s1 ep11-4

「え、あれ? 鍵掛けてたよね、入口」

「そんなものいくらでも開けられる」

 だよね、と中野は笑った。とにかく無事に戻ってきて安心した。

「で? このままこのホテルにいて平気?」

「問題ない」

 ついさっきあんなことがあったというのに、あっさり断言できる根拠は何なのか。だけど今に始まったことじゃないから、それ以上は訊かなかった。

 坂上がバスローブを脱ぎ捨ててシャワーの栓を捻る。身体を洗い始めた後ろ姿を、中野はしばしバスタブから観賞した。

「さっきも風呂に入ってたのに、また洗ってんの?」

「ひと仕事してきたからな」

「必要な水分や油分が失われない?」

 反応がなくなった。

 やがて髪も洗い終えた同居人が立ち上がり、頭にタオルを被って無造作に拭くさまを眺めて中野は尋ねた。

「あのエレベータの防犯カメラって、映像どうなってんのかな」

「ヤツらに不都合なシステムは丸ごと止められてた」

「つまり……」

「映ってない」

「そうなんだ、あぁ良かった。あんたのあの格好が録画されて、例え一定期間でもデータとしてどこかに保管されるなんて考えただけでもゾッとするもんね」

 何の心配をしてたんだ──? とでも言いたげな目を寄越した坂上は、壁のタオルシェルフに無造作にタオルを放ると、バスタブに足を突っ込んできて「狭い」と呟いた。

 ひとりで寛ぐために設計されたと思しき浴槽は、地下室のそれよりも狭い。少なくとも、男がふたりで入ることは想定されてないに違いない。

「俺、出ようか?」

「好きにすればいいだろ」

「あとから入ってきといて言うこと?」

 中野は笑って膝を畳み、彼のために場所を空けた。

「で? 後始末ってのはうまくいったわけ?」

「まぁな」

 向かい側に身体を沈めた坂上が、背後の壁に後頭部を預けて手のひらで顔面を拭う。その仕種がちょっとオッサンっぽくて、思わず笑いが漏れた。

「差し支えなければ、かいつまんで説明してくれたりはしない?」

「バッグに入ってたカードキーの部屋に女を運んだら、システムに侵入した協力者がいたから話を聞いて、最後に掃除屋を呼んだ」

 ダメもとで訊いてみたのに、何の気まぐれか予想に反して答えが返った。

 掃除屋ってのはもちろん、ホテルの清掃係のことじゃないんだろう。

「ソイツも始末してきた?」

「いや。腕が良すぎて額を撃ち抜かれ損ねた男だったから、生かしといた」

「というと、本来なら生きてるはずがない被害者ってことか」

「そうだ」

「けど、だからって自由を与えて大丈夫なヤツ?」

「世間にばら撒かれたら死にたくなるような個人情報を女に山ほど握られてたらしい。そのデータと情報が詰まってるデバイスを今度は俺がいただいた」

「つまり脅したんだね」

「拾ったからには働いてもらわないとな」

「あ、だからこのホテルは安全だって言い切れんの? 早速、その男を何かに使った?」

「役に立つかどうかテストしただけだ」

「じゃあ、とりあえず合格したってことだね」

「今はメンタル面に問題があるけど、スキル的に殺すのは惜しい」

「でも、あの女が撃つ楽しみを放棄したくらいご執心だったってことはさ。そのシステム屋って腕がいいだけじゃなくて、顔か身体か、両方が高ランクだったりしない?」

「知らねぇし、だったら何だ?」

「そんなヤツにあんたの周りをウロつかれたくない」

「──」

「ところで、ノーリって何?」

 よどみなく続いていた会話が途切れた。

 緩慢に視線を泳がせた同居人は、ゆっくりと瞬きしてから小さな呟きを漏らした。エレベータで女が口にしたのと同じ発音だった。それから、ポツリとこう漏らした。

「ゼロだ」

「数字のゼロ?」

 無言の頷きが返る。

「何語?」

「──ロシア語だ」

「へぇ……?」

 唐突な印象はあったものの、意外というほどでもなかった。

 己の遺伝子の半分がどこから来たものなのか、中野は知らない。つまり未知ってのはどんな可能性も孕んでるものだ。自分にロシア語のニックネームがついてるのは、ルーツがそちら方面だからってことなのか。

