s1 ep15-3

「何考えてんの!?」

 ヒカルが気迫の籠もった形相を振り向けた。風を切る擬音でも聞こえそうな勢いだった。

「いや、外に出ようかなって」

「だからそれが何考えてんの!? いいからドアをちゃんと閉めて!」

 喚かれて仕方なく、半ドア状態の扉を閉め直す。

「何なのよ一体……!?」

「俺が外に出て狙われたら、彼が戻ってきたりしないかなって思って」

「何なのその、中二病みたいに周りを顧みない自己愛的発想?」

「お空のお星さまが想いを届けてくれるかもしれないから、試してみたかっただけだよ」

「あぁもう私が悪かったわよ! ちょっと揶揄っただけじゃない、あんなにミナトしか眼中にないKが浮気なんかするわけないでしょ? ミナトなんかの何がそんなにいいんだか、私にはさっぱりわかんないけどね!」

「ヒカル」

「何よ?」

「生理中?」

 元カノの顔面を覆う険が瞬時に濃さを増した。

「──大人しく座ってて」

 いやに静かな一喝のあと、SUVは落ち着き払った物腰で右に頭を出して車線に戻った。



 黒い車体は、粛々と次の訪問先に向けてひた走る。

 さっきまでと打って変わって無言になったヒカルの後頭部に向けて、中野は尋ねた。

「アンナと痴話喧嘩でもした?」

「黙っててって言ったわよね?」

「大人しくしてろって言われただけだよ。朝食のパンケーキを横盗りでもされた?」

 途端にヒカルの電圧が跳ね上がった。

「パンケーキじゃないわ、お取り寄せのホテルベーカリー冷凍パンセットよ!」

 中野の当てずっぽうな問いは、どうやら弓道の霞的で言うところの『一の黒』──真ん中の白丸を取り囲む、黒い輪っかの辺りを射たようだ。

「最後のお楽しみに取っといたカマンベールのヤツを食べちゃったんだから、私が起きる前にね!」

「アンナが?」

「他に誰がいるって言うの? しかも半分くらいベランダで鳩にバラ撒いてたのよ!?」

 元カノの憤慨は、まるでアンナと朝を迎えるのが当然かのような口ぶりだった。

「あぁ、鳩に餌をやるのはご近所トラブルに発展しかねないし、環境や生態系の問題もあるようだから確かに推奨はしかねるよね。知ってる? 中野区のホームページなんかさ、わざわざ鳩の何たるかや被害だの対策だのを懇切丁寧に説明してるページがあるんだよ」

「いくら自分が暮らす自治体の公式サイトとはいえ、一体どんな必要があってそんなページを見たわけ? ていうかまさか、生態系を壊しかねない行為に私が怒ったなんて思ってないわよね……?」

 怒れる乙女が本格的に噴火する一歩手前で、幸い目的地に到着した。

 今回の訪問先では来客用の駐車スペースが確保できないため、クルマを停めたのは近隣のコインパーキングだった。地下駐車場じゃなく、地上の平置きだ。だから少なくとも、先日みたいな周回コース鬼ごっこがおっ始まるとは思っていなかった。

 かといって、決して油断してたわけじゃない。

 相変わらずワイシャツの下には防弾ベストを着用させられ、相変わらず中野には窺い知れない警戒要員たちが周囲に配置されていようが、そこらへんのビルからスナイパーライフルで頭を狙われたらひとたまりもない……なんてことは、重々承知してる。

 だけど、そんな自戒ももはやルーティンワークとなりつつあって、油断はしてなくとも麻痺していた感は否めなかった。

 クルマを降りて歩き出した十数秒後、足元で地面が弾け飛ぶまでは。

「──」

 その瞬間に聞こえたのは弾丸が空を切る音か、アスファルトを抉る音か。それとも割れ飛んだ骨材が路面で跳ねた音か。

 同時に視線を落とした二人は、一拍置いて顔を見合わせた。

「──走って!」

 叫ぶなり中野を突き飛ばすような勢いで駆け出したヒカルとともに、中野は全力で走り出した。

 間髪入れず、すぐ後ろで再び何かが爆ぜる気配。どこを目指せばいい? なんて確認する間もなく、近くにあった雑居ビルのエントランスに二人して飛び込む。

 すかさず壁の際から表を覗き込んだヒカルが、スカートの裾をサッと払って腿に装着したサイホルスターから銃を引き抜いた。一瞬翻ったスカートの下で、ちゃんとウエストから吊られていたソイツは、つまりガーターベルトみたいなものだとでも言うべきか。

 が、女子が携帯するにはちょっと大きすぎるんじゃないかと思えるサイズの黒光りする火器を眺めて中野は思った──まさか、あんなものを忍ばせて客先に乗り込むつもりだったのか? 膝丈のフレアスカートに隠して?

