s1 ep14-5
今夜のビールはローグ・デッドガイエール。
ボトルに貼り付くステッカーは──ラベルというよりステッカーだ──ビールジョッキ片手に膝を抱えるボッチ座りのガイコツのイラストで、鼻腔をくすぐる独特の甘い香りと外観のミスマッチが中野的にお気に入りの一本だった。
惜しむらくは、これが酒屋から坂上への差し入れだって点だろうか?
でなければ絶対、もっと美味いだろうに──
考えるともなく考え、見るともなくボトルを眺めて目を上げると、テーブルを挟んだ正面の椅子に死人と同じポーズの同居人がいた。
「何やってんの?」
「あぁ……?」
覇気のない声と熱の籠らない上目遣いが、落ちかかる前髪の向こうから返ってくる。
今日は帰宅したときからこの調子で、久々に作ってやったオムライスを平らげる間も心ここにあらずの風情だった。中野の勤務時間中にわざわざ連絡を寄越して、珍しく自分からリクエストしたくせに、だ。
「その格好、座りにくくない?」
「別に」
短く答えた坂上は、片肘を膝に引っかけたままデッドガイをひと口呷った。
点けっぱなしのテレビ画面は、タイトルすらウロ覚えの海外ドラマを垂れ流していた。
主人公は切れ者で名を馳せた某国家機関の元エージェント。信じていた友人──かつての同僚でもある──に裏切られ、嵌められて逃亡中の身だ。
が、何を思ったか別れた元妻に電話なんかして、その女が心当たりの場所へとノコノコ探しに出かけたおかげで悪者どもに潜伏先を突き止められるという、恐ろしくありがちで何とも滑稽なストーリー。
あんな大事なときに何故、元女房に電話なんかしなきゃならない?
かつての妻なんだから敵の監視が付いてることくらい警戒するべきだろう。切れ者だったはずの元エージェントがそこまで判断力に欠けるなんて、あまりに設定が雑すぎないか?
テーブルの対岸でボソリと声がした。
「あんたも俺がいない間、くれぐれも事態を軽視するような真似はやめてくれ」
「大丈夫、わかってるよ」
「本当にわかってたら、今日だって戻らなかったはずだろ」
抱えた膝小僧に顎を埋めてテレビを見たまま、坂上は言った。地下駐車場で中野が同僚のもとに引き返した件を言ってるのか。
代役テストとやらが終了したあと、中野と新井は何事もなかったかのように日常に戻った。つまり、出勤して仕事をした。
呼び出しボタンを破壊されたエレベータをはじめ、ぶっ壊した設備や擦られた駐車車両たちをどうしたのかは知らないし、尋ねる気も起きない。
ただ、あの鬼ごっこのためにシステムをジャックしまくったのが、早速駆り出されたダミアンだった──ってことだけは小耳に挟んだ。鬼ヶ島への出発前から役に立ってるのは何よりだけど、ロクデナシのサノバビッチが自分や新井を嵌める悪ふざけに荷担してたと思うと不愉快さの上乗せは否めない。
「まぁ……アイツも、あんたを確実に護るだろうけど」
坂上が呟いた。
「新井のこと?」
無言の頷きが返る。
「そうだね。あんな優しそうな顔してるくせに、中身は体育会系だしなぁ」
笑ってみせても、聞いてるのかどうかわからない坂上の顔はテレビに向いたまま動かない。
会話が途切れ、それからしばらくはモノクロームの静止画みたいになった仄暗い室内で画面の明滅だけが息づいていた。
元夫婦は、敵に追われて逃げ込んだボロい空き家の片隅で痴話喧嘩の真っ最中だった。
のんきなことに、離婚の原因となった元妻の浮気について言い合ってるらしい。
女が情感たっぷりな声音で弁解する──あなた、いつも仕事優先で私のことなんて二の次だったじゃない。その仕事だって隠し事や嘘ばっかりで……私、あなたこそ浮気してるんじゃないかって疑ってたし、それに……それに、寂しかったのよ!
