第九十五話 夢を叶えたらまた会おう

 ハヤトくんが東京へ発つ日、福海空港のカフェで、私はオリエさんと再会した。「三人で早目に集まってお茶でもしましょう」と、ハヤトくん経由で誘ってくれたのだ。

 今日を限りに「彼女」ではなくなる私が、どんな顔で会えばいいのか悩んだけれど、既に事情を聞いたうえでのお誘いで、とても断ることはできなかった。


 前回同様に和装で現れたオリエさんは、ひさしぶり、と笑顔を見せてくれた。


「うちのバカ息子が最後まで迷惑かけ通しで、本当にごめんなさいね?」

「いえ、迷惑だなんて……」

「でもね、一人前になったら、リコちゃんを迎えに行きたいんですってよ。ねぇハヤト、あなた確かにそう言ったわよね?」


 オリエさんのトークは、開幕からトップスピードだった。うわ、とハヤトくんが眉間にシワを寄せ、私は頬が熱くなるのを自覚した。私たちの反応を見たオリエさんは、ハヤトくんに「取られても知らないわよ」と言った。


「まぁバカ息子の妄言だから、無理に待ったりしなくていいのよ? 手放す方が悪いんだから、他にイイ人いたら、スパッとそっちに行っちゃってね!」

「えっ、いえ、そんなことは!」

「そうだ、母と直接お友達にならない? ハヤト抜きでも、たまには遊びましょう?」

「あっ、はいっ!」

「母さん、少しは加減してくれ……」


 連絡先の交換を始めた私たちを見て、ハヤトくんは渋い表情でテーブルに突っ伏した。ケラケラと笑っていたオリエさんは、急に「アオイちゃんが連絡取れないのよね」と真顔になった。


「ハヤトと派手にケンカしたっていうのは知ってるんだけど、こんな時にまで無視するような子じゃないのに」


 ああ、そういうことになっているのか……それを聞いて、ホッとした。日向ヒュウガの家を継いでいるのはヒマちゃんのお父さんだから、真相が知れれば、オリエさんだって住み辛くなるに違いないのだ。


「だいたいね、ハヤトも悪いのよ。ケンカ中に東京行きを決めたりするから、余計にこじれるんでしょう?」

「仕方ないだろ。ヒマ助も俺も、しばらく離れて頭を冷やした方がいいんだって」


 ハヤトくんが、子供のように拗ねている。オリエさんの前のハヤトくんは、なんだか普段と雰囲気が違って見えた。


「別に、もう二度と会えないってわけじゃないんだから、見送りくらい別に構わないだろ?」

「あなたはそんなことばかり言うけどね、お互い元気に明日が来るとは限らないのよ? もしも乗った飛行機が落ちたら、どっちも後悔するわよ?」

「縁起でもないこと言うなよ……せめて場所を考えてから発言してくれ」


 ハヤトくんが気まずそうに周囲を見回した。オリエさんが相手だと、あの「美術科の変人」も一気に常識人だ。


「あなたたち、やっぱりダメよ。ケンカして仲直りもしないままなんて、絶対にダメ!」


 突然オリエさんが勢いよく立ち上がり、一口しか飲んでいないコーヒーのカップを掴んで一気飲みした。和装美女の奇行という感じで、周囲の視線がオリエさんに向いた。


「ハヤト、搭乗はギリギリまで待ちなさい。母は今から、アオイちゃんを呼びに行きます!」


 言うが早いか猛烈なスピードでカフェを出て行ったオリエさんを見て、ハヤトくんは頭を抱えながら、悪い、と呟いた。


「リコ……本当に悪いとは思うんだが、アレに付いて行って貰えないか……?」


 さすがに放置できないと思ったのだろう。私も完全に同感だ。短く「わかった」とだけ答えて、私も急いでオリエさんを追った。


 赤のハスラーで空港に来ていたオリエさんは、助手席の私が目を回しそうな勢いで、ヒマちゃんのマンションへと車を走らせた。

 驚きの速さで到着し、来客用駐車場へ車を停めると、とても和装とは思えない速さで猛然とダッシュしてゆく。そのままエントランスホールへ突撃すると、エレベーターすら待たずに階段を駆け上がり、そうしてヒマちゃんのお部屋の前に着くと、今度はすごい勢いで呼び鈴を連打し始めた。