 座ったり立ったりした拍子に客の前で見えちまったら、いくらガーターベルトに似ていようがお色気で誤魔化せるものじゃない。ましてやポロリと落としたりなんかしたら、一体どう言い訳するつもりなんだ?

 呆れながら見るともなく彼女の足元に目を遣ると、ビジネスウーマンの戦闘靴、5センチヒールのパンプスだった。ヒールの太さは少なくとも安定感がありそうには見えない。

 危険を冒してスカートの下に鉄砲まで携帯してるっていうのに、このアンバランスは一体何だろう?

「よくその靴で全力疾走するよね」

「はぁ!?」

 即座に苛立ちが飛んできたから、もう余計な口は叩かないことにした。

 それからの状況は、中野にはよくわからなかった。

 現場を担当してるのはどこからともなく現れた警戒要員たちで、古びた雑居ビルのエントランスの隅に押し込められた中野の視界は、出入口から外を窺うヒカルに遮られていたからだ。が、なかなか決着がつかない気配だけは嗅ぎ取ることができた。

「あぁもう、どうなってんの?」

 チラチラと腕時計を覗き始めたヒカルが、やがて痺れを切らしたように吐き捨てた。

「早く片付けてくんないと時間に遅れるじゃない……!」

「気になるのはそこなんだ?」

「そりゃあそうよ、なかなか付け入る隙のなかった担当の狸親父からやっと奪い取ったアポなんだからね!」

「ヒカルも立派に会社員だね」

 感心する中野に、彼女はキリッと意を決した目を寄越した。

「ちょっと加勢してくるから、ここで待ってて」

「あのさ、別に守られたい願望の女子みたいなこと言うつもりはないけど、一応訊くよ。俺をひとりで置いてって万一のことがあった場合、ヒカルが新井に怒られたりしない?」

「まぁ、怒られるじゃ済まないわね」

「じゃあさ、もう一緒に行こうよ。彼らだけじゃ埒が明かないんだったら、いずれにしろどうにかしなきゃいけないわけだし。俺が行こうが残ろうがリスクがあるんなら、行って少しずつでも訪問先に近づくほうが合理的なんじゃないかな」

「──」

 中野の提案をヒカルは数秒、気迫漲る表情で吟味していた。が、ついに腹を括ったように顔を上げ、言った。

「わかったわ、一緒に行こうじゃないの。ただし! 絶対に私から離れないでよ」

「了解」

 雑居ビルを出た二人は、物陰を縫うようにして移動を開始した。

 目的地までは、およそ300メートル。

 物騒な物音も戦闘員の気配も今はなく、戦況がどうなってるのか全く読み取れない。それでもヤマアラシみたいに尖った警戒心満載のヒカルにガードされつつ、上手い具合に目指す建物に近づくことができた。

 ゴールはもう目と鼻の先、あとは裏手の通用口に回り込むだけだ。アポイントの時刻、七分前。このまま無事ビルに飛び込むことができれば──実は客先の建物内に敵が潜んでいて、ばったり出くわした……なんてことにならない限り、ギリギリ約束に間に合う。

 通りの左右に素早く目を配ったヒカルが、行くわよ、と囁きながら振り返って中野を──正確には中野の額のあたりを見て、ほんの一瞬凍りついた。

「伏せて……!」

 鋭い声とともに彼女の脚が中野の膝を薙ぎ、同時にどこかで力強い破裂音が響いた。

 耳を打ったのは間違いなく銃声で、遠くから狙撃されたにしては妙に近く感じられた。足元から引っ繰り返されて咄嗟に受け身を取った中野はしかし、倒れるときに頭を庇った右腕を強打したようだ。きっと今夜あたりから変色し始めるだろう。

 スーツの袖が破れてないことを確認してからヒカルを見ると、彼女は不思議と警戒心の欠片もない風情で立ち上がるところだった。ただし、妙に表情が険しい。

 その視線を追って、中野は理由を悟った。

 路地の中腹に白いワンボックスが停まっている。

 そこらじゅうで嫌というほど見かける国産のミニバンのようだけど──どれも同じに見えるからエンブレムでも確認しない限り車種はわからない──注目すべきは、屋根からニョキッと突き出た人間の上半身だった。

 パーマのかかったロングヘアを無造作に払う仕種。重たげにルーフに乗っかる、レザーっぽいジャケットの胸元のボリューム感。まるで、そこから生えてでもいるかのように上方に向かって雄々しく屹立する、三脚で据えられた黒くて長い銃器。

 ライフルのスコープから顔を上げてこちらを見たのは、言うまでもない。坂上お抱えの武器商人だ。

 遠目にも窺える艶然とした笑みから傍らの元カノへと、中野は視線をシフトした。

「カマンベールのパンだっけ?」

 答えはない。

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