字幕を眺めて中野は疑問を抱いた。
陳腐でありきたりだって以前に、これが浮気の言い訳になるのか?
答えは否だろう。少なくとも他の男と寝る前に、ひとことダンナに文句を垂れてみるべきだ。
今度は元亭主が言い募る──嘘も隠し事もみんな、お前を護るためだったんだ。
二の句を継がせまいと、すかさず元女房──そばにいなくて、どうやって護るつもりなのよ!? あなたが不在の間、私を護ってくれたのは彼よ!
突然テレビが消えた。
同居人に顔を向けると、片手にデッドガイ、片手にリモコンがあった。
「本当は」
平素と変わらない、起伏のない口ぶり。
「あんたを命懸けで護るのが俺ひとりならいいって思ってる。俺以外の誰にも、その役目を渡したくない」
低く抑えた呟きは、テレビが沈黙したおかげで聞き取ることができた。
「特に──アイツは嫌だ」
ボソリと漏らして視線を俯けるさまを、中野はテーブル越しに数秒見つめた。
「だったら、行かなきゃいいんじゃない?」
坂上が緩く首を横に振る。
「それでも俺は、あんたに降りかかる災厄の元を自分の手で断ちに行きたい。それに俺がいなくても、アイツがあんたを護り切るってわかってる。だから嫌なんだ。俺と同じぐらいのウエイトであんたを護りたいって思ってるヤツに、本当はあんたを任せたくねぇ」
「そういうこと言うわりに、俺に向かって躊躇いもなくゴム弾をぶっ放したけどね」
地下で新井が喰らった坂上の弾は、訓練用のゴム弾だった。
「あんたがあそこで俺に電話なんかしようとするからだろ」
「まさか、電話が鳴ったら不味いから撃ったってわけ?」
「バイブにしてあるから鳴らねぇよ」
「何その屁理屈? バイブの音って結構響くよね。俺がこんなこと言うのも釈迦に説法だけど、あぁいうときは電源切っといたほうがいいんじゃない?」
「あのときは都合で……まさか、あんたが戻ってきて俺にかけるとか思わねぇし」
「だからって電話かけるのを阻止するために撃ったりする?」
「軟質のゴム弾だし、もしもあんたが被弾してもベストに当たるように狙ったんだからいいだろ」
まるで免罪符でも振り翳すかのような、いつになく荒っぽい同居人の主張。
「それに、ちゃんとアイツが護ったじゃねぇか」
「あのさ、何か怒ってる?」
尋ねると、坂上は乱暴な手つきでボトルを呷って吐き捨てた。
「だってあんた、アイツのために戻ってきただろ? 自分が消されるのを覚悟で」
「うーん、そうだね……?」
中野は曖昧に首を傾けた。が、正しくは新井のためというより自己都合だ。
命懸けで自分を護ろうとする同僚ひとり、それもあんな草食男子に──あくまで外観だけだとしても──鉄砲を持ったヤツらを押し付けて逃げるような男の風上にも置けない自分は、果たして同居人にふさわしいと言えるのか?
答えは迷うまでもない、否だった。
己の行動が本末転倒だってことはわかっていた。同僚の努力を無駄にしたことも重々承知してる。敵の渦中に彼ひとりを置き去りにしたところで、それがガードの仕事だと本人のみならず全員が口を揃えるだろう。
それでも戻らずにはいられなかった。
自分が納得するために、だ。
新井の仕事を水泡に帰そうと、招いた結果を坂上がどう感じようと関係ない。自己中だと誹られようとも、己の生き様を自分で決めて何が悪い? ロシアに行くことを譲らない坂上の言い分と何が違う?
そもそも、ドッキリ番組のターゲットさながらに嵌められた上、尻尾を巻いて逃げずに戻ったことを責められるなんて、こんな理不尽あるか──?
