s1 ep13-8
そういえば、会社に戻らなきゃいけないんだよな。
勤務中のリーマンだという身分を中野が思い出したのは、迎えに現れたダークグリーンのローバーミニ・メイフェアにギュッと詰まって──何しろ、定員四名のコンパクトな車内に大の大人がちょうど四人だ──走り出したあとだった。
仕事からの連想で、ついでに取引先のビルで引き離されたヒカルのことも思い出したけど、根拠もなく、それでいて間違いなく無事な気がしたからひとまず思考の裏手に回しておいた。
一方、肝心のリーマンとしての立場についても、敢えて一旦棚上げすることにした。
理由は二つ。
ひとつ目は、運転手の男に見覚えがあったこと。
運転席の窓越しに知った顔が見えたとき、中野は坂上と目を見交わした。が、小さく首を振ったところを見ると、彼が何故ここにいるのかは坂上も知らないようだった。
そしてふたつ目の理由は、運転手と母の間で交わされた会話が聞き捨てならなかったことだ。
「ちょっとコウセイくん、なんでこんな小さいクルマで来んのよ?」
助手席に乗り込むなり可南子が文句を垂れると、コウセイと呼ばれた男はやや気怠い口調で言い訳した。
「あぁすいませんね、今ハイエースが修理に出てるもんで」
なんと、たまに坂上が乗り回してる軽以外で、初めて国産バンの名前が登場した。
でも誰がどう考えたって、その選択のほうが利口だろう。狭い日本、殊にせせこましい東京都心の入り組んだ道路を駆け巡るには、5リッター超のフルサイズなんて無駄どころか不利なんじゃないかって常々思ってたし、森に木を隠す意味でも国産の業務用バンのほうが圧倒的に目立たなくて追われにくいに決まってる。
「あぁそう、なら仕方ないけど……」
可南子は小さく首を傾け、素っ気ない口ぶりでこう付け加えた。
「でもコイツで来るとはね。とっくに廃車にしたと思ってたわ」
「まだ走りますから」
今どきは滅多にお目にかかることのない、フロアのシフトブーツからニョキッと生えたような細長いレバーを──坂上の軽四にも、この手のギアが一台ある──三速に押し込みながら、コウセイが乾いた笑いを返した。
「今どきは廃車にするにもカネが要りますしね」
「そんな費用は会社が出すでしょ」
「さぁ、確認してないんで何とも」
「こんなデカい形見、後生大事に取っといたって引き摺る期間が長引くだけよ」
「さっきは小さいクルマって言いませんでしたっけ?」
「揚げ足取らないで。クルマとしては小さいけど、思い出にそっと仕舞っとくようなサイズじゃないわよね」
察するに、彼は誰かを亡くしたらしい。それも、どうやら簡単には吹っ切れないような存在を?
リアシートに並ぶ二人は沈黙したまま、やり取りに耳を傾けていた。
ついさっき互いを失いかけたばかりの身には、決して他人事じゃない話だった。しかも運転手は年齢的にも坂上とそう変わらない。だから尚更というのもある。
「聞いたわよ。吹っ切る努力どころか、拾った猫にアイツの名前を付けてるんだって?」
「はは、他に名前が思いつかなかったんで」
「そもそも、どうして猫なんて拾ったのよ。動物嫌いだったくせに」
「えーと、たまたま目が合って?」
可南子が小さく鼻を鳴らした。
「とにかく、自分で傷を抉るような真似はやめなさい。精神的にも肉体的にもね」
コウセイの返事はなかった。が、無意識にだろうか、彼はシフトノブから離した指で首筋をひと撫でした。
一歩間違えれば出血多量でくたばりかねないような位置に走る、ひと筋の傷痕。短いけれど、負ったときの深さを思わせる歪な引き攣れがそこにはあった。
「それより俺、息子さんたちに挨拶したほうがよくないですか?」
明らかに話題を変えるために男は言って、ルームミラー越しにチラリと視線を寄越した。
「まぁ、お互い知ってますけどね。改めて、可南子さんのアシスタント的なことをやってるコウセイです」
鏡の中で人懐っこく目元を弛めたコウセイは、地元のバーに時々バイトで入ってるバーテンダーだった。
他でもない、中野と坂上が出会った──否、再会した例のバーだ。
もちろん偶然なんかじゃないんだろう。振り返ってみれば、坂上と関わり始めた直後くらいから見かけるようになった気がする。そして確かに、坂上とはまた違った得体の知れなさを匂わせる人物でもあった。
コウセイという名前以外に、客たちは誰も彼の素性を知らない。それでも気怠げな空気と人懐っこさが生み出す独特なキャラのせいか、男女問わず客ウケがいい。正体不明という点すら、魅力のひとつになってるフシがある。
更に言えば、頻繁にいるわけでもない上、目を惹くようなイケメンってわけではなくとも、女子からの支持率が特に高い。細身のくせに白シャツの背中が意外に筋肉質だとか、眠たげな眼差しやら色白な肌と黒髪のコントラストが妙に色っぽいだとか、そんな理由のようだ。
それを聞いたとき、俺も黒く染めてみようかなんて心にもないことを口走ったら、すかさず同居人の反対に遭った。
「あんたがそれ以上目立つのは困る」
抑揚なく呟いた言葉の真意は、純粋に敵を意識したものだったのか、それとも独占欲の片鱗だったのか。勝手に後者だと決め付けてニヤニヤしたら、何、といつものコミュ障っぽい上目遣いで睨まれた。
いずれにしても今、こうしてコウセイの素性を知るとともに、彼特有の風情の正体にも触れた気がした。
仕入れたばかりの断片的な情報から憶測するなら、それは負った痛手を覆い隠す繊細かつ強靭なコーティングだ。全身を覆う被膜の内側で息を潜めて、自身が生まれ変わるのを待ってる──そんなふうに感じられる。
まるで、繭に包まれた蚕みたいに?
