s1 ep16-3

 勿論、坂上が貞操の危機に晒されるドキュメンタリーを観たいなんて本気で思ったわけじゃないし、既に片の付いた出来事なら尚更興味はない。

 それよりも中野の脳内には、さっきから小さな疑問が居座っていた。

「ところで、彼はどうしてこっちでの受信を禁じてんの?」

「え? どうしてって……」

 問いをキャッチしたシステム屋が、セルフレームの向こうのつぶらな目を一瞬泳がせた。

「聞いてはないけど、そりゃまぁ──万一のときのためだろうね?」

「つまり?」

「だからぁ……もしもだよ? つまりその、しくじっちゃった場合にさ。その場面が中野くんの目に触れるのを避けたいんだよ、K的には」

「あぁ、なるほどね」

 しくじる、の意味は訊き返さなくてもわかった。言うまでもなくソイツは、フランス人形による襲撃事件程度のトラブルじゃないんだろう。

 瞼を閉じて数秒思案する。

 もしもそのシーンを目撃することになったとしたら、自分は後悔するだろうか?

 逆に、見なかったとしたら?

 答えの針は数秒で振れ、中野は開けた目をクリスのふやけた顔面に戻した。

「俺がここで覗き見てるかどうかが、彼の首尾に影響する?」

「しないだろうね、少なくともバレない限りは」

「バレる可能性は?」

「まぁ、とりあえずはないと思うけど」

「じゃあ見てるよ」

 しくじる場面とやらを自分が目撃する羽目になったとしたら、坂上はデリカシーに欠ける同居人を呪うかもしれない。けどそれは知ればの話だし、実際に万一のケースになっちまったら永遠に知りようがない。

 新井は部屋の入口付近で、どこかからかかってきた電話に対応中だった。

 二人揃って腕組みした女性陣は厳しい表情で壁の画面を睨み、時折何かを囁き合っている。

 ヒカルの抑えた声がチラリと聞こえてきた。

 あのクソデカいダイヤ、本物だと思う──?



 ディスプレイの表示が切り替わった。

 全面を占領していたダミアンカメラの視界が左半分に縮小され、残りの画面が各々軍用衛星の映像に戻る。

 しばらく、中野は目まぐるしく変化する八面の光景に目を凝らしていた。あれらは現場周辺の監視映像ばかりを拾ってるはずだ。なら、ひょっとしたら坂上の姿を一瞬でも拝めるかもしれない。そう思ったからだ。

 が、やがて一旦諦め、左のマルチモニターに視線を移した。

「あのエキセントリックな彼は、パーティに潜入して何するわけ?」

「えっとね、これからヴェロニカに近づいて誑かして、ベッドルームにしけ込むんだよ」

 子供向けアニメのキャラみたいな面構えで、クリスが無邪気な口ぶりを寄越した。

「ベッドルームにしけ込むのは必要なプロセス? それとも彼の趣味?」

「さすがのダミアンも今、趣味でそんなことやってたら中野くんのお母さんに殺されちゃうと思うよ。何しろお母さん、ここ数日は相当ピリピリしてて、つい三日前にもベラルーシで敵に買収されてチームを危険に晒した協力者を問答無用で始末したところだもんね」

「ピリピリしてなくてもやるんじゃないのかな」

 適当にコメントしながら中野は思った。

 三日前だったら、坂上が電話してきた夜よりも前のことになる。何かあった? という問いを素っ気なく否定したくせに、実情はトラブルだらけだったらしい。

「ダミアンのベッドルーム行きミッションは、ヴェロニカの隠し金庫の場所とか暗証番号とか、パソコンやスマホのパスワードなんかを盗むための手段なんだよ」

「金庫って、欲を掻きすぎじゃない?」

「狙いは金目のものじゃないよ、中野くん。いや勿論あれば有り難いけどさ、それよりも彼女が抱えてる情報が目的なんだ」

「例えばどんな情報?」

「言うまでもなく中野くんやお母さんに関する情報も山ほど握ってるはずだし、一番重要なのは例の組織へのアクセス権だね」

「それって、Kが育ったところ?」

「そう。ヴェロニカと組織の付き合いは長くて深くて、上層部には愛人までいるんだ。それも、ひとりじゃなく数人だよ? ──で、彼女から盗んだ情報を経由してソイツらのIDを拝借して、組織の中枢にアクセスしてKの記録を消そうってわけ。彼の殺し屋としての経歴を綺麗さっぱり丸ごとね。ちなみに言い出しっぺは中野くんのお母さんなんだよ」

