s1 ep13-9

 ダークグリーンのメイフェアで運ばれた先は、目白にあるマンションだった。

 丘陵地に広がる住宅街の一角。周囲に溶け込むようにひっそりと佇む、ワンフロア二部屋の三階建て。シンプルな外観のやや古臭い建屋の最上階、南東角に位置するその部屋は、叔父の会社所有のセーフハウス的な物件のひとつらしい。

「さて」

 胡散臭いほど平凡な家財道具が揃うリビングルームで、窓際のひとり掛けソファに身体を沈めた可南子が小さく首を傾けた。

「どうやら大体の事情は知ってるようだし、私から説明することって特になさそうね?」

 南へとなだらかに下る斜面に位置するため、彼女の背後の掃き出し窓からは日差しがたっぷり注ぎ込んでいた。バルコニーの向こうに一望できるのは、新旧の建物が入り混じる閑静な家並みだ。

 ただし、東の窓は頑なにブラインドが閉ざされてる。さっきスラットの隙間を指でこじ開けて覗いたら、もう一段高台に建つマンションのベランダと相対していたから、そのせいか。並んだの窓のひとつから誰かがライフルでこの部屋を狙おうと思えば、きっと造作もないことだろう。

「うーん、まぁ質問しようと思えば、いくつかあるけどね」

 九十度の角度で配された三人掛ソファから母に目を投げ、中野も彼女と同じくらいの角度まで首を傾げてみせた。

 右隣には坂上、正面の壁には50インチ前後のテレビ、目の前には北欧テイストのロウテーブル。ラウンドのデザインは、乱闘になったときに怪我をしにくいという配慮だろうか。コウセイは坂上が乗り捨ててきたクルマを拾いに行っていて、今ここにはいない。

「質問って、たとえば?」

「二十三年も死んだフリをしてる間、どこで何やってたのか、とかね。あと一応、息子を置いて姿を消すことに心が痛まなかったのか、なんてのも」

「どこで何をしてたのかは、ちょっと説明しづらいわね。そりゃもういろいろだから」

「じゃあ端折ってもいいよ」

「とりあえず、ヤツらの組織を弱体化させるために世界中を飛び回ってた、とだけ言っておくわ。そのために二十三年も死んだフリして、正体を隠してね」

 二十三年も死んだフリ、の部分で母は軽く肩を竦めた。

「それって、ひとり息子にまで隠さなきゃいけないようなこと?」

「敵を欺くには味方からって言うでしょ?」

「ちょっと欺き過ぎな気がするけど」

「知らないほうが湊のためでもあったのよ。知ってて隠してるのと本当に知らないのとじゃ、捕まって拷問されたときの危険度が違うんだから」

 どうやら彼女としては、自分のせいで何も知らない息子が捕まって拷問を受けることまでも想定の範囲内だったらしい。

「ほんとに知らないほうが価値なしって判断されて危ないような気もするんだけど、考えすぎ?」

「まず、ほんとに知らないかどうかを判断するのが難しいのよ。そこらへんは敵も慎重になるから大丈夫」

 何が大丈夫なのかはさっぱりわからなかったけど、もう尋ねなかった。

「それから、息子を置いていく心痛に関しては」

 母の声は淀みなく続く。

「血を分けたひとり息子っていう点で、あんたは私にとって唯一無二の存在ではあったわよ。だけど互いの人生はそれぞれのものだし、そもそも息子なんていずれ嫁でももらえばそっちの側に属しちゃうわけじゃない。だったら離れるのがちょっとくらい早まったって大して変わりはないでしょ? 実際、私が死んだって聞いても悲嘆に暮れたりもしなかったわよね? 叔父さんから聞いて知ってるんだから」

「幸い母親の育て方のおかげで、人生は個人のものだってことを理解してたからね」

「息子が思惑通りに真っ直ぐ育ってくれて、お母さん嬉しいわ。ただ、あんたのことだから嫁をもらうとは思えなくて、その一点だけは将来の予測における不確定要素だったけど──」

 言葉が途切れた合間に、やたら微笑ましげな目が対岸の二人をすうっと舐めた。

「ケイと仲良くなっちゃうなんて、嬉しい誤算だったわねぇ。これまで生きてきた中で最高のサプライズよ」

「いろんなことやってきたわりにサプライズのハードル低すぎない? それって、死んだはずの母親が現れるよりもビックリするようなこと?」

「私は自分の意志で消えたけど、ケイは連れ去られたんだもの。それも、悪いヤツらの巣窟みたいな組織にね。過ぎたことをどうこう言ったってしょうがないのは重々承知の上で、これだけはずっと後悔してたわ。あのとき私が一緒に連れてってれば良かったって」

