s1 ep15-4

 仏頂面のヒカルがスカートの汚れを払い、足元に落ちていたキャメルのトートバッグをサッと拾って肩に引っ掛けた。

「行くわよ、ミナト」

「彼女に挨拶もなく?」

「アポに遅れるでしょ!?」

「けど命の恩人だよ? そりゃ打ち合わせも、もちろんパンよりは大事だけどさ」

「いちいちパンのこと言うのやめてくれない?」

 眦を険しくしたヒカルが、口を半開きにしたまま明後日の方向へと目だけを動かした。

 つられて追った視線の先には、ミニバンから降り立ったアンナの姿があった。

 長い脚線美をこれでもかと見せつけるブラックジーンズに、直立歩行できるのが奇跡としか思えないくらい細くて高いヒールに支えられた黒革のショートブーツ。

 上半身には同じく黒革のライダースジャケット。ジッパーが胸の下までしか締まってないのは、そこから上のボリュームが収まりきらないからに違いない。ジャケットの中にはオフホワイトのニットが覗き、風邪をひかないだろうかと心配になるほど開いたVネックの襟元では、豊満な二つの丘と底の窺えない谷間が惜しげもなく披露されている。

 メリハリ十分の長身が自信に満ち溢れたムーヴメントで歩いてくる姿は、もはやビルの狭間の路地をランウェイに変える貫禄たっぷりのモデルウォーキングだった。

 やがて二人の前で足を止めた武器商人は、唇の端をセクシィに歪めてこんな挨拶を寄越した。

「怪我はないかしら? 子猫ちゃんたち」

 それって俺もかな、と中野が応じるより早く、ヒカルの鋭い声が飛んだ。

「余計なことしないでよね!」

「あらあら、ごめんなさいね。ピンチに陥ってるようだったから、つい」

 恩知らずなエージェントの怒声も、アンナは余裕の笑みでやんわりと受け止める。鳩尾の辺りで組んだ両腕が、ただでさえ零れんばかりのニットの胸を更に押し上げていた。

「別にピンチなんかじゃなかったんだから! それより、あのPSG1いつ入ってきたのよ? ついこないだ手元にないとか言ってたくせに……!」

 ヒカルが刺々しく指を突き付けた先にはミニバンがあった。察するにカマンベールのパンだけじゃなく、あの屋根に乗ったスナイパーライフルも何か問題らしい。

「やだわ、ヒカルったら」

 アンナが気怠い眼差しを甘く弛めた。重たげに見える彼女の目蓋は、睫の重量のせいで実際に重いのかもしれない。

「そうよ、だからヒカルのために仕入れたんじゃない。しかも貴女好みにカスタマイズした特別仕様よ?」

「──」

「今日、お昼過ぎにやっと届いて。ヒカルの喜ぶ顔を一刻も早く見たかったから、白豚野郎に現在地を探らせて報せにきたら、なんと可愛い子が敵に襲われてるじゃない? そりゃあ思わず余計な手出しだってしちゃうわよ」

「──」

「だけど謝らなきゃいけないわね、貴女のPSG1を私が筆下ろししちゃったこと」

 ごめんなさいね、とアンナが伸ばした指で頬に触れても、もうヒカルは怒らなかった。代わりに仏頂面のまま俯き加減にこう漏らした。

「別にライフルの筆下ろしくらいさせたげてもいいけどっ、そっちはあんたが専門なんだから」

 つまり、どうやらプレゼントはお気に召したようだ。

 武器商人の満足げな微笑みが一層深まる。ヒカルの肌を滑る指先の爪は、職業柄か短めに整えられ、綺麗に塗り分けられていた。先端だけ色味の異なる真鍮カラーは、ひょっとして弾丸のデザインだろうか。

 シックな色合いのネイルを見るともなく眺めていると、頬から離れたその手が断りもなくエージェント女子のフレアスカートの裾に這い込んだ。

「ちょっ、何すんのよ!?」

「作ってあげたホルスター、ちゃんと着けてくれてるのね」

「だったら何なの、こんなとこでそんなことすんのやめてくんない!?」

「それって、こんなところじゃなきゃいいってこと?」

「なんか王道な会話だね」

 中野が脇からコメントしたとき、ミニバンのスライドドアから白っぽいものが覗いた。

 首と顎の境界が曖昧な色白の広い顔面。その上にちょこんと載っかる、黒くて四角いセルフレームの眼鏡。アメリカのアニメか企業のキャラクターみたいにデフォルメ感満載な天然パーマのデブが、相変わらず人懐っこい笑顔を満面に描いている。

 アンナ曰く『白豚野郎』──システム屋のクリスだ。

 が、ゆるキャラみたいにふやけた緊張感のない面構えが、何故か不意に強張った。

 と同時に視界の端でアンナの腕が一閃し、振り返ったときには数メートル背後にスーツ姿の人物が倒れていた。

 仰向けに転がった男の喉に九十度の角度で立つ、大振りの刃と頑丈そうな柄。ここから見える限りアジア人ではないようだ。ダラリと投げ出された右手の先には、やたら鼻先の長い──減音器サプレッサーだろうか──鉄砲と茶色っぽいビジネスバッグが所在なげに落ちている。

