s1 ep13-10

 幸い、みんなのメシを作るという労役は免れることができた。

 坂上の軽バンを取りに行ったコウセイが、知り合いのビストロで詰めてもらったというフルコース並みの特製三段弁当を持ち帰ってくれたおかげだ。

「晩メシにでもどうぞ。今日は皆さんお疲れだと思うんで、ゆっくり旨いものでも食って休んでください」

 ソツのない機転に感心し、気怠い笑顔を浮かべた色白の面構えを眺めて、女だったらなかなかいい嫁になっただろうに……と埒もないことを考えた。が、あとで知ったところによれば、彼は一切家事はしないらしい。

 中野親子と坂上の三人を中野坂上のねぐらまで運ぶと、コウセイは2ブロック先の駐車場目指して走り去った。今日はその足でバーのバイトに出て帰るというから、何気なく自宅を尋ねてみたら、なんと駅を挟んだ反対側のエリアに住んでるという。

 もちろんバイトと同じく、それも偶然じゃないんだろう。

 そういえば新井も近場に──未だにどこなのか知る機会がないけど──越してきた。必ずしもってわけではないにしろ、任務によっては対象の近くにいちいち引っ越すんだとしたら、何とも大変な職業だ。それとも、雇い主に用意された部屋を身ひとつで渡り歩くだけなんだろうか?

 元定食屋の建物にやってきた中野の母、可南子は、まずじっくりと時間をかけて息子たちの住まいを仔細に見て回った。彼女の目的は主にセキュリティシステムのチェック、および息子のガードということだった。

「もうそろそろ、俺のほうが介護しなきゃならないくらいなのにね」

 屋上から始まり、ようやく地下のチェックまで済んだときには、ビストロ弁当をいただくのに丁度いい頃合いとなっていた。

 自家製ローストビーフだのオマール海老のポワレだのが詰まった贅沢な重箱をつつきつつ、地下のテーブルで額を突き合わせて問題点を洗い直してる母と同居人に、冷蔵庫から出してきたボトルビールを渡してやりながら中野が言うと、眼鏡の向こうで建物の図面を睨んでいた母の目がこちらを見た。

「二階を借りるつもりだったけど、ここであなた方と一緒に寝てもいいかしら。何しろ要介護のようだからね、私」

 ビールをひと口呷って眼鏡を外し、眉間を寄せて鼻根を摘む。手にした黒いセルフレームは老眼鏡……否、シニアグラスのようだ。

 眼鏡をかけた母の顔を、中野は初めて見た。が、それを言うならベリーショートの髪型も初めてだし、つまりは何もかもが、四半世紀に及ぶブランクってことなんだろう。

 母が重ねた年齢と同じだけ、中野も年を食ってる。当時はランドセルを降ろして間もなかった少年も、いつしか童貞を捨てたばかりか同性とのアナルセックスも知って、そろそろ不惑の域に片足を突っ込んでる。いや、数え年なら、もしかしてもうその立ち位置にいるんだろうか?

 しかし、もともと何かに迷うという経験をあまりしたことがない中野にしてみれば、惑わない領域なんてものは今までの人生と何ら変わらない。

「ここで寝るなら、この椅子を並べるか床で寝てもらうしかないけど、それでもいい?」

「年老いた母親相手に血も涙もない仕打ちをするわけね」

「持ってる銃をひとつ残らず処分してきたら、老いた母親として息子の非道を詰ってもいいよ」

「他の条件を提示してくれないかしら。この手に銃がない死の瞬間なんて考えられないもの」

 どうやら一生、母親に詰られる日を迎えることはなさそうだった。

「俺は世界一幸せな息子だね」

 鉄砲を握ってないと死ねないらしい母には二階の部屋を使ってもらうことにして、三人はこれまでの経緯や事実関係について大まかに確認し合った。

 大半は中野にとっても既知の内容だった一方、ひとつ明らかになった点があった。中野を育ててくれた叔父が、やっぱり本当の叔父じゃなかったという事実だ。が、いまさら驚くようなことでもないし、正体は母の古い仕事仲間だというから、遠くの親戚より何とやら……とも言える。

 途中でビストロの重箱が空になると、同居人が物足りない顔をチラつかせはじめた。

 そこで中野が、冷凍庫にあった海老とアスパラで炒め物を作ってやると、皿をテーブルに置くなり母が真っ先に箸を伸ばしてきた。

「それ、彼のために作ったってことを忘れないでね。重箱弁当、母さんが大半食っちゃったよね?」

「しょうがないじゃない、昨日まで葉っぱと虫しか食べるものがないようなところにいたんだもの」

 一体どこにいたんだか……思ったがもう訊かず、にいたら、まぁでもケイが飢えるのは私も困るわね、と彼女は坂上のほうに皿を押し遣ってボトルビールを傾けた。途端に同居人の顔面に恐縮の色が浮かび上がる。