 彼女は小さく息を吐いて、ゆっくりとひとつ瞬きした。

「だから戻ってくれただけでも十分なサプライズなのに、その上、あの頃はあんなに接点のなかったあなたたち二人が、まさか……ねぇ」

「もう一度訊くけど、それが人生で最高のサプライズ?」

「えぇ、そうよ?」

 だったら何? と問い返す眼差しを受け流し、中野は話の軌道を曲げることにした。坂上との仲をあれこれ探られたって痛くも痒くもないけど、放っておいたら際限なく逸れていく恐れがあるからだ。

「過ぎたことを言ってもしょうがない点は同感だね。俺も、母親が死んだフリして行方をくらましてた過去についてはもう触れないようにするよ。ところで、もうひとつ質問があるんだけど、いい?」

「何よ?」

「そのケイって名前──」

 言いながらチラリと隣を掠めた目が、坂上と一瞬ぶつかる。地下室を出るときに断片だけ聞かされた話は、慌ただしく脱出するドサクサで保留になったままだった。

「本名だっていうのは本当?」

「何を以て本名とするかにもよるけどね」

 そう前置きして母が語り始めた内容は、こうだ。

 坂上がいた組織の養成施設は、表向きは民間の児童養護施設だった。が、実体はカネで殺しを請け負う集団がエキスパートを育成するための所謂プラントであり、違法な手段で子供を調達していたほか、そんなこととは毛ほども知らない親が育てられない乳児を敷地内に置き去りにするケースも決して珍しいことではなかった。

 彼の場合は後者で、おくるみに挟まっていた紙切れに書かれていたのが、漢字の『恵』とキリル文字およびローマ字でそれぞれ綴られた『ケイ』の表記だった──というわけだ。

「そのメモの情報は、どこから? 彼と一緒に暮らしてたミハイルって人? あぁ、母さんの彼氏だったって言ったほうがいいのかな」

「言っとくけど彼のことは敢えて隠してたわけじゃないわよ? 湊が興味なさすぎて気づかなかっただけじゃない」

「そこまで鈍感な子供だったかな、俺」

「いくら息子とはいえ、語るのが気の毒なくらいの鈍感さよね。でも、そう、メモのことを話してくれたのはミーシャよ」

「ミーシャ? あぁ、ミハイルの愛称? ティーナだのミーシャだの、日本人の感覚からしたら随分ガーリーなネーミングだよね」

「湊だってイナゴの佃煮は食べないでしょ?」

 中野は数秒、母の顔を無言で眺めた。

「いきなり何の話──?」

「国内だけでも所変わればってものはいくらでもあるんだから、それをガーリーなネーミングだと感じるのが、あながち日本人全体の感覚とも限らないんじゃないかしら? ってこと」

「なるほどね、確かに文化の違いを言語系統で分類した安易な発言だったよ。けど、イナゴの佃煮を引き合いに出されてもな」

「好きな人は好きなんだから」

「母さんも?」

「私はサソリのほうが好き」

 何を言ってるのか、もうよくわからない。

 正面のソファでゆったりと脚を組む黒ずくめの母を無言で眺め、スリムカーゴの足首とスリッパ──これも黒い──の狭間に覗く真っ赤な靴下を見るともなく一瞥してから、中野はとにかく本筋に戻った。

「で、何の話だっけ。そうそう、つまりケイって本名にはちゃんと根拠があるってことだね……え、ていうか、ちょっと待って?」

 ふと、あることが脳裏に閃き、中野は同居人と母親を交互に見た。

「まさかKっていうコードネームは、その本名からきてんの? カレのKじゃなくて?」

「あぁ、こっちじゃ、そのカレっていう説が濃厚みたいね? 冗談みたいな話だけど大真面目に。他にも諸説あるとは聞いてるけど、でもやっぱり本名から発生した可能性が最有力なんじゃないかしら」

「諸説って、民話の発祥の謎とかじゃないんだからさ」

 それにしても、全く──カレのKよ、と自信たっぷりに教えてくれたヒカルに、この話を聞かせてやらなきゃならない。

「メモに書かれてたのはファーストネームだけ?」

「そりゃそうよ。苗字まで書いたら身元が割れて子供を置いてく意味がなくなっちゃうじゃない」

「あぁ、それもそうだね」

「まぁ身元が割れたって、組織が親元に返すことはないけどね」

 ヤツらにしてみれば、手を汚さずして得ることができた天からの贈り物なんだから──目を眇めて吐き出す可南子の蔑むような表情から、隣で微動だにしない同居人へと視線をシフトする。

 まるで世間話のように飛び込んできた、己の名前にまつわる経緯。突然もたらされたそれを本人がどう受け止めたのかは読み取れないが、少なくとも坂上の顔面には何の変化も見られない。

 だから中野も、胸中を推し量るなどという無駄なプロセスは省略して頬を弛め、こう言った。

「じゃあ、俺もケイって呼ぼうかな」

 すると言い終える前に抑揚のない声が返ってきた。

「じゃあの意味がわからない」

「だってせっかく、あんたの本名がわかったんだよ?」

「せっかくの意味もわからない」

「なんでそんなに頑ななわけ?」

「本名だ何だ言ったところで、捨てていった親が付けた記号ってだけだろ? 他の偽名と何も違いはなくねぇか」

 感情を窺わせない抑えた口調は、普段と何ら変わらない。だけど心なしか硬く感じられたのは邪推による錯覚……とも言い切れないんじゃないだろうか?

