s1 ep13-3
鏡越しの男の顔面に一瞬、耳を疑うような色が走った。
「お前、本気で言ってんのか?」
「本気だけど、それが何?」
だって何しろ、仕事においては女扱いされたくないヒカルだ。これが新井なら庇う必要がない、というのでは不公平ってものだろう。
「男の風上にも置けないヤツだな」
「なかなか渋い日本語を使うね、その顔で」
中野が肩を竦めてみせると、相手も気を取り直したらしく、すぐに別のカードを切ってきた。
「じゃあ、これならどうだ。大人しく従えば、お前を守ってる殺し屋は追わない」
ということは、コイツは賞金目当てのフリーランサーじゃなく、坂上がいた組織から派遣されてきたってことか。
「俺を始末するのと彼を追うのとは、担当が違うんじゃなかったっけ?」
「そんなことまで知ってるのか。だが残念だな、ボーダーラインを超えてはいけないという決まりはない」
「だが、とか、無論、なんて真顔で言うヤツ初めて見たよ、俺」
「俺がいつ、無論なんて言った……?」
「言ってないね、まぁとにかく行くよ」
せっかく快く申し出を受け入れてやったのに、それはそれで何故か妙に忌々しげな一瞥を喰らった。
「今度は何が気に入らないわけ?」
「女のガードは危険に晒せても、男の殺し屋はそうはいかないっていうのか?」
「それ、性差別と職業差別のダブルだよ? ていうかさ、ご要望通り大人しく従ってやるって言ってんのに、いちいちイチャモンつけんのやめてくんないかな」
とにかく何かが気に食わないらしいロシア野郎は、仏頂面を引っ提げたまま銃口で中野を促した。
通路に出るとヒカルの姿はなく、ロビーを横切って『関係者以外立入禁止』のプレートが貼り付いたドアを抜けるまで、結局どこにも見当たらなかった。
「俺が従ったら外のお姉ちゃんは見逃すっていう約束、忘れてないよね?」
「そんな約束はしてない。殺し屋を見逃すほうにチェンジしただろうが」
「あ、そうだった」
「心配するな、邪魔できないように排除しただけだ」
心配はしてないけど、念のため尋ねた。
「手荒な方法で?」
「こっちだって騒ぎは起こしたくないからな、丁重にご退場願ったよ」
どんな手段で退場させたのかは、もう訊かなかった。無事なら詳しく聞く必要はない。
ひと気のない管理エリアの非常用っぽい扉から外に出た途端、目の前にシルバーのフルサイズバンが滑り込んできた。酒屋のクルマ同様、後部の窓は全て黒い。車内は二人乗りの完全貨物仕様になっていて、シートの背後に設置されたフェンスタイプのディバイダーが貨物スペースとの空間を区切っていた。
観音開きのバックドアが閉まると同時に発進した車内で、右手に嵌められた手錠をフェンスに繋がれながら中野は思った──このハードな仕切りは、どこかで見たような気がするな。
確かあれは、上司の愛人がやってるクラブに付き合わされた夜だ。中野は酔い潰れた上司ともども愛人宅に送らされ、そのあとクラブのホステスとウェイターに拉致された。あのときの車内も、こういうヤツで仕切られてた。
そうだ。坂上がメシを作ろうとして、傷だらけになってたんだっけ──思い出したら、場違いにも笑いが込み上げそうになった。
あれ以来、同居人が料理にチャレンジした様子はない。
ジャガイモと格闘しただけであんなに切り傷ができるんだから、敢えてやらせたいとは思わないけど、一緒に作るってのならアリなんじゃないか?
