夢見る季