s1 ep13-2

「あの家は──」

「うん?」

「今はどうなってるんだ?」

「さぁ。売れたあと、最後に一回行ったきりだからね」

 答えてビールを呷り、負傷したFBI捜査官の苦悶の表情から、記憶に沈む情景へと意識をシフトしてみる。

 白い壁、赤いスレートの屋根、塀に囲まれた二階建ての一軒家。こぢんまりとした庭に繁る木々と芝生の緑。思い返せば面積のわりに庭木がやたら密集していたのは、ひょっとして外部からの目を遮断するためだったんだろうか?

 おかげで野鳥がやってきて何らかの理由で死を迎え、幼い坂上が亡骸を発見して、二人で庭の片隅に埋めた。

 あの小さな墓は、その後どうなってしまったんだろう?

「手放した頃はまだ、そんなに古い家でもなかったと思うけど、さすがにもう新しい家かアパートでも建ってんじゃないかなぁ」

「叔父さんってのは健在なのか」

「あぁ、うん、元気に離島暮らしだよ」

「離島?」

「俺が就職して独立すると同時に、それまで二人で住んでた家を引き払ってね。最初は国内の島をいくつか転々としてたけど、途中で海外に出てって、今はどこだろう? ちょっと前にはインドネシアのどこかにいるみたいだったけど……そうそう。あんたが昔の家で俺を見かけたっていうそのとき、一緒にいたのが叔父さんだよ」

 かつて母と暮らした家が実は叔父の持ちもので、引っ越したあとも彼が所有していたという事実を、その当時に初めて聞かされた。中野が就職して独立するのを機に流浪の生活をはじめる、と叔父が言い出したタイミングだった。

 あの家も処分することにしたから最後に見に行こう──そう誘われて、一度だけ一緒に訪れた。まさか、そのときにピンポイントで坂上とニアミスしていたとは。

「ところで、俺も質問していいかな」

 中野が言うと、無言の頷きが返った。

「あの家でニアミスしたときのこと、こないだ何か言いかけてたよね。ほら、ピアスしてた年頃のあんたを見たかったって俺が言ったらさ」

「そんな細かいこと、よく覚えてるな」

「まぁ気になったからね。あれって何だったの?」

「別に何でもない」

「何でもないって顔してなかったと思うけど」

 坂上は答えず、聞こえないフリでテレビを見たままビールを口に運んだりなんかしてる。

 中野はテーブルに頬杖を突いて、覗き込むように首を傾けた。

「一度は言いかけたってことは、俺に伝えたい気持ちが一応あったってことだよね。だったら、吐き出しちゃったほうがスッキリするんじゃないかなぁ。それにさ、もしかしたら明日には俺、消されてるかもしんないし。そしたらきっとあんた、今言わなかったことを後悔するよ?」

 逆効果だった。

 中野のセリフの後半を聞いた途端、向けられた水に乗って白状するどころか射貫くような目で中野を捉えた坂上は、あれこれと質問を並べ立てた純粋な好奇心を相殺するようなテンションで低く静かな恫喝を投げて寄越した。

