S1 Episode15 家主不在

s1 ep15-1

 中野が住んでる中野坂上駅エリアの棲処には、今は中野と坂上じゃなく中野と新井が棲んでる。

「惜しいよね、新中野ならあるんだけどな」

「何の話だよ?」

 鏡の前でネクタイを整えていた同僚が、テーブルでマグカップを傾ける中野に目を寄越した。

 四六時中昼夜の知れない地下空間ではあるものの、現在時刻はれっきとした一日のスタート地点、出勤準備中のモーニングタイムだ。

「いやほら、言ったことあるよね? 駅が中野坂上で俺が中野だったから、彼が坂上って名乗ったっていう話。坂上が抜けて新井が来たけど、今度は何て駅ならあるんだろうなぁって、ふと思って」

 新井が坂上の代役に決まった日の翌朝、中野が目を覚ますと隣にいるはずの同居人が消えていた。

 だけどその時点では、まさかもう鬼退治に行っちまったなんて考えなかった。

 いくら何でも急すぎるし、見送りの挨拶だってしてない。きっと何か準備のために早い時間から出かけたんだろう、くらいに思っていた。

 妙だな、と感じたのは朝食を作ろうと冷蔵庫を開けたときだ。

 そういえば母親が降りてこない。

 二階に転がり込んで三度迎えた朝、彼女は三度とも中野がベッドを降りた五分後にやってきて一緒にメシを食っていた。まるでカメラで監視してタイマーで測ってたんじゃないかってくらい、正確に五分後だ。

 その母が姿を見せないということは、やっぱり出撃準備のために二人で出かけたんだろう。

 ──なんて、ひとりで朝メシを食う間もまだのんきに構えていられた。

 ようやく嫌な予感に見舞われたのは、新井が迎えに現れて外に出るため二階に上がったときだった。前日まで置いてあった母の、量は少なくとも内容は物騒極まりなかった荷物が綺麗さっぱり消えていたのだ。

 鬼退治のための準備で出かけるために、ここまで何もかも持って行くか……?

 部屋の中央で立ち尽くしているとスマホが震え出した。玄関ドアの向こうにいる新井からだった。

「どうしたんだ? 何かあったのか」

 通話をオンにした途端に飛び込んできた、緊張を孕んだ声。

 中野がスマホを耳に当てたままドアを開けると、同じくスマホを耳に当て──ているかと思った新井は手首のスマートウォッチから目を上げ、素早く室内を視線で舐めてから中野を見た。

 目で問われて中野は答えた。

「何もないよ」

 言いながら、同僚を見返したままスマホの通話を切る。

「何も──うん、何もなくなってるんだ」

 繰り返した中野を数秒眺めた新井は、あぁ……という呟き以上のコメントをしなかった。

 二人はいつも通り出勤し、仕事が終わると新井がこの棲処にやってきた。日々のルーティンワークだった送迎だけじゃなく、一緒に室内に入り、初めて地下まで降りてきた。

 その夜から、ここの住人は中野と新井にすり替わったというわけだ。

 中野はコーヒーをひと口啜って、テーブルの天板に何気なく指を滑らせた。

 いなくなる前の晩、この上で同居人を抱いた。ベッドと違って握り締めるものがない平坦な板の上を、もどかしげに何度も引っ掻いていた指先を思い出す。

 ついこないだのことなのに、もう一年くらい過ぎたような気がする……というのは、さすがに大袈裟だろうか?