「あの、いいから食べてください」

「その遠慮の半分でも湊に分けてやってくれたらいいのに」

 彼らの間で皿がせめぎ合うのを、中野は両手で頬杖を突いて傍観していた。

「なんかさ、二人が親子みたいだよね、俺じゃなくて。人種が同じだし、背格好も似てるし、お揃いみたいに服が黒いし。あと、何となく髪型も似てるよ」

 すると母が、あぁ……と口を開けて首を傾け、妙案を思いついたとでも言いたげな生き生きした眼差しを坂上に向けた。

「いいわね、それ。ねぇケイ、今度こそ私の息子にならない? 湊は戸籍上もう中野家の人間だし。ひとり息子として存分に可愛がるわよ、どう?」

「え、あの──」

「話を戻すけど」

 中野は戸惑う同居人のために助け船を突っ込んだ。

「叔父さんが本物の叔父さんじゃないって話、バレたら何かとマズい気がするんだけど大丈夫?」

「何がマズいの?」

「いや、俺も一応、社会保障制度の一端を背負って労働してるリーマンだからさ」

「いまさら何の心配?

 社会保障制度の一端を背負って労働しはじめて、どんだけ経つのよ。大丈夫、大丈夫、絶対バレないから。ていうか、なぁに? まさか老後の年金の心配なんかしてるの? 死ぬか大金を手にするかの二択だっていうときに?」

 言われてみればそれもそうだ。どうもリーマンの性が骨身に染み付いちまってるらしいが、確かにカネなんか不要になるか、老後の保障なんか不要になるかの、ふたつにひとつという身の上だ。

「第一、公的年金なんてもらったところでどうせ雀の涙よ」

「そんなことはわかってるよ。だからって、働く意欲をわざわざ殺ぐようなことを言わなくてもよくない?」

「湊あんた、年金のために働いてんの?」

「まぁ違うけど」

「じゃあ何よ? 仕事は社会貢献だとか自分探しだなんて、箱の中身が実は空だってことを隠すために段ボールの外側を飾り立てるような嘘臭いことは言わないでよね」

「段ボール箱に例えるのは、ちゃんと税金払ってる世の勤労者たちに対してさすがに失礼じゃないかと思うけど、とりあえず俺の場合は生活のためだね」

 適当に投げ返す中野の脳内で、社会保障云々は既に圏外に追い遣られつつあった。

 そもそも戸籍や国籍なんて所詮は単なる制度であって、人の手で作られたルールに過ぎない。

 制度に限ったことじゃない。目的に沿った用途に役立つのであれば、世の中の大抵の物事は真贋なんかどうだっていい。

 なのに人間って生き物は何かと言えば、紙切れやデータ上の文字列に記された記号や番号に縛られることを好み、どこの馬の骨とも知れない他人が定めたカテゴライズに己を当て嵌めて一喜一憂する。一種のマゾヒズムなのか? そんなものに己を合わせるために生まれてくるわけじゃないだろう?

 冷蔵庫から新たなボトルビールを出してくる坂上の姿を見るともなく眺め、中野は考えるともなく考えた。──真に本物じゃなければ意味がないものなんて、ほんの僅かしか存在しないはずだ。しかもソイツらの価値は実に相対的で、世間一般に定義することは難しい。

 戸籍云々がフェイドアウトしたあとは、どうでもいい雑談に変わった。

 やがて「一体、湊のどこが良かったの?」などと愚にもつかぬことを可南子が坂上に尋ね、コミュ障を発動した同居人が逃げるように風呂に消えると、中野は昼間から脳内に居座り続けていた関心を声に出してみた。

「あのさ、ミニの持ち主って誰?」

「ミニ?」

「コウセイくんが乗ってきたクルマだよ」

「あぁ……」

 頷いてから、可南子はちょっと意表を突かれた顔をした。

「見知らぬ赤の他人に興味を持つことがあるのね、湊でも」

「クルマの持ち主っていうより、コウセイくんとのことについて聞きたいだけだけどね」

「彼と浮気でもするつもり?」

 まさか、と唇に浮かべた笑みを中野はすぐに引っ込めた。

「形見だって言ってたからさ。聞いた感じじゃ、特別大事な人だったみたいだし。そんな相手を失って、どうやって克服したんだろうなって思って」

 すると無言のままボトルビールを口に運んだ母は、数秒後に静かな声でポツリと呟いた。

「克服なんかしてないわ」

 そして黒いセルフレームの向こうの目を細め、こう続けた。

「これを聞いたってことを、コウセイくんに悟られないようにできる? 昼間はね、久々に会ったらまだあんなデカイ殻に閉じ籠もってるもんだから、ついつい突っ込んじゃったんだけどさ。ほんとはその件に触れられたくないのよ、彼。まぁ当然なんだけど」

「だろうね」

 中野が頷くと、可南子はひとつ瞬きしてから何かを思い描くような目を宙に投げた。

「ミニの持ち主──アダム・ヘザリントンは、コウセイくんの相棒だったの」

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