 あんな母親でも、たまにはまともなことを考えるらしい。

「なるほどね。じゃあ彼には、何としてもベッドで上手いことやってもらわなきゃいけないわけだ」

 そのミッションさえクリアしてくれれば、ダミアンの正体が敵にバレようが消されようが個人的にはどうだっていい。中野は思ったが口には出さなかった。

 だけど、ちゃんと坂上の役に立つのなら、首尾よく全てが終わるまでは生き延びてくれたほうが都合がいい。そうも思ったが、これも口には出さなかった。

 コーヒーでも淹れるわ、と言ってアンナが部屋から出て行った。

 所狭しとひしめく機器類を冷却するためだろうか、室内はやたら寒い。そういえば女子二人なんて、まるで屋外にいるかのような完全防備だ。

 アンナと入れ替わりに新井が戻ってきて、中野の横に立った。

「仕事の電話?」

 小さな頷きが返る。

「何か新しい情報でも?」

「いや、今のところ目新しいものはない」

「みんな、こんな時間までよく働くよね。新井たちのって、やっぱり二十四時間営業なわけ?」

「勿論常駐のスタッフはいるけど、表向きは九時五時勤務ってことになってる──あそこにいるな」

 壁のディスプレイを見つめたまま不意に新井が言い、つられて中野も顔を戻した。

 同僚の視線はダミアンカメラのディスプレイに向いていた。となれば、誰が? なんて尋ねるまでもない。あの映像が目指す人物はひとりしかいない。

 ダミアンの視界には一見、上品にさざめく招待客たちが溢れてるだけだ。

 が、奥の一角で談笑する男女の輪の中心に、明らかに主役然とした女の気配がチラついていた。

 露出度の高い、身体に貼りつくような黒のロングドレス。左の太腿まで切れ込んだスリットから覗く脚線美は、しかしアンナのほうが若干上手だろうか? ──中野が思うと同時に、ヒカルが小さく鼻を鳴らした。

「なかなかの脚だけど、アンナには負けるわね」

「やっぱりそう思う? けど、それって彼女自慢だよね? 本人が戻ってきたら言ったげなよ、絶対喜ぶよ」

「何言ってんの? 彼女なんかじゃないし、客観的な事実を言っただけだから!」

 元カノがデレのあとにツンを発動する間にも、だんだん近づく女の姿。

 ダミアンの存在に気づいたらしい、招待客の壁の狭間からターゲットの目が真っ直ぐこちらを射た。

 猫を連想させるグレイの瞳。白い肌、緩いウェーブを描く赤毛のロングヘア。何の根拠もなく金髪碧眼を想像してたけど違ったようだ。

 四半世紀前に夫の愛人の命を狙い、今度はその息子を消そうとしている女。

 坂上を殺し屋として育て上げた組織と深い繋がりを持ち、彼の──ついでに中野の、父となるはずだった男を死に追い遣った女。

 その張本人が今、取り囲む客たちに目配せして場を離れ、泳ぐような足取りでこちらに歩み寄ってくる。足の運びに合わせてスリットが優雅に閃き、二歩ごとに左の太腿が露わになる。

「間違いない、ヴェロニカ・スルツカヤだな」

 新井の呟きを聞いて、そうか夫婦別姓なんだな、とどうでもいいことを考えた。

 やがて目の前で足を止めた女は、鷹揚な笑みを浮かべて何か言ったようだった。が、残念ながら声は聞こえない。

 中野の母とさほど変わらないはずの年齢は、外観を見る限り不詳。生まれ持った素材か、それともカネにモノを言わせた結果か。少なくとも、大胆に開いたデコルテで煌めくネックレスは値段の見当も付かない。

 ダミアンが差し出した浅黒い手に細く白い指が被さる。どうやら無事、エスコートを受け入れてもらえたようだ。

 ただし、先導するのは女のほうだった。

 白い腕にいざなわれて人々の間を縫い、数歩にひと組のペースで客と挨拶を交わしながら──つまり焦れったいほど時間をかけて──優美なアールを描く階段にようやく到着する。

 白い大理石。手摺りの黒いアイアンの、気が遠くなるほど精巧な装飾。塵ひとつ見当たらない深紅のカーペットを踏んで上階に登り切ると左に折れて、下のフロアとは打って変わってひと気のない廊下を奥へと進み始める。

