s1 ep10-4

 階段の上り下りが堪えたのか、焼かれた白餅のように赤みを帯びて汗ばんだ顔を目にした刹那、気のせいだか室温が二、三度上昇でもしたような錯覚を覚えた。

 人間の感覚というのは不思議なものだ。そう中野が実感したとき、折しも坂上のスマホに電話が着信した。

 椅子に座って、新しい玩具のひとつ──言うまでもなく銃であるばかりか、いつもの控えめなサイズ感と違い、どう見ても狙撃用としか思えないライフルをバスルームに向けてスコープを覗いていた坂上は、画面の表示に目を投げてから素っ気ない口ぶりで通話に応じた。ただし、発したのは「あぁ」のひとことだけだ。

 それから立ち上がって狙撃銃をバッグに突っ込むと、来訪者たちに向かって短くこう告げた。

「迎えだ」

 つまり、情報屋が拾いにきたってことか。

 速やかに撤収の態勢を整えた客二人は、部屋を出る前にそれぞれ中野に声をかけてきた。

「中野くん、しばらくは三階から出入りしちゃダメだよ。今、セキュリティ強化中だからね」

「その馴れ馴れしいタメ口をいい加減にしないと喉を搔っ捌くよ、白豚野郎。じゃあ中野さん、例の件よろしくね」

 防音扉をくぐる彼らに続いて挨拶もなく出ていこうとする同居人を、中野は引き止めた。

「あんたはちょっと待って」

 掴まれた腕を見て顔を上げた坂上が、階段を上りかけていたクリスの広い背中に声を投げた。

「先に行っててくれ」

 システム屋の返事が聞こえて防音扉を閉めると、急に静寂がやってきた。

 こちらに向き直った坂上は、扉を背にして立ったまま何の用だとも訊かない。

 中野はその頬に手を伸ばして顎を持ち上げ、目を覗き込んでわかりきったことを尋ねた。

「どうしても行かなきゃ駄目?」

「仕事だからな」

「酒屋と、ね」

「──」

「セクシィなお姉さんから聞いたんだよ、彼が迎えにくるって」

「だったら何だ?」

 坂上が平坦な声音で言って、顎を捕らえていた手を押し退ける。逸れていった熱の籠もらない眼差しを眺め、中野は払われた手をポケットに突っ込んで僅かに顔を傾けた。

「行かせたくないなぁって、ただそれだけなんだけど」

 沈黙を返すだけの坂上を前に、こちらもほんの少しの間、同じく沈黙で応じた。

 行かせたくない理由を並べろと水を向けられたなら、枚挙に暇はない。が、訊かれもしないものを自ら口に出す気はなかった。それに、いちいち言わなくたって坂上はもう承知してるはずだし、要点さえ伝わればそれでいい。

 だから互いに心得てるという前提で、中野は端的に静寂を破った。

「でも、仕事だもんね」

「──」

「引き留めて悪かったよ。それと、頼もしい仲間もいるし心配は要らないんだろうけどさ、危ない仕事には違いないんだから、くれぐれも気をつけて」

 そう言いながら防音扉に一歩近づいてノブを引き、送り出すように坂上の背中に手のひらで触れる。

 坂上は何も言わず、目を上げることもなかったが、促されるまま扉のほうに身体を向けたかと思うと、中野が開けていたドアを静かに閉めた。

 それからポケットのスマホを引き出してどこかへ発信し、

「延期する」

 と、ひとこと放って切断した。

 当然のようにすぐさま端末が振動し始めたけど、坂上は電源を切ることでソイツを黙らせた。

 が、中野に背を向けたまま動くでもない。

 仕事はいいのか? なんて馬鹿げた問いかけは、もちろんしなかった。不味ければ、例え縋って引き留めようが中野を撃ってでも行くだろう。いずれにしたって延期とやらは坂上自身の決断であり、仕事内容を与り知らない中野が口出しするべき領域じゃない。

 ただ少なからず、狡いことをしたという自覚はある。言いたいことだけ言って、坂上に丸投げした形となったのは事実だ。

 だから無理にこちらを向かせることはせず、中野は黙って背後で待った。まだ撤回できる、と思えるだけの時間を、坂上がギリギリまで消費するのを。

 やがて、クソ、と小さく吐き出された呟きを合図に、中野は坂上の肩に引っかかっていたショルダーストラップに手を掛けた。抵抗する素振りがないのを確認して、そっと引き剥がしたバッグを床に置き、腕を回して腰を抱き寄せる。

「後悔はさせないよ」

「そんなものしない」

「そう? 何やってんだ俺、って感じの顔してない?」

 横顔を覗き込むと、後悔なんかしない、と低く繰り返す声がした。

「後ろを振り返って悔やんだところで何になるんだ? 今日のこれだけじゃない、何だってそうだろう。自分の選択の結果を受け止めて前に進むだけのことだ」

 抑揚なく綴られるそれは単なる人生観の話じゃなく、何か特定の出来事について己に言い聞かせているようでもあった。が、それが何なのかを尋ねることは勿論しない。中野が知ってもいいことなら、いずれそのときが訪れるだろう。

 ただ──と、坂上がポツリと続けた。

「自分に呆れてる」

 中野は笑った。

「同じだね、俺も自分に呆れてるよ。あんたは仕事だってわかってんのに、わがまま言わずにいられないなんてね。けど、こういう自分も悪くないとも思ってる。あんただって、もっと自分に呆れるようなことをしてもいいんじゃないかな」

「もうしてる」

「例えば、どんなことを?」

「あんたとの……何もかもだ」

 どこか腹立たしげな響きを孕んだ声。

 二の腕に触れてやんわり力をこめると、坂上は俯いたままこちらに向き直った。その両手首を取り、軽く引き寄せて中野は言った。

「じゃあ、わがままを受け入れてくれたお礼に今夜は何でも言うこと聞いてあげるから、自分でも最高に呆れるようなこと言ってみなよ」

「──」

「ほら。何がいい?」

 きっとメシのリクエストがあるだろうと予想した。普段よりも凝ったソースの贅沢な具だくさんオムライスだとか、もしくはお気に入りの具材のオムライスにハンバーグとエビフライも付けろだとか、食いしん坊ならではのわがままだ。

 いま、食材は何があったかな──と冷蔵庫のストックを思い浮かべたとき、抑えた声が聞こえた。

「あんたの……」

「うん?」

「あんたのしたいように──してほしい」

 意外な答えに数秒、思考が止まった。そうくるとは思わなかった。

 予想の遙か斜め上からやってきたリクエストに面食らい、中野は真意を確かめようと彼の頬を覗き込んだ。

 頑なに目を合わせない横顔は、いつもと変わらないコミュ障っぽさを孕んでいた。だけどそこにチラつく期待の色合いは、きっと中野の錯覚ってだけじゃない。

「後悔しても知らないよ?」

 笑い混じりに尋ねた声に、坂上が小さく、しかしはっきりとこう答えた。

「後悔なんか、しない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る