ふわりと浮かんだ連想は、しかしすぐに打ち消した。
孵化したところで結局は飛ぶこともできず、交尾以外の何をすることもなく一週間の寿命を終える虫に例えるのは、この場合あまりに酷だと思ったからだ。
明日は我が身となりかねない深淵に蓋をして、コミュ障の同居人の分まで挨拶を返してから中野は言った。
「コウセイくん、会社員のダブルワークって噂もあったけど違ったんだね」
素性を知られていなくたって、人の目というものはどこにでもあるものだ。
彼がスーツ姿でどこそこを歩いてただの、後を尾けてみたらいつのまにか消えてただの──今思えばそれも納得だ──と、客同士が話してるのを聞いたことがある。そういった目撃情報から、どうも会社員のダブルワークじゃないかっていう一説が囁かれていた。
「いや、実はリーマンっすよ一応。ほぼダミー会社ですけどね」
「失礼なこと言わないの」
窘めた可南子に、コウセイが気の抜けた笑いを返す。
「だって中野さんが自分でそう言ってますよ」
「中野さん?」
坂上と目を交わしてから問いを挟むと、答えたのは助手席の母だった。
「えぇ、湊の戸籍上の父親よ」
「え、叔父さんの会社?」
「そう」
「経営コンサルタントか何かの会社じゃなかったっけ。人に任せて流浪の島暮らしに出たはずだけど……」
ルームミラー越しの間延びした笑顔に目が止まる。
「もしかして任されてるのって、コウセイくん?」
「そうです」
「あぁ、そうなんだ」
「零細企業なんで、俺みたいなのでもどうにかなってますよ──ってのは冗談で」
どこか投げやりな笑いを漏らして、コウセイは続ける。
「零細企業は事実ですけど、経営コンサルタントなんてのは表向きです。実態はまぁ要するに、この手の仕事を請け負ってまして……ついでに言うと俺が任されてんのも名ばかりで、実質的なメインは他にいるんですよ」
「何人くらいいるの? 会社には」
「架空社員を除けば実質二人ですね、俺入れて。可南子さんと中野さん……社長は、大抵国外を点々としてるんで」
「へぇ、そうなんだ」
流浪の島暮らしに出る前の叔父の口ぶりからは、十人前後で和気藹々とやってる小規模事務所的なイメージを受けていたけど、真相は違ったらしい。ただまぁ業務内容がダミーなんだから、社員の大半もダミーだったところで別に驚きはしない。
──それはそうと。
「会社で思い出したけど、そういえば俺、勤務時間中だから会社に戻んないといけないんだよね」
再び思い出して中野が言った途端、母が事も無げに応じた。
「今日は早退よ、もう手も回してあるわ」
「え? あ、そうなんだ?」
「そうだ、言うの忘れてた。捨てられてた湊の荷物は、コウセイくんに回収してきてもらってあるから」
「え? あ、そうなんだ……よく見つけたね?」
「俺は可南子さんに指示された場所で拾ってきただけです」
と、運転席のコウセイ。
「トランクに入ってますから。あぁ、残念ながらスマホは壊れてましたけど」
「あ、そう。まぁ仕方ないし、見つかっただけでもすごいと思うよ」
前席の二人に礼を言いながら中野は首を捻った。可南子という母は一体、どんな魔法使いなのか?
およそ四半世紀も死んだフリをしておいてゾンビのように生き返ったかと思えば、再会の挨拶代わりにロシア野郎の胸倉に十発も弾を喰らわせ、走行中の車窓から捨てられたはずの荷物を見つけ出し、その間に息子の早退まで手配するとは。
「ていうか何、中野の母ですが、なんて会社に電話でもしたわけ? 子供の欠席を学校に連絡する母親みたいに?」
すると意外な答えが返ってきた。
会社に電話するどころか、早退の件で手を回したのは新井やヒカルが所属する組織だと言うのだ。
「え、彼らの組織とも何か絡んでんの?」
もはや呆れる息子に、母は軽く肩を竦めてみせた。
「昔いろいろ、持ちつ持たれつでね。でも連絡したのは随分久しぶりで、当時の知り合いは下手に偉くなっちゃってて、おかげで繋いでもらうのに時間がかかったわ。やっと繋がったと思ったら私は死んだはずだなんて、なかなか信用してもらえないし。ほんと難儀したわよ」
ここでようやく、ヒカルも無事回収されていたことを聞かされた。
どうやら彼女は、拉致されたビルの倉庫的な一室で監禁されてたらしい。マックスの言葉どおり丁重に扱われたようで、怪我ひとつない──どころか、お菓子とペットボトルのお茶も与えられてたなんて、むしろいい休憩時間になったんじゃないだろうか?
ただし仕事熱心なエージェント的には、心休まる時間じゃなかったかもしれない。
「やっぱりさ、偽装工作を完璧にしすぎたんだと思うよ。二回も自分を死んだことにした実績があったら、三度目は本当に死んじゃっても、もう誰も信じないだろうね」
「誰が信じようが信じまいが、私の生死の真偽には関係ないわね。生きてるものは生きてるし、死んでるものは死んでるってだけのことなんだから」
隣の坂上がチラリと目を寄越す気配を感じて、中野は顔を向けた。
珍しく、ほんの少し眉なんか上げて見せてる同居人の表情は、こんなふうに言いたげだった──親子だな。
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