もしも生き延びて再会できたなら、エプロンを着けた坂上というのも見てみたい。もちろん、裸エプロンとは言わない。そんな姿でシンクの前に立たれたら料理どころじゃなくなりかねないし、うっかり狼藉なんか働こうものなら不慣れな包丁捌きで中野が三枚におろされたって文句は言えない。
不意にポケットの中のスマホが振動を始めた。電話の着信だった。
男が中野に銃を突きつけたままソイツを引っぱり出し、窓を開けて躊躇いもなく放り捨てた。
次に身体中を探られて、どこからともなく小さな発信機みたいなものを合計三つ探り出され──いつの間に仕込まれてたのやら、ひとつは靴裏の踵部分の中だった──腕時計やビジネスバッグとともに、みんな車外に投げ出された。
あのバッグの中に、失くすと致命的な何かが入ってただろうか?
咄嗟に考えた限りでは、答えはノーだった。
幸い、死守しなきゃならないような仕事関係の資料なんかは入ってないし、財布は会社に置いてきてる。いつ何が起こるかわからないから、大事なものはできるだけ持ち歩かないように。坂上や新井たちから、そう言われていたからだ。
だから困るとすれば、通勤定期を兼ねたスマホの中の電子マネーくらいか。あれを捨てられたのは正直、痛い。だけど文句を垂れたところでどうにもならないし、使う機会が二度と訪れない可能性だってゼロじゃない。
ふと昨夜、似たような発言で同居人の機嫌を損ねたことを思い出した。
おかげで聞きたかったことを引き出せないまま、坂上はバラしかけの銃もほったらかしで風呂に消えてしまった。
幸い、強引にバスルームに乱入したら最後には曲げたヘソを戻してくれたけど、中野的にはあの言葉を撤回するつもりはなかった。
坂上がどう思おうが、自分の命が不特定多数の殺し屋に狙われてることに変わりはない。現に昨日の今日で早速、こんな状況に陥ってる。
そもそも命なんか狙われなくたって、誰しも突然の災難で人生を終える可能性は掃いて捨てるほどある。明日がくるのが当然だなんて根拠もなく思っていられるのは、余程の脳天気か楽観主義者だけだろう。
でも、こんなことなら強引に言わせとけばよかったな──脳内を掠めた小さな後悔は、しかしすぐに撤回した。過ぎたことを今更どうこう言ったって始まらない。
せめて、何を言おうとしたのか墓前で告白してもらえるよう、口がきけるうちに坂上宛の伝言を頼んでおくべきだろうか? 自分を死に追い遣ることで報酬を手にするんだから、それくらいの頼みは聞いてもらったっていい気がする。
ただ、それにはひとつ問題があった。
中野には、霊だの前世や来世だのといったファンタジーを現実と混同する趣味がない。アイデンティティを持つ魂なんて、拠り所を求める人心が産み出した幻想に過ぎない。現実には生命活動が停まりさえすれば、人体は単なる有機化合物の塊だ。
だから墓前で白状されたところで聞くことが叶うとは思わないし、意味があるとすれば坂上の気が晴れるかどうかってだけの話だろう。
が、まぁ坂上の気が済むなら、それもアリか──考えかけて、やっぱり思い直す。
中野は、霊や転生だけじゃなく神や仏すらもファンタジーだと信じて疑わない、比類なき無神論者だった。だから賽銭箱にチップを放って空想の産物に胸の裡を吐露するような真似もしないし、己の残骸を後生大事に仕舞っておくための大袈裟な箱も欲しくない。
墓は要らないってことも、ついでに伝えてもらうべきか?
だけど墓が存在しないと、坂上が墓前で告白できない。となれば、どうすればいいんだろう?
内心で首を捻ったとき、更なる問題点に気づいた。そうだ、死体はロシアに持っていかれるんだ。
正確には死体で運ばれるのか、生体で日本を出てロシアで死体になるのかは知らないけど、いずれにしたって坂上のもとには残骸どころか跡形もなくなる。となれば墓以前の話だ。
これはもう、中野を象徴するアバター的な何かを適当に用意してもらって、ソイツに向かってモノローグでも呟かせるしかないか──
クルマが停まった。
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