「新中野だと、井が欠けてるしね」

 中野はテーブルを撫でる指を止めて頬杖を突いた。

「新井薬師前ならあるけど、残念ながら俺の苗字は薬師じゃないし」

「いいことを教えてやろう」

 身支度を調え終えた新井がキッチンに立って、コーヒーを注いだマグを手に草食男子風情の面構えをこちらに据えていた。

「中野駅から北上したあたりに、新井中野っていうバス停があるのを知ってるか?」

 平素と変わらぬ優しげな目元を数秒眺めてから、中野は小さく首を傾けた。

「それってまさか、よくあるさ……あのほら、ボーイズラブのカップリング的な表記を念頭に置いて言ってるわけじゃないよね?」

 だとしたら自分がテーブルの天板を引っ掻く側に回されちまう。

 仄かに戦慄したけど口には出さずにいると、今度は新井のほうが中野を数秒眺めてから首を振った。

「お前の口からそんな単語が出てくるとはな。まさか、実は隠れ腐男子だとか言わないよな?」

「それはないし、むしろ俺は新井がそんな単語を知ってるなんてビックリしてるよ、今」

「職業柄、世の中のことを広く知る必要があるし、その程度の情報なら興味がなくたって嫌でも目に入ってくるレベルだよ」

「まぁ確かに、何だか世間的な風潮で流行ってるしね最近。けど、そういう情報を踏まえた上で新井中野って言ったわけじゃないよね? さっき」

「お前だって新井薬師がどうのって言ったよな、さっき」

「言ったけど、俺は他意はないよ」

「俺だってない」

「それは良かった」

「心配しなくても、お前を抱こうなんて考えたことはないよ、中野」

「──」

 まさか、逆は考えたことがあるなんて言わないよな? 出かかった軽口は声になる前に飲み込んだ。決して自惚れるつもりはないけど、万一、冗談として流してくれなかったら困る。

 中野は肩を竦めてマグカップに口をつけた。

「朝っぱらから生々しい会話はやめない? ところでひとつ弁解しておくけど、俺にその手の知識があるのはヒカルのせいだからね」

「落合さん?」

「そう。形だけ付き合ってた頃にさ、ヒカルがそういうのにハマってたみたいで。あぁこれ、俺がバラしちゃったことはヒカルに内緒にしといてよ? 一応隠してるつもりみたいだから。けど、そのわりにちょいちょい発言に漏れ出してたから、こっちも嫌でも耳年増になるよね」

「そういうのも耳年増って言うのか?」

「わかんないけど、知る由もなかった特殊な世界を否応なく聞きかじって要らぬ知識を得ちゃったんだから、気分的にはそんな感じだね」

 しかし今になって思い返せば、あの頃のヒカルは中野と新井でよからぬ妄想でもしてたんじゃないだろうか。

 だって一度、ベッドの中で彼女に言われたことがある。

 確かこんな会話だった。



「ミナトって女子の胸のサイズに拘らないわよね」

「え? まぁね。でも女性の価値はそんなもので測るべきじゃない、なんて尤もらしい理由じゃなくて、そこの形状やボリュームに興味がないだけだけどね」

 別に目の前にいる貧乳女子を気遣ったわけじゃなく、もともと興味がなかった。

 大きいだの小さいだの、上を向いているだの垂れているだの、そんなことは人それぞれ形状が異なるというだけで人体パーツのひとつに過ぎず、背が高いとか低いとかいう基準と何ら違わないからだ。そんな要素にいちいち興味を持ちようがない。

「ねぇ。もしかして、もはや胸なんかあるわけもない生き物のほうがそそられたりはしないの?」

「虫とか?」

「何言ってんの? 虫相手に欲情する人間なんて聞いたことないわよ。いや世の中にはいるかもしんないけど。そうじゃなくて、だからまぁ……例えばほら、新井先輩とかさぁ?」

 素性を隠していた頃から、ヒカルは新井をそう呼んでいた。本業でも仮の身分でも先輩だから呼び分ける必要はなかったんだろう。

 一方、つき合いはじめるまで中野のことは「中野さん」だった。

 何故、新井だけが先輩なのか? と、当時は素朴な疑問を感じたものだ。が、どうでもいいから尋ねたことはなかった。

「新井は男だよ?」

「オッパイのボリュームは関係ないんでしょ?」

「でも別のところに、女子にはないボリュームがあるよ」

 そのときだ。

 ヒカルの小ぶりな造作の中で、大きな目が正体不明の輝きを帯びたのは。

「そっちの大きさは拘るわけ?」

「いや、拘らないけど……?」

「じゃあいいじゃない」

「いいって何が?」

「チンコのボリュームにも拘らないんでしょ?」

「そんな単語を女子が憚りもせず口にするのはどうかと思うよ、いくらヒカルでもね」

「どんなサイズのウインナーでも美味しくいただけるんでしょう?」

 慎ましやかに言い直した元カノ──当時は今カノ──の顔面を数秒眺め、中野は一応訊いてみた。

「スーパーの精肉コーナーに置いてある商品の話かな」

「どう取ってもらっても構わないわ」

「挽肉の腸詰めならサイズなんか何だっていいし、そうじゃないウインナーはいただかないよ。あと、誰のソレがどんなサイズだろうと俺には関係ないね。だけど男の股間じゃなくて、女子の胸の話じゃなかったっけ?」

 するとヒカルは眉を顰めて真顔でこう訝った。

「チンコの話とオッパイの話、一体何が違うって言うのよ?」

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