今更疑問を感じたとき、坂上がポツリと漏らした。
「あれで俺と会わずじまいになっちまっても、あんたは構わなかったってことだよな?」
抱えた膝に鼻先を埋めるようにして。
「それって、俺よりアイツを選んだってことなんじゃねぇのか」
中野はボトルを置いて立ち上がり、テーブルを回り込んだ。
対岸の椅子の脇に立つなり、畳まれた脚の裏側に強引に腕を突っ込んで腰から掬うように抱え上げた途端、滅多に聞かないボリュームで坂上が喚いた。
「ッ、ちょ、何……!」
所謂、お姫様抱っこというヤツだ。
面食らいながらもビールが零れるのを気にしたらしい坂上の手からボトルを奪って、床に放り捨てる。有無を言わせずテーブルに降ろした身体を仰向けに押さえつける。どちらかのどこかが当たって中野のボトルもついでに転がり落ち、まだ中身の入っていた二本のデッドガイエールは文字通り
両膝の間から手荒く引き下ろすパーカーのフルジップ。
触れようとした唇が寸前で逸れると同時に胸倉を掴まれ、鉄砲の切っ先をこめかみに捩じ込まれていた。
「答えを聞いてねぇ」
低く言い放った坂上の目は、素性が知れて間もない頃、何かと言えば銃口とともに向けて寄越したそれと同じだった。そういえば最近この目に出くわさないのは、中野が彼の扱いに慣れたせいなのか、それとも坂上の何かが変化したのか。
一分の妥協もない眼差しを真っ直ぐ見返したまま、中野は口をひらいた。
「銃、必要?」
「コイツがなかったら有耶無耶にしちまうだろ」
「あんたより新井を選んだわけじゃない。あそこで逃げるような男はあんたに釣り合わないと思ったから戻ったんだ」
「──」
「だからつまり、自分のためかな?」
「──あんた……俺たちがどんだけ、あんたを守るために手を尽くしてんのか……」
「わかってるよ、本末転倒だって言いたいんだろ? ただ守られるだけの身でいたくないっていうのも、この場合きっと俺の我が儘なんだろうな?」
だけど、と中野は続けた。
「あそこで新井にもしものことがあったら、俺は自分ってものに納得できないまま挽回するチャンスを永遠に失ってた。そうなっても俺はあんたと胸を張って向き合えるのか、あんたが命懸けで守るに足る人間だと言えるのか。あのとき考えたのは、それだけだ」
反応はない。だけど銃口の圧力が弛んだ。
その手首を取ってテーブルに縫い止めながら唇を重ねると、坂上は今度は拒まなかった。胸倉を掴んでいた手のひらが中野の項に触れ、銃を放した指も後頭部に回って髪に潜る。
地下に戻った理由が本当は他にもあったことは明かさなかった。
中野がいなくなれば、坂上が無茶をする理由が少なくともひとつはなくなる。そういう形で彼を護ることなら自分にもできるんじゃないか。そんな風に考えたって事実は、わざわざ伝えたところで不毛な口論に発展しかねない。
風呂上がりの無臭の肌から嗅ぎ分ける、坂上の細胞の匂い。下腹に喰らいついて腰骨の内側に歯を立て、芯を孕む性器の気配を手のひらで感じ取る。ソイツが濡れるまで、もう大した手間も時間も必要ない。
もうすぐ旅立つ同居人。
それまでにあと何度、身体を重ねることができるのか。次はあるのか。
この手触りを、匂いを、血の通う生々しい温度を、感じる機会はまだ残ってるのか。
天板に乱れて散る坂上の黒髪。その先に放置されていた銃が視界に入り、無意識に手で払った。重い音を立てて床に落ちた黒い金属の塊は、仄暗い部屋の隅に滑って消えた。
「ロシアから戻ったら──」
坂上が抑えた声を漏らした。
「あんたに訊きたいことと言いたいことが、ひとつずつある」
「行く前じゃダメなわけ?」
黒い瞳を覗き込むと、映り込む自分の姿が一旦消えて再び現れた。
ゆっくり瞬いた坂上は、両手のひらで中野の項を引き寄せた。その手が震えてるように感じたのは錯覚だろうか。
まるで泣き出す一歩手前のような掠れた声が、ダメだ──と低く耳朶に触れた。
「そのために、俺はここに戻ってくるから」
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