「ゼロってのは、俺を無にしたいって意味なのかな」

「さぁな」

「そんな渾名が俺についてるって、あんたも当然知ってたんだよね」

「記号なら誰にだって付いてる」

 投げ出すように言った坂上の顔面に、ふと苛立ちの色が滲んだ。

「それより、目の届くところにいてくれって言ったよな? なんでエレベータなんか乗ってたんだ」

「だってあんた、風呂に入ってたし」

「だからって部屋を出る必要はなくねぇか」

 過ぎたことを掘り返して文句を垂れるなんて、坂上にしては珍しいことだった。中野に付けられた記号を中野自身が知ってしまったのが、そんなに気に入らなかったのか。

「まぁそうだね、ごめんね」

 とりあえず謝って、次に何を言おうかと少し迷う。だけど過ぎたことを掘り返す趣味は中野にもないし、坂上だって部屋を出た件について議論を続けたいわけじゃないだろう。

 だから結局、こう言った。

「もしかして、俺も風呂に行くと思って待ってた?」

「待ってねぇよ」

「でも、来るんじゃないかって思ってた?」

「別に──」

「そんなとこいないで、こっち側においでよ」

「──」

「それとも、ベッドに行く?」

 首を傾げてみせると、坂上は出方を決めかねるような表情で沈黙した。

 バスローブを閉める手間も惜しんでエレベータシャフトに侵入し、容赦なく刺客を始末したかと思えば、敵の囚人に自由を与えて弱みごと手に入れるしたたかさまで備えてるくせに、そうやって不意打ちのように無防備な顔を見せる。

 動かない坂上のかわりに中野が近づき、のしかかっても、抵抗の色はなかった。



 再三シャワーを浴びてきた坂上は、事後とは思えない顔で窓辺に陣取って再びスコープを覗き始めた。今は何も切羽詰まってるわけじゃないのに、全裸に羽織っただけのバスローブは相変わらず前が開きっぱなしだった。

 中野はソファでビールを傾けながら、折れた腰のラインと無防備な素足を見るともなく眺めて尋ねた。

「なぁ、あんたさ、普段どのくらい俺のこと考えてる?」

「どのくらいってのは、何のサイズだ?」

 スコープを覗き込んだまま坂上が訊き返す。

「何でもいいよ。量でも質でも、あと時間とか──本気度とか?」

 何の本気度だ? というレスポンスを予想していた。

 が、ソイツは見事に裏切られ、無駄なワンクッションもタイムラグも挟むことなく、坂上は普段と同じ抑揚のなさでこんな答えを寄越した。

「相対的に言えば、ほぼ全部ってことになる」

「──」

「前に、全てがあんたを中心に回ってるって言ったよな。あれは、この馬鹿げた騒動の根源がそうだっていうだけじゃない。俺という人間のほぼ全てが、あんたのために回ってるって意味だ」

 一切の迷いもない声音。

 なのに嬉しさよりも先に立ったのは、何とも大人げない不満だった。

 そんなことを言うわりに、チラリともこちらを見ない坂上の振る舞いに対する不満だ。同居人のこととなると、どうにも子供じみてしまうらしい中野は、だからついこんなことを口走った。

「でも少なくとも今は、俺よりも照準器に夢中だよね?」

 これじゃまるで、好きな子に意地悪する小学生だよな──

 胸の裡で苦笑していると、スコープから外した目を無言で数秒こちらに据えた坂上が、無言のまま立ち上がって近づいてきた。

 どこか忌々しげな風情で、開けっぱなしだったバスローブを床に落としながら。

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