 まるでFPSみたいだ。中野は思った。一人称視点で画面上の空間を移動しながら敵を倒していくシューティングゲーム? 耳朶という、顔に近い位置にカメラがあるせいだろうか。

 とは言え一般的なイメージとして連想しただけで、中野自身は一切ゲームはしない。

 戻ってきたアンナがコーヒーのマグを配って回り、中野も香しい湯気とともにひと口啜った。

 熱い液体が臓腑を流れ落ちていくリアルな感覚が、今いるこの場所も、画面の向こうの光景も、まるで海外ドラマみたいなこの展開も何もかも、バーチャル・リアリティなんかじゃないことを改めて実感させる。

「ところで今、向こうは何時なの?」

 中野の問いに、新井が手首のスマートウォッチをチラリと覗いた。

「時差はマイナス六時間だから、そろそろ二十一時ってところかな」

「ふぅん。そもそも、あれって場所はどこなわけ?」

 次の瞬間、中野は全員の目を一身に浴びていた。

 初めに口を開いたのはヒカルだった。

「え? 今更……?」

 唖然とした声音に続いてクリスが言った。

「サンクトペテルブルクだよ中野くん、今までどこだと思ってたの?」

「何となくモスクワあたりなのかなって想像してたけど、違ったんだね」

 アンナが軽く笑って肩を竦める。

「つまり自分の生い立ちを聞いても、お父さんについて調べたりはしなかったわけね?」

「まぁ、興味なかったから」

 答えた直後、眼差しを険しくした冨賀の詰問口調が飛んできた。

「Kがどこに行くのかも興味なかったって言うのかよ?」

「手の届かない場所ならどこだろうと同じだし、それに具体的なことを知っちゃうと余計に気になるからね。だったら知らないほうが日常生活に支障を来さなくて有り難いよ。そもそも気になったところで、お宝映像を覗き見る楽しみをお裾分けしてもらえるわけでもないし」

 ちょっと! とヒカルが眦を尖らせた。

「チクチク僻むのやめてくんない? 女の腐ったのみたいに! 言っとくけど私と新井先輩だって、情報はもらってても盗撮のことは知らされてなかったんだからね!?」

 セリフの後半には腹立たしげな目が武器商人を射たところを見ると、ソイツは中野に対する苛立ちだけじゃなかったのかもしれない。

 つまり鬼退治ご一行の盗撮ドキュメンタリーは、Kの愉快な仲間たちだけで観賞してたってことらしい。

 勿論、彼らには長年Kと協力し合ってきた絆みたいなモノもあるだろう。だからこそ中野の目に触れさせないことが、坂上への配慮でもあったんだとは思う。

 が。

 理解できることとと納得できるか否かは全く別だった。

 なるほど、これが理性と感情の乖離ってヤツか──馴染みのない新参者でも見かけた気分で中野はゆっくり首を傾け、小さく肩を竦めた。

「まぁね、僻んでるってのは否定しないよ。けど女の腐ったのっていう表現、つくづく性差別的な比喩だと思わない?」

「そこ別に喰い付くとこじゃないから」

 低く吐いて湯気の立つマグを両手で口に運ぶヒカルの手前で、新井が何かに気づいたような顔をした。

「じゃあ中野お前、もしかしてヴェロニカを見るのも初めてだったのか?」

「うん、まぁね」

「のんきなもんだな」

 呆れ声は同僚じゃなく、情報屋のコメントだ。

「で? どうだ? 仇敵の姿を拝んだ感想は」

「特にどうってことはないかな」

「おいおい、自分や母親を殺そうとしてる女だぜ?」

「でもまだ生きてるからね、俺も母親も……」

 言いかけて首を傾けた中野を見て、アンナが小さく笑った。

「心配ないわ、お母さんなら生きてるわよ」

「だよね。まぁ母親については心配っていうより、死んだって聞かされてもまたフリかもしれないって疑うとこだけど。でも──」

 ダミアンカメラを通じて異世界からこちらを見つめる女の、妖艶な眼差し。ガラス玉みたいなグレイの瞳は、百戦錬磨の悪人には似つかわしくないほど澄み切ってる。

「ウチの同居人に何かあったら別だよ? そうなったら感想どころか、彼女には心の底から後悔してもらうよ。この世に生まれてきたことをね」

 マグから立ち昇る豊潤なコーヒーの香りが、ふわりと鼻腔を掠める。

 冨賀が皮肉げな表情で片眉を上げ、チラリと新井を掠めた目を壁のディスプレイのほうへ投げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る