。

 まぁ確かにアンナが自信満々に宣う通り、彼女の裸体は鑑賞に値するだろう。だけど想像はできても性的興奮は伴わない。中野は視覚による性欲とも無縁な質だった。

 更に言えば視覚だけじゃなく、触覚すら関係ない。女の──だけじゃなく、もちろん男も──裸なんか見ようが触ろうが、これっぽっちも欲情しない。

 それでも身体的な機能は問題ないらしく、股間にブラ下がるキーアイテムも擦りさえすればセックスの際にはちゃんと役立ってくれた。

 必要なときにスイッチをオンにすれば作動する電化製品と同じだ。電流ならぬ血流によって海綿体が膨張し、使用可能なスタンバイ状態になる。

 セックスとはそういうものだ、中野は長年そう思ってきた。

 が。

 アラフォー領域にステップインしたこの期に及んで、思わぬ方向から例外が登場した。

 そもそも性的対象ですらなかった──少なくともそう思ってた──にも関わらず、理由も必要もなく「何となく、流れで」その気になって抱いちまった同性の居候。

 そう、当時はまだ同居人という感覚ですらなく、単なる居候に過ぎなかった。

 なのに何故、そんなことになったのか?

 だけど、解明できないことがわかってるものを分析しようと足掻くなんて時間と精神の浪費でしかない。だから気にも留めなかった──これまでは。

 でも今は考えてる。

 一体、何故そんなことになったのか。

 理由なんてものがあるとすれば脳味噌の中だと今までは思ってた。それがそもそもの間違いだった。

 坂上のことを考えると鳩尾の裡で臓腑が重たく疼く。

 彼を失うことを想像すると指先が冷たくなる。

 つまり、探すべき場所は脳味噌じゃない。心臓だ。

 自分の中には存在しないと思い続けてきた感情が、そこに迷い込んで隠れてたに違いない。

 坂上がいないとソイツがヘソを曲げて鳩尾の奥で燻り、ストライキのつもりで血を送らなくなって末端から冷えてくる。だとしたら何もかも辻褄が合う──

 脳味噌が九割方そんなことに気を取られる一方、壁一面のディスプレイを漫然と鑑賞していた残りの一割が、目まぐるしく変化するランダムな衛星動画に一瞬、過敏な反応を示した。

 その正体を認識するより早く、中野は無意識に声を上げていた。

「それってクリス、巻き戻せる?」

「どのモニター?」

 クリスが珍しく表情を引き締め、指定した画面を逆再生し始める。

「そこでとめて!」

「ここ?」

「いや、もうちょっと先の──そう、それ」

 指を突き付ける中野の両脇で、他のメンバーも身を乗り出した。

 映ってるのは、暗い木立越しに小さく捉えた、どこかの建物らしき壁際に潜む人影だった。

「彼だよ」

 え? と重なる異口同音。システム屋の手によって画像が拡大される。

 粗くてちっとも明瞭じゃないけど間違いない。灯りが乏しい夜の物陰でも、はっきり確信できる。鬼ヶ島に出向中の同居人だ。

「やだ、ほんと。多分K……よね?」

 アンナの呟き。

「中野お前──」

 呆れを通り越した風情で新井が首を振る。

「よく見つけたな、あんなの。しかも映ったの一瞬だったよな?」

「専用アンテナでも内蔵されてんじゃねぇのか?」

 冨賀の揶揄を右から左に聞き流し、中野は食い入るように人影を見つめた。

 壁の向こうを窺うような俯き加減の輪郭。髪も服装も黒っぽい、ということしかわからない。

 記憶にあるよりもやや髪が伸びたように見える人物は、スロー再生された画面の中でするりと姿を消した。



 ほんの一、二分前、リアルタイムに生きて動いていた坂上の姿。

 それ以上でも以下でもない現実を鳩尾の住人に言い聞かせていたら、今度は冨賀が声を上げて別の画面をクリスに戻させた。

 カメラのスペックの差なのか、こちらは比較的鮮明な画質だった。

 坂上の背景と似通った建物の陰で、見知らぬ外国人の男が四人、額を突き合わせていた。

「セルゲイだ」

 情報屋が口にした名前が誰のものか、中野はまるで思い出せなかった。

 が、それって誰だっけと質す間もなく、新井が訊き返した。

「ヴェロニカの息子の?」

「え、どれが?」

 クリスが巨体を起こして覗き込む。

「その、向かって右の奥にいるヤツだ」

 これ? と、遠目にもシュッとした正装の金髪をシステム屋が指す。

「そう、ソイツだ」

「よく知ってるねぇ、冨賀くん。大富豪の御曹司のわりになかなか人前に出てこないって噂だよね? セルゲイって」

「滅多に露出しねぇったって幽閉されてるわけでもあるまいし、情報屋がこの程度も知らねぇようじゃ食いっぱぐれちまうぜ」

「あら冨賀、あんた酒屋の稼ぎで食べてんのかと思ってたわ」

 彼らの会話を横目に、中野は父の嫡子だという人物を眺めた。

 画面越しに見る異母弟は、海ドラや洋画の登場人物で例えて言うなら、スタイリッ

シュな諜報員タイプの優男──もちろん、現実にそんなスパイはいないだろう──とでもいったところか。遠目にもシュッとした長身で、母親譲りか照明のせいか、明るい髪の色はやや赤みがかって見える。

「てか、なんかさ」

 ヒカルが何事か思いついたような目を隣のアンナに投げた。

「何となくミナトに似てない? やっぱり、お父さんが同じだから?」

「そうねぇ。明らかにパーツが同じとかではないけど、雰囲気かしら?」

「俺あんな、優男のスパイみたいな感じ?」

 前にも同じことを同居人に訊いた気がするな……と思いながら中野が口を挟むと、彼女たちだけじゃなく全員が一斉にこちらを向いた。

 彼らの目は例外なく、こんな風に言いたげに見えた。

 今更何言ってんだコイツ──?

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