第九十四話 あなたがいてくれたから
駅まで続く川べりの道を、ハヤトくんと並んで歩く。月には薄く雲がかかっていた。
「今日、楽しかった?」
聞いてはみたものの、良い返事は期待していない。誘うべきじゃなかった……なんて気持ちまで湧いている。
今日はミキちゃんと話をするだけのつもりで、あんな騒動を起こすつもりじゃなかった。チガヤちゃんの提案は楽しそうだったし、大好きな世界を見せたかっただけだ。
それなのに、結局はこれ以上ないくらいに陰湿な部分を見せることになって、反撃のシナリオまで書かせてしまった。しかも部室ではテルくんが暴れるし、ミヤさんまで暴走する始末だ。彼から見れば、散々な一日だったんじゃないだろうか。
先に謝っちゃおうかな……なんて思ったところで、ハヤトくんはクックッと笑い出した。
「楽しかったぞ、面白いものも見られたしな。リコが性悪女を煽ってる姿を見ていたら、初めて俺のところへ来た時のことを思い出してな」
「えっ?」
私がレミナさんを挑発していた時、ハヤトくんは飲食ブースで荷物番をしていたのだ。隠れて覗きに来ていたとも思えず、つい「なんで」と呟いてしまう。
ハヤトくんはポケットからスマホを取り出して、メッセアプリを起動した。差し出された画面には、クキちゃんとビデオ通話をしていたログが残っている。
「一部始終を撮らせてたんだよ。俺も状況が見たかったし、話を改変して触れ回るぐらいはしそうだからな。動画は保存しているはずだ、クキタなら信用できるだろ?」
それが何気ないことであるかのように、平然と言い放った。
確かに、クキちゃんは誰より信頼できる。軽率に外部へ持ち出せばどうなるか、身をもって経験した子なのだ。だけどよりによって、あんな姿が残ってるだなんて……私にとってはサービスショットなんかより、こっちの方がはるかに恥ずかしいんですけど!
「ちょっとー! 撮るなら先に言っといてよー!」
「言ったら意識するだろ?」
「そうだけどっ!」
「何だか懐かしかったよ。最初は俺を惚れさせて、こっぴどく振ろうとしてたんだもんな?」
「やーめーてー!」
自分の黒歴史まで掘り返されて、もう悲鳴をあげることしかできない。腹立ち紛れに軽く叩こうとした私の手を、彼は簡単に掴んでしまった。
「出来もしない悪事を無理に働こうとするから、逆に取って食われちまうんだぞ」
意地悪な笑みを浮かべてから、彼は私にキスをした。
誰も通らないのをいいことに、電柱の陰で抱き合って、何度もやわらかな口付けを繰り返した。
祝日の夜、駅前広場に人影はまばらだった。終電まであと十分もなく、早足で改札に向かっていると、券売機のそばに知っている顔が見えた。
「レミナさん」
私に気付いたレミナさんが、小さく会釈をした。桜色のトレンチコートが揺れる。彼女は気まずそうに、しかし迷うそぶりは見せることなく、私の方へと近付いて来た。
「待ってたの。イベントの後はいつも、大学の近くで打ち上げしてるって聞いてたから」
そう言ったレミナさんは、少し顔色が悪いように見えた。夕方からずっとここに立っていたんだろうか。電車の時間もあるし、あまり長話はできそうにない。
「何の御用ですか?」
「それは……謝りにきたの。ごめんなさい、ウィッグ捨てたりして。あと、ミライに嘘を言ったことも」
「やけに素直に謝るんだな。何か裏があるんじゃないのか」
私とレミナさんの間に、ハヤトくんが割って入るように立った。
「頭が冷えたのよ。衣装に手を出すのは、一番やってはいけないことだったから……許してくれとは言えないけれど、せめて気が済むようにしてくれたらと思って」
「一番大きな悪事を、謝っていないんじゃないのか?」
ハヤトくんが苛立たしげに問うと、レミナさんの肩はぴくんと震えた。
「匿名掲示板の書き込みは、私じゃないの。調べればわかること、嘘をついたって意味がないことくらい知ってるわ」
「じゃあどうして、ミライに被せようとした?」
「私、本当にミライが書いたと思ってたのよ」
「それなら、何故あんなに動揺したんだ? リコが訴えると言った時、慌ててたよな?」
