s1 ep13-6

 裸足でコンクリートに立つ同居人が、手を止めて面食らった顔をこちらに向けた。

 時折見せる無防備さともまた違う、呆気に取られたような珍しい表情。無理もない。中野自身、己に驚いてるぐらいだ。何しろ、こんな勢いで物を言ったのは記憶にある限り初めてのことだった。

 それでもマックスから強圧的なロシア語が飛ぶと、坂上の手は再び動き出してしまった。中野の制止に耳を貸す風情もなく、リセットされた面構えでデニムを抜き去ったあとには、黒いローライズボクサーだけが取り残された。

 剥き出しの両脚のライン、適度に割れた腹筋の造形美、やたらと扇情的な腰骨の陰影──

 一見、華奢に見えるくせに絶妙なバランスの骨と筋肉で構成された坂上の裸体が、薄汚れたコンクリートの中で自分以外の視線に晒されてるという、耐え難い現実が目の前にある。

「もう確認は終了しただろ。まさか、あのパンツのどこかに何か隠れてるようには見えないよね。風邪ひくから早く服着てほしいんだけどな」

 辛うじて抑え込んだ声が微かに震えていたことに、二人は気づいただろうか。

 しかし気づいていようがいまいが、どうもこうもない。男はお構いなしにロシア語を飛ばし、坂上が後頭部で両手を組んで壁のほうへ向き直った。

 姿勢によって浮き出た左右の肩甲骨、その中央から腰まで真っ直ぐ貫く脊柱の影。小さな尻を守る黒い布切れの、なんと頼りないことか。

 立ち上がったマックスが、銃口を坂上の背中にシフトして近づいていった。中野のことは放っておいたって、どうせ動けやしない。そんな絶対的優位に立つ自信の顕れか、男の足取りは嫌味なほど余裕たっぷりだ。

 何をする気だ──?

 胸の裡を掻き曇らせた暗雲は、残念ながら良い方向に裏切ってはくれなかった。

 坂上の両腕を取って後ろ手に捻り上げた男は、尻ポケットから出した手錠を素早く掛けると、身体ごと体重を乗せるようにして坂上を壁に押し付けた。

 何をする気だ──!?

 腰から尻へと、銃の鼻先が辿る。ソイツをローライズの裾から忍ばせるのが見えた瞬間、中野は動かない椅子の上で思わず腰を浮かせていた。が、もちろん立ち上がることは叶わないし、男の手が止まることもない。

「ソイツに触るな、狙いは俺だろ……!?」

 こめかみが脈打つ。額が熱い。これがSFやファンタジーなら既に変身してたっておかしくないほど、殺気立ってる己を感じる。

「お前こそ口出しするな、武器を探してるだけだ」

「見え見えの口実を恥ずかしげもなく堂々と主張するのやめてくんないかな、何もないってわかっててやってるよな!? ていうか何なんだよこの、ポルノ小説かエロ漫画みたいな展開……!」

 せめて犯罪ドラマ辺りなら、そろそろ新井かヒカルあたりが乱入してきてもいいタイミングだ。

 が、勿論そんな奇跡が起こるわけもなく、アームレストと手首を繋ぐ手錠をガチャつかせたって辛うじて腰が浮くばかりで、他力本願を唱えていたって目の前で同居人の肉体が侵されていく事態は変えられない。

「組織と俺を捨ててまで守ってるあの男に、どんな風に抱かれてるんだ? ティーナ」

 中野の抗議なんかどこ吹く風で、男が坂上の項に向かってねっとりとした口ぶりで問いかける。

「性欲なんか母親の腹に捨ててきたような顔で、向こうじゃ誰ひとり相手にしなかったお前がな。始末するはずだった男に入れ込んで、このケツの穴でお楽しみの日々だとは、随分と大人になったじゃないか──なぁ?」

 下卑た声音は僅かに口調を改め、さらにこう続けた。

「これから迎えがくる。それまで、ノゥリの前でたっぷり可愛がってやるからな、ティーナ」

 コイツはもはや、無意味な濡れ場をやたら挟んでくる出来の悪いドラマの悪役だ。

 が──迎えがくる?

 せっかくひとり減ったと思ったのに、そう甘くはないようだ。これ以上、坂上の身体をヤツのいいようにさせておけないのは勿論のこと、敵が増えないうちに事態を打開する必要がある。

 こうなったら親指を折るしかないのか?

 そうすれば手錠から手を抜くことができるってのは、海外ドラマで何度も観てきた。本当にそれで抜けるのかは知らないけど、こればかりはやってみなきゃわからない。

 でも抜けたとして、その後は?

 手の届く範囲に落ちてる凶器は、まず拳銃。これは親指が使えない状態で、まともにトリガーを絞れるとは到底思えない。あるいは左手だけ抜いて銃を拾い、利き手である右手からぶっ放すか? 

 しかし何よりの問題は、赤子レベルのド素人が確実にターゲットに命中させられるかどうかだった。余程の僥倖でも訪れない限り、誤って坂上に当ててしまう可能性は果てしなく高い。

 かと言って刃物は論外だ。投げるとなれば銃同様に命中精度が要求される。接近戦を狙うなら近づかなきゃならない。だけど誰がどう考えたって、接近戦なんて微塵も中野に勝ち目はないだろう。

 そもそも、左右の指を折って両手が自由になったところで、椅子が固定されてるからには足の拘束も解く必要がある。そんなことを試みようとした次の瞬間には、きっともう額を撃ち抜かれちまってるに違いない。

 ただ何をするにしても、だ。

 自分がやられても、その隙に坂上が反撃する一縷の望みができる。

 要は男の注意を坂上から逸らしさえすればいいわけだ。ほんの一瞬でいい。何もできないと高を括って油断してる、その不意を突くことができれば──

「心配は要らない、お前らの言い分はそれぞれ半分ずつ叶えてやる。ティーナは俺の元に戻って、ノゥリは死ぬがいい」

 手段を講じあぐねる中野の焦りをじりじりと煽る、低い嗤い。

「組織を……俺を裏切って苦しませた罰だ、ティーナ。まずは、お前が大事に守ってる男の前で、尻の奥まで嫌と言うほど突っ込んでやる。次に、お前の目の前でアイツの額を撃ち抜いてやる。互いに見たくないものを見物できるんだ、平等だろう?」

 妄執による被害妄想と見当違いの嫉妬に狂い、もはや職務を放棄しつつある男が、ローライズのウエストに黒光りする銃身を引っかける。これ見よがしに殊更ゆっくりと曝かれていく、最後の聖域──

「やめろ……!」

 何が罰だ? そんなもの、完全に手前勝手な逆恨みってヤツじゃないか?

「こっちを見るんだハゲ野郎、順序を変えて先に俺を撃てよっ!」

 一体、自分のどこからこんな声が出てるのか。

 叫びながら他人事のように頭の片隅で思うのと、銃声が立て続けに三発響くのとが、ほぼ同時だった。

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