 だから中野も、いつも以上にいつも通りの口ぶりを心がけた。

「でも、あんたを捨てていったその親に、悪いけど俺は感謝しなきゃいけないな。だって、そうでなきゃ俺たちは知り合ってないんだもんね」

「──」

「その人たちが……たち、じゃなくてその人、かもしれないけど。とにかく何の問題もなくあんたを産んで育てたとするよ? もちろん本来そうであるべきだったとは思うけどさ、だとしたら今頃は寒い北の大国のどこかで、俺にはわからない言語を操りながら医者か軍人でもやってるわけだよね?」

「なんで医者か軍人なんだ? 日本に来てロシア語講師でもやってるかもしれねぇよな」

「居酒屋のオーダーすら何度も訊き返されるぐらいのコミュ障なのに、その対人スキルでどうやって知らない人たちにものを教えるわけ?」

「──」

「とにかく、その感謝すべき親御さんが付けてくれた名前で、俺も呼んでもいいんじゃないかなぁ。だってどうせ、どの偽名もみんな同じなんだよね?」

 覗き込むように肩を寄せて尋ねた数秒後、坂上の顔面がそれこそコミュ障っぽい色を孕んだかと思うと、不意にぎこちない風情で俯いた眼差しが明後日の方向へと逸れていった。

「ひとつは──違うから」

 ボソボソ呟く横顔に思わず頬が弛む。

「他と違うのは、どの名前?」

 畳み掛ける中野を坂上の上目遣いが睨んで寄越したとき、テーブルの向こうからわざとらしい咳払いが飛んできた。

「あなたたちが仲良くしてくれるのは嬉しいけど、あんまり目の前でイチャイチャされるとさすがに居心地悪いわね」

「今、イチャイチャなんかしてた?」

「全く……湊がそんな顔する日がくるなんて、子供の頃には想像もできなかったっていうのにねぇ」

 苦笑と感嘆の溜め息をバイブの唸りが掻き消した。

 素早く手を伸ばした可南子がスマホを掬い上げ、二言三言だけ交わしてすぐに切る。

「コウセイくんがこれから戻ってくるけど、二人とも今日は中野坂上に帰る? それか、ここに泊まってもいいわよ」

「うーん、明日も仕事だしなぁ」

 のんびりと首を傾けながら右隣を見ると、既にコミュ障の色が消えた目と小さな頷きが返ってきた。中野坂上のねぐらに帰る、という意思表示だろう。

 一瞬の迷いもなかったレスポンスは、自分で作り上げた要塞が一番安心できるという自信の表れのようだった。何にせよ、出勤準備の面倒を考えただけの中野の気楽さとはまるで異なるロジックを経て弾き出された結論に間違いない。

「やっぱり帰るよ」

 顔を戻した中野の正面で、可南子が軽く頷いた。

「そう。じゃあ、私がそっちに行くわ」

「え? うちに? まさか泊まったりする?」

「何か問題でもあるの?」

「問題ってわけじゃないけど──」

 正直、今日は疲れたからゆっくりしたい。特にそんな思いが強い日だというのに、時を超えて生き返った母親が訪ねてきたりなんかしたら、そういうわけにもいかなくなるんじゃないのか。

 それに食事は?

 中野坂上に引っ越して以来、不必要な訪問者を減らすため食事のデリバリーは避けてる。だから買うか食うかして帰らない限り、中野が作らざるを得なくなる。そうなるのは困る。

 例え満身創痍だろうが同居人のためなら喜んで作るけど、母親の分までとなると気が進まない。何しろ、曲がりなりにも自分を産んだ母であると同時に、血の繋がりなどという生物学的な鉄鎖を屁とも思わせない方針で中野を育てたのも、また彼女だ。

 とは言え、地下室で窮地を救われた恩義があるから無下に突っぱねるわけにもいかない。だから余計に困る。更に、泊まりにくるなら二階に寝てもらうしかないわけだけど、あの部屋の布団はここしばらく干してない。

 そりゃ、フカフカの布団どころか人間が横になるような場所じゃない寝床だって、きっとこれまで数え切れないほど経験してきた母に違いない。それでも「訪ねてくるなら事前に言っといてよね」と言いたくなるのがホスト側の心情というものだ。

 が。

 拒否を喰らうことは微塵も想定してないらしい母、断る理由なんかまるで思い浮かばない風情の同居人、彼ら二人の顔を見る限り「否」という選択肢はないようだった。

「あぁそう──わかったよ」

 中野は溜め息とともに、そう吐き出した。

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