私に一切喋らせず、厳しい言葉を投げ続けるハヤトくんを見て、レミナさんは困惑気味に溜息をついた。
「書き込んでなくても、私も犯人みたいなものだと思ったのよ。私の嘘が出所だもの……実はね、そのことについて、お願いしたいことがあるの」
周囲を見回して、ほとんど人がいないのを確認したレミナさんは、深々と私に向かって頭を下げた。
「噂の出所である私が全ての責任を負うから、訴えるのはやめて貰えないかしら。あまり大きな話にしないで貰いたいの」
「随分と勝手だな。何故そんなことを頼む?」
「……私にも、守りたいものがあるからよ」
レミナさんは顔をあげ、真っ直ぐに私たちを見た。その視線が、妙に力強く思えた。
「ミライじゃないなら、チームに残ってる三人の中の誰かなの。あの子たち、これから就活なのよ……私の為にしたことで、人生を棒に振って欲しくないの。勝手なのはわかっているわ、だけどお願いよ。私が何でもするから、どうかこれ以上は」
その時、ホームの方からぴいい、と警笛の音が聞こえた。終電が出てしまう合図だ。私たちが終電を逃したことに気付いたレミナさんが、あっ、と小さく声を出した。
「気にするな、その分じっくり話を聞かせて貰う」
「ううん、この話、すぐ終わるよ」
私が強い口調で言い切ったことに、ハヤトくんは驚いた様子だった。
長く話す必要なんてない。私の伝えたいことは、シンプルだ。
「あなたじゃないのなら、これ以上の謝罪は必要ないです。私が欲しいのは本人の謝罪と反省、つまり、二度と繰り返さないという約束だけなんです」
「絶対に二度と書かせないわ、それは約束する!」
「その約束を、私は信じることができません。あなたが嘘つきだという意味では、なくて……」
そこから先を続けるのには、少しの勇気が必要だった。言えばどうなるのかを考えると、迷う。
言葉が途切れた私の手を、ハヤトくんが握ってくれる。私が何かへ立ち向かう時、いつもこうして力をくれる……だけど、私たちは離れてしまう。彼は遠くへ行ってしまうのだ。
私は、温かな彼の手を解いた。
もっと強くなりたかった。一人でも歩けるのだと、示したかった。
「本当に、あなたの為にしたことなら、何も言わなかったのは何故なんでしょうか」
できるだけ感情は込めないように、考えだけをそのまま口にする。どういう意味かしら、とレミナさんが呟いた。
「あれだけの騒ぎになっても、あの人たち、一度もあなたを庇おうとしなかったんですよ」
「私を、庇う?」
レミナさんは、そんなことを考えもしていなかったのだろう。目を丸くして黙り込んだ。
「あの時、周りの人はあなたに非難の目を向けていました。私たちがそうなるようにしたからです。なのに彼女たちは、一度も声をあげなかった。あなたのことを本気で慕っているのなら、庇う言葉の一つくらいは出るんじゃないですか」
言葉を選びながら、この人も「被害者の一人」であった可能性を考えていた。あの三人の振る舞いが、高校時代の友人たちと重なってしまう。目立つ誰かを
「私が思うほど、あの子たちは私を好きじゃない……そういうこと、かしら」
混乱しているのか、レミナさんはしきりに頭を振った。私は「そういうこと」に気付いた時の絶望感を知っているから、彼女の様子に胸が痛む。
「だったら……どうして、あんな書き込みなんか」
「それは、私にはわかりません」
理由はいくつか思い当たったけど、憶測で口にしていいことではないような気がした。そして本当の理由なんて、私は別に知りたくもなかった。決して愉快なものではない、それだけは確かだから。
「私は、本物の犯人に対して、するべきことをするだけです。相手が誰であろうと同じです。なので、これ以上の謝罪は必要ありません。あなた自身のしたことについては、既に謝罪を頂きました」
レミナさんは、ポカンとした顔で私を見ていた。対応としては甘いのかもしれない。それでも、怒り方くらいは自分で決めたい。私の気持ちは私のものだから、怒る「べき」なんて理由では怒りたくない。
他人の言葉で自分の気持ちを決めてしまっていたら、いつか自分も御輿になってしまう。
たとえば、メグミちゃんやアイリちゃんが、ヒマちゃんを責め立てていたとしたら。私が自分の感情を無視して、その流れに乗ったとしたら――私だって、今頃はあちら側に立っていたのかもしれない。その先にあるのは、後悔だけだ。
「理不尽な目に合わせることなんて、望んでいないんです。簡単に許すつもりはありませんけど、それとこれとは別の話です」
「そう……あなたって、おかしな人ね」
レミナさんは苦笑して、それから悲しそうに俯いて、震える声で「ごめんなさい」と言った。
「ミヤマくんの心を手に入れたあなたが、どうしても妬ましかったの。だから私も、あなたの一番大切な人を……ミライを、手に入れたかった。そんなことをしたって、ミヤマくんに嫌われていくだけなのにね……」
いまのレミナさんが零している涙は、何の涙なのだろうか。反省の涙だといいな、と思う。
「ミヤさんは、嫌いじゃないって言ってました。話してみるといいんじゃないですか?」
最後にそれだけを告げて、私はレミナさんに背を向ける。ありがとうと聞こえたけれど、振り返らずに駅を出た。
これ以上、話をする必要はなかった。伝えたいことは伝えたし、彼女の思いも理解はできた。まだ許すことはできないけれど、恨み続けることもない。
きっと、今は、これでいい。
私はミキちゃんにメッセを送った。レミナさんが本気で謝りに来たよ、でも書き込みはあの人じゃなかったみたい――送った後で悪戯心が湧いて、寒い中ずっと駅で待ってたんだって、と追撃してみた。
ミキちゃんのことだから、部室にいる全員へ見せるはずだ。
すぐに届いた返事には「ミヤさんが大慌てで飛び出してった!」と、サムズアップの絵文字付きで書かれていた。
終電に乗りそびれた私たちは、ハヤトくんのアパートで朝を待つことにした。
シャワーすら浴びないまま、アトリエだった部屋でシングルベッドに潜り込む。殆どの荷物は東京へ送ってしまった後で、あんなに雑然としていた部屋はがらんとしていた。残っているのは置いて行く予定の家具と、微かに漂う画材の匂いだけ。
不意に、彼の手で灯りが消された。
「この部屋で、初めてリコの身体に触れた時……俺のせいで、リコが汚れてしまいそうで、悪いことをしている気分だったよ」
耳元でそう囁く彼が、いま思い描いているのは、バレンタインの夜じゃない。私と、初めてのキスをした日のこと――いつまでも大好きだと、小指を繋いで誓い合った日のこと。
「初めての人になって欲しいだなんて、可愛いことを言ってくれたよな……あの時は断ったけど、本当に嬉しかったんだ」
窓から差し込む月明かりの中、彼の指が私のブラウスにかかり、丁寧にボタンが外されていく。その指を、私は両手で包んで止めた。自分の手で、自分の意思で、全てを曝け出したかった。
身に付けていたものを片っ端から脱ぎ捨てて、全力で部屋中へ投げ散らかしていく。あの日の再現をしている私に気付いたハヤトくんは、やわらかな口調で「アンタらしいな」と笑った。
「忘れないでね? 私、ハヤトくんの作品なんだから!」
「モデルじゃなくて、作品か?」
「そうだよ、私、いっぱい変えられちゃった……もう、元になんか戻れないんだからね?」
ああ、と短く答えた彼は、耳まで赤くなっているように見えた。
彼の手を引き寄せて、自分の頬に押し当てる。愛おしい指先を、少しだけ口に含んだ。私を変えた手は、勇気をくれる手……素敵な世界を生み出す、魔法の手だ。
「指輪、絶対に外さない……私はあなたの作品だっていう、印なの」
たったひとつ身に付けたままの、左手の薬指に光る銀の翼。ハヤトくんは指輪を見つめ、ありがとう、と呟いた。
「リコと出会えて、本当に良かった……俺、幸せだったよ」
その声が優しくて、胸がいっぱいになってしまう。
あなたがいてくれたから、私も幸せだったんだよ――過去形になんかしたくないけど、この部屋で過ごす最後の夜だから、想いの全てを余さず伝えておきたかった。
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