s1 ep8-2

 そんなことがあってから数日後のことだ。

 仕事で外出していた中野は帰社する途中、見おぼえのあるクルマを見かけた気がして足を止めた。

 路肩に駐車された、ありふれたシルバーのステーションワゴン。ボディにペイントされた『冨賀屋酒店』という黒い文字。

 歩道を挟んだ敷地には同じ屋号を掲げた素っ気ない箱形の建物があり、入口の左右には夥しい数のビールの生樽がブロックみたいに積み上がっていた。業販専門なんだろう、一般客向けの店舗には見えない。

 中野は立ち止まったままそれらを眺め、またステーションワゴンに目を戻して、休日の屋上からの光景を反芻した。

 坂上は昨夜、戻って来なかった。

 電話してみても応答はなく、深夜にようやく「今日は帰らない」というひとことだけのメッセージが届いた。

 それ自体は別に、今にはじまったことじゃない。これまでも同じようなパターンは何度もあった。が、そろそろ、帰らないときは事前に連絡させるべきかもしれない。

 坂上のためのメシなんて作ってなかった頃なら何も問題はなかった。ところが最近は、食材を買って帰ったら急にいなくなってた……なんてことも珍しくない。昨夜もそうだった。

 中野は原則、自分のために晩メシなどというものは作らない。だから坂上の不在を知った途端にモチベーションが綺麗さっぱり消え失せ、そのまま駄目にしちまった食材も数知れず。だから帰らない日には、できるだけ中野の退社時刻までに知らせてもらえると有り難い。

 道端で立ち尽くして同居人への不満を埒もなく考えるうち、生樽の向こうから男が現れた。

 手元の用紙に目を落として電話をしながら、中野のいるほうへ歩いてくる。清酒のロゴがプリントされた黒いTシャツにジーンズ、屋号の入った濃紺の前掛け。おそらく仕事柄なんだろう、どちらかといえば細身のわりに、袖から覗く二の腕は筋肉質で日に焼けて浅黒い。年の頃は三十前後か。

 男は用紙から上げた目を何気なく寄越して逸らし、すぐにこちらを二度見して、口を開けたまま立ち止まって数秒沈黙した。それから電話に戻ってふた言三言で通話を終え、スマホをポケットに突っ込んで中野の前へやってくるなりこう言った。

「驚いたな。なんでここがわかったんだ?」

「え?」

「アレだよな、Kの……彼氏?」

 ニヤついた表情が癇に障るけど、それなりに女受けしそうな面構え。

 彼氏という表現の正誤はさておき、『K』という名が出てきたってことは──だ。

 坂上の仕事の関係者で、先日屋上から見たクルマが目の前にある。となれば、情報屋というのは十中八九コイツで間違いなさそうで、つまり、あのとき坂上にちょっかいを出してた運転席の男なんだろう。

 中野は改めて目の前に立つ人物を眺めた。

 身長は同僚の新井くらい。ただし草食系の新井に対して、こちらは完全に肉食獣だった。

「ここに来るって、アイツ知ってんの?」

「アイツって?」

「だから、Kだって。まさか人違いじゃねぇよな?」

「逆に訊くけど、なんで俺がだって思ってんの? どっかで会った?」

 すると情報屋は、中野を脳天から爪先まで目でひと舐めして鼻で笑った。

「会わなくても情報は手に入るし、そもそもスーツ着た白っぽいアラフォーリーマンが現れたってなったら、まぁまず他のヤツって可能性はほぼねぇだろ」

「でも俺はここを目指して来たわけじゃなくて、たまたま通りかかっただけなんだよね」

「だとしても、わざわざ立ち止まってウチを見てたよな?」

「ところで、どちらさま?」

 唐突な中野の問いに、男が虚を衝かれたようなツラになった。

「は?」

「いくら情報屋だからって、何でも知ってるって顔でベラベラ喋られるのは気に入らないな。頼んでもないのに話しかけてくるからには、まず自己紹介から始めて欲しいね」

 中野がわざわざこんなことを言ったのは、これまでの相手と違って敵じゃないから──なんて友好的な理由では決してない。本人にも言った通り、気に入らないから。ただそれだけだ。

 この男の名前なんか正直どうだっていい。だけど最低限の記号を付与しておく必要はある。何しろ、いくら中野が気に入らなくたって、そうそう簡単に坂上の周囲から排除できる存在ではなさそうだから仕方なく、だ。

「情報屋って、アイツが言ったのか」

 男がそう尋ねたが、中野は首を傾けただけで答えなかった。

 やがて、トミガだよ、と情報屋は声を投げてきた。

「あっちにもそっちにも、ここにも」

 と、路駐のクルマたちと建物、それに己の前掛けを指す。

「書いてあんだろ? あぁ、もっかい言うけどトミガ、な。トミカじゃなくて」

「ふぅん、じゃあ本名なんだ」

「だったら何だ?」

「いや、別に。案外無防備なんだなって思っただけ」

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