「消されるとか、俺の前で二度と言うんじゃねぇ」



「なんかあれ以来、ますます充実してるって顔よねぇ」

 隣を歩くヒカルが、眇めた横目でチラリと中野を見上げた。

「そう?」

「そうよ、全く。ミナトがここまで動じないんだったら、さっさと事情を明かしちゃえば良かったのよね、Kだって」

「あ、なんかそれ、本人にも似た感じのこと言われた気がするよ。言われたっていうか、態度で示されたっていうか? 言えなくて悩んだ自分が馬鹿みたいだ、的な感じでね」

「同感ね」

 元カノの声は果てしなく醒めていた。

「Kはミナトの反応を恐れてたようだけど、私はむしろ今、Kがミナトを嫌ってないことに感心するわ」

「だけどほら、過ぎたことを言ってもしょうがないし」

「いっぺん嫌われてみたほうがいいんじゃないかしら」

「あ、ちょっとトイレ寄ってっていい?」

 新宿の、とあるオフィスビル。彼らは新規契約のクライアントを訪ねた帰りで、これから会社に戻るところだった。

 ロビー階から地下へと潜るエスカレータに向かう途中、男女のピクトサインが描かれたシックな色合いのプレートを中野が示すと、ヒカルが勢いよく指を突きつけてきた。

「女子? 女子なの? これから会社に戻るだけだっていうのに、わざわざここでトイレに行かなきゃならないわけ?」

「ほんとは訪問前に行っとこうかと思ってたんだけどさ、夜ごはんのことで同居人に電話してたら、うっかり時間ギリギリになっちゃったんだよね」

「何そのノロケ全開……?」

「とりあえず、行っていいかな」

「全く、しょうがないわね」

 溜め息を吐いたヒカルは、当然のように中野と同じ方向に足を向けた。

「え、まさか男子トイレに入らないよね?」

「入るわよ、それが本業なんだから」

 先輩の新井に負けず劣らず生業に誇りを持つエージェント女子は、会社でも臆することなく堂々と男子トイレに入ってくる。

 そりゃ、一時は身体の関係もあった仲だ。中野的には気まずくも何ともない。

 が、他の社員が居合わせたりしたら元サヤだ何だと勘繰られて面倒くさいから、最近では会社で用を足すのは、できるだけ新井がいるときに限定していた。新井は新井で微妙なものがないわけじゃないけど、職務に徹してくれてる限りは問題ない。

 ただ、仕事中のトイレ事情について坂上に話す愚は犯さないようにしていた。ただでさえ朝晩の送迎が気に入らない素振りを、無言の無表情の中にチラつかせる同居人だ。妬いてくれるならくれるで嬉しいけど、下手に刺激したくはない。

「社内ならともかく、さすがにここはちょっとどうかと思うよ? クライアントのテリトリーだしね」

「わかったわよ、じゃあ待ってるわよ。まさか、ミナトが入る保障なんかほとんどないようなトイレの中で敵が待ち伏せてたりはしないだろうしね」

「まぁ、いくら何でもね」

 そう。いくら何でも、ただ取引先の会社が入居してるだけに過ぎないオフィスビルのトイレになんか、敵が潜んでいたりはしなかった。

 ただし、後から入ってこないとも限らなかった。



 その男が鏡の中に現れたのは、所用を済ませた中野がハンドドライヤーで手を乾かし終える頃だった。

「一緒に来てもらう」

 背後に立った見知らぬ外国人は、何の挨拶も前置きもなくそう言った。

 言葉とともに、腰の後ろに硬いものを押し付けられる感触。下世話を承知で一応付け加えるなら、ソイツはいきり立った股間のイチモツなどではなく、まぁまず間違いなく銃器の金属の硬さだ。ただしどちらも、有り難くないという点は共通してる。

 中野は鏡越しに男を眺めた。

 思い返せば、事の発端はロシアだというわりに、今まで日本人──少なくともそう見える連中ばかりがやってきた。

 やっぱり、例の本人確認ルールが関係してるのか。物陰からズドンとやるだけなら誰だって朝飯前だろうが、単なる庶民リーマンとはいえガード付きの人間を日本で攫うとなれば、できるだけ国内で動きやすい人間を使うほうが得策なのかもしれない。

 しかし、ここへきてついに、外見的には真打っぽいヤツのお出ましとなった。

 自宅で坂上と二人、メシを食いながらビール片手に眺めるアクション系の海外ドラ

マ。あれらの画面でよくお目にかかるような、もしかしたら一度くらい出演したことがあるんじゃないかと思わせるようなスラヴ系の悪党タイプが、鏡の向こうの空間で中野と同居していた。

 年齢は多分、中野より少し上。額から脳天にかけて禿げ上がり、残りの髪も剃り上げた坊主頭、無精髭、細マッチョ。タートルネックのニット、革のフライトジャケットから足もとのサイドゴアブーツに至るまで、グレイ系のデニムを除いて全てが黒。

「その押しつけてるの、正体は電子タバコだったりしないよね?」

 さっき日本語で話しかけられたから、きっと通じるだろう。そもそも通じようが通じまいが、中野はロシア語なんかわからないから知ったこっちゃない。

 いずれにしても問いへの返事はなく、代わりにこんな脅しが後頭部に触れた。

「外にいるお姉ちゃんを無事に帰したければ、大人しく従ったほうがいい」

「従わなかったら?」

「二人とも命はない」

「従ったら?」

「女は見逃す」

「迷うね、その選択肢」

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