 ブルーストライプのワイシャツの襟元から路面へとみるみる広がる赤い染みを見て、中野は首を振った。

「確かに真っ昼間のオフィス街って、意外と人目のないエアポケットみたいな場所があったりするけどさ」

 まさに今、そういう状況ではある。

「でも絶対に第三者に目撃されないって保証はないよね」

「大丈夫、サバゲーイベントだとでも思うわよ」

 武器商人が即答した。

「平日の昼間のオフィス街で?」

「いつどこでどんなイベントを開催しようが、然るべき手続きを踏んでる限りは勝手よ」

 これが然るべき手続きを踏んだイベントじゃないのは勿論のこと、明らかな違法行為をいくつも犯したばかりの当人は、己の行為を省みる素振りもなく軽い口ぶりで続けた。

「せいぜい、自分たちはあくせく働いてるってのに全くニートのヒマ人どもは……なんて忌々しく感じるくらいで、実弾でドンパチやってるなんてさすがに考えないわ」

「なるほど。サプレッサー付きの拳銃をチョイスしたスーツ姿の外国人参加者が、刃物と血糊の凝った演出で無言のヒットコールをするなんていう随分風変わりなサバゲーイベントも、まぁ絶対にないとは言い切れないかもしれないね」

 まずあり得ないとは思うけど。

 くたばった男のほうへ再び目を遣ると、どこからともなく現れた黒ずくめの警戒要員たちが回収していくところだった。

 コンバットパンツにブーツ、プロテクター、ヘルメット、タクティカルベストその他諸々フル装備の彼らは、なるほど確かにディテールまで拘った凝り性なサバゲーマー集団に見えなくはない。少なくとも、肩に担いでる銃がまさか本物だなんて普通は思いもしないだろう。

 が、ふと、こんな考えが中野の脳裏を掠めた──ところで彼らは本当に必要なのか?

 結局、敵の排除はビジターであるアンナひとりに出し抜かれ、実りある作業と言えば後始末だけだったってことになる。

 だけど視点を変えれば、あれはあれで大事なファクターなのかもしれない。何しろ国内外のあらゆるドラマにおいても、事が収まった直後に大挙してやってくるパトカー部隊は不可欠な演出だ。

 役目を終えて速やかに撤収する警戒要員たちと入れ違いに、ミニバンを降りたシステム屋が恐る恐る近づいてきた。

「もう大丈夫そう?」

 キョロキョロと辺りを窺う白い巨体は、ホテルのジュニアスイートで大集合した夜以来だった。

「久しぶりだねぇ、中野くん」

「こんにちは、元気だった?」

 焼け過ぎで膨張しきった白餅みたいな愛嬌たっぷりの顔面に挨拶を返し、中野は尋ねた。

「ダミアンがシステム担当で鬼退治に連れてかれたけど、ほんとはKと一緒に行きたかったんじゃない?」

 するとクリスは、とんでもない、と首をフルフル横に振った。

「僕は現場向きじゃないからさ。使い捨てにちょうどいいサノバビッチがいてくれたことに、むしろ感謝してるよ」

「え……いくらアイツがクソみたいなクズ野郎だからって、そこまで言っちゃうとかどうなの……?」

「人畜無害そうなマヌケ面のくせに、結構な口を叩くわよね。アンタも使い捨てにしてやろうか?」

 ドン引きする女子陣を見て中野は思った。ダミアンを連れて行くと聞いたときに同じようなことを考えたけど、口に出さなくて正解だったらしい。

「あっ!」

 唐突に声を上げたヒカルが鬼気迫る形相を中野に振り向けた。

「遅刻よ!!」

「だよね」

「なんでそんなのんきなのよ!?」

「いや、わかってたから」

「なんで早く言わないの!?」

「だってヒカルもわかってるだろうし、邪魔しちゃ悪いかなって思ってね」

「邪魔って何の──」

 言いかけて武器商人を目で掠めた彼女は、ますます表情を険しくして無言で方向転換した。

 そのまま大股で去っていく背中から美女と家畜コンビのほうへと、中野は視線をシフトした。

「じゃあ、二人ともまたね。今日は本当にありがとう」

「大したことはしてないわ」

 銃弾と刃で殺し屋の息の根を止めた女は事もなげに微笑んだ。

「仲間に危険が迫ってたら助けるのは当然のことよ。それに何より、Kを悲しませずに済んで本当に良かった」

「中野くん、久しぶりに会えたからもっと話したかったのになぁ」

「クルマの中で震えてたヤツは黙ってな、白豚野郎」

 彼らの声を聞きながら中野はチラリと思った。そういえば、今日は情報屋は一緒じゃなかったんだろうか? が、決して会いたいわけじゃないから結局はどうだっていい。

 何やってんの行くわよミナト! と、建物のエントランス前でヒカルが声を張り上げる。

 会社員としての責務にピリつくエージェントの姿に、武器商人がうっとりと相貌を崩した。

「あぁ、社畜してるヒカルも可愛いわねぇ……」

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