「アオイちゃん! 開けなさいっ、開けないと死ぬまで後悔するわよ!」


 大声で叫びまくるオリエさんに観念したのか、ヒマちゃんがそっと扉を開けた。


「オリエちゃん……近所迷惑だから……」

「やっと開けたわねっ、入るわよ!」


 押しのけるように玄関へ入り込むオリエさんと、慌てて後に続く私。ヒマちゃんは困った顔で私を見て、ほんとにもう、と呟いた。


 行かないったら行かない、とヒマちゃんはフローリングの床に座りこんだ。テコでも動きませんと言わんばかりに、胡坐をかいて腕を組んでいる。


「オリエちゃん……早く戻らないと、ハヤト行っちゃうよ?」

「私はいつでも会いに行けるからいいのよ! アオイちゃんこそ、ちゃんとあの子と話をしてから送り出しなさい!」

「ハヤトの方が、私には会いたくないんじゃないの?」

「じゃあ聞きますけどね? あなたたち、一生そうやって避け合うつもりなの!?」


 相変わらず私をそっちのけで、激論を交わす二人。あまり時間はないのに、決着はつきそうもなかった。

 ヒマちゃん、と声をかけると、いちおう視線はこちらへ向いた。


「ねぇ、一緒に行こう? ハヤトくん、許したいと思ってるんだよ」

「嘘、そんなわけない……許すわけ、ないよ」

「嘘じゃないよ、許せるものなら許したいって……」

「許したいって、結局許せてないんでしょ?」


 ヒマちゃんは泣きそうな顔で、私を睨んだ。


「行ってどうするの? ハヤトに嫌われてることを、わざわざ確認しに行けってこと?」

「だから、嫌われてなんか――」

「私はリコみたいに可愛くないからっ! 無条件で愛される魔性の女には、一生わかんないことなの!」

「アオイちゃん!」


 オリエさんが鋭い声を出した。叱ろうとしたんだと思う。だけど私は、こんな話までもが外見へ紐付けられたことに、無性に腹がたってしまった。


「ハヤトくんが私を好きなのは、見た目のおかげだって言いたいの?」


 オリエさんのお説教より先に、声が出た。それは自分でも驚くような、厳しい声だった。

 ヒマちゃんもオリエさんも、何か怖いものを見るような表情で、完全に動きが止まってしまう。だけどもう、私の憤りは止められなかった。


「そんなわけっ、あるかぁー!!」


 私は勢いのままにキッチンスペースへ飛び込んで、吊るされていたハサミを掴み取った。オリエさんが大声で「刃物はやめなさい!」と叫んだけれど、別に刃傷沙汰を起こしたいわけじゃない。

 私がハサミを向けたのは、自分の髪だ。

 肩より伸びていた髪に、適当にハサミを入れていった。ガタガタの切り口で、笑えるくらいに短くなっていく。あとはショートにするしかないなと思いながら、右側と左側、交互にハサミを入れ続けた。


「リコちゃん! もうわかったから、そこでやめなさい!」

「わあああ、やめて! ごめん、お願い、もうやめてー!」


 叫びながらも動けずにいる二人の前で、私はハサミの向くままに肩の上まで髪を切り、満足したところで一回くるりと回って見せた。


「可愛くない私がフラれるかどうか、空港まで確かめに行こうじゃない!」

「わっ、わかった、わかったから! わかったからハサミは置いて!」


 ヒマちゃんは涙目になって立ち上がり、慌てた様子で「支度してくる!」と洗面所に駆け込んで行った。


「ハヤトがあなたを好きな理由、すごく理解できた気がするわ」


 ハサミを握り締めたままで固まってしまった私の指を、丁寧に外してくれたオリエさんは、ギザギザになった髪を切り揃えてくれた。


 出発ロビーの人混みの中、いつものメンバーに囲まれたハヤトくんを見つけた。

 元気でな、しっかりやれよ、帰って来る時は集まろうね――みんな口々に、お別れの言葉を口にしている。

 ハヤトくんがこちらに気付いて、彼の視線をみんなも追った。


「うわ、リコちゃんそんなに髪切ったの!?」


 私の髪を見て、最初に声を上げたのはメイくんだった。驚きでざわつく中、ヒマちゃんがみんなの方へと進み出た。


「みんな、ごめんなさい……」

「俺らは何にも気にしとらんよ。ハヤトとは、きちんと話しとき」


 カメヤンに促されてハヤトくんの前に立ったヒマちゃんは、そのまま黙り込んでしまった。


「言いたいことがあるなら、何でも聞くぞ」


 先に口を開いたのは、ハヤトくんの方だった。


「ハヤト……おねがい、ゆるして、元に戻りたい……」


 涙をポロポロ零しながら、何度も「お願い」と繰り返しているヒマちゃんを見て、ハヤトくんは辛そうに目を伏せた。


「俺だって、戻れるものなら戻りたい……だが俺には、もう少し時間が必要みたいだ」

「……うん」

「許していないわけじゃない、嫌いになったわけでもない。お前が誰より辛かったことも、わかってはいるんだが……俺が落ち着くまで、待っていてくれ」

「わかった……」


 ハヤトくんは顔色を青くすることもなく、そっとヒマちゃんの涙を拭いた。


「ヒマ助、ちゃんと大学には通えよ。俺はお前の夢を叶えたくて、一緒に福海ここへ来たんだからな。その意味が、わかるか?」

「それは……私が、お荷物だって」

「違うわアホか! お前の夢は、俺の夢でもあるってことだ! もし教職落としたとか言ってみろ、俺はもう二度と口利かないからな!」


 放った言葉は荒いけど、ハヤトくんは確かに笑っている。ああ、きっと二人は大丈夫だ――そう思えて、嬉しさで涙が出そうだった。

 ヒマちゃんは大きく頷くと、顔をあげた。私たちがいつも見ていた、元気なヒマちゃんの笑顔がそこにあった。


「うん……私、頑張るよ。だから、何も心配しないで!」


 よし、とハヤトくんはヒマちゃんの頭をぽんと軽く叩いて、メイくんの方へ預けるように背を押すと、今度は私の前に立った。


「その髪、いったい何事だ?」

「かっこいいでしょ?」

「ああ……リコは何だって、似合う」


 ハヤトくんが、握手を求めるように手を差し出す。私は迷わず握り返した。

 大きくて、温かくて、すっかり油の匂いがしなくなった手。この街から飛び立ってしまえば、すぐにあの懐かしい匂いが戻ってくるのだろう。

 やっぱり、これが、正しい道だ。


、お別れだ。元気でやれよ?」

「うん……も、身体に気をつけてね!」


 私たちは、初恋の終わりを確かめるように、互いを名字で呼び合った。

 たった今「恋人」ではなくなったけれど、それでも心は繋がっている。深く繋げた信頼は、決して消えることはない。


「夢、叶えてきてね」

「もちろんだ。オノミチも、きっと叶えろよ」


 やわらかな声が余計にさみしくて、泣きたくないのに視界が歪んでしまい、慌ててハンカチを目元に当てた。彼に貰った香水の香りが、私の心をそっと包んでくれる。

 せめて飛び立つ彼を見送るまでは、笑顔を見せ続けたかった。


「リコ、無理してるんじゃないの?」

「泣いてもいいんだよ?」


 私の様子に気付いたメグミちゃんとアイリちゃんが、優しく声をかけてくれる。そんな私たちを見て、イシバシくんは嬉しそうに微笑んだ。

 イシバシくんと最初に離れた時は「友達を増やした方がいい」なんて言われていたのに、今はこんなに頼れる友達がいる。

 彼との恋が、私の全てを変えてくれたから。


「福海中にリコリスが咲いてる日を、楽しみにしてるからな」


 イシバシくんはそっと私の左手を取り、薬指に輝く指輪を撫でた。彼の作品だと示すための意匠を、私は決して外したりしない。

 たとえこの先に、どんな道があったとしても、私は永遠に彼のものだ。


「夢を叶えたら、必ずまた会おう」


 人目を憚ることもなく、彼は銀色の翼に、祈るような口付けをした。

 

 みんなで展望デッキに上がって、彼の乗った飛行機を見送った。

 ニッシーが「マジで飛んでっちまったなぁ」と笑ったので、なんとなく、あの広い背中に翼が生えて飛び回る姿を想像した。

 どこまでも飛べ、私の愛するハヤブサ。

 私はこの街で、あなたのための花になり、ずっと綺麗に咲き続けてみせるから。

 たとえ何年かかっても、大きく広がるその翼で、大切な夢を叶えてきてね――。


 それが、大学二年の夏に出会った、大好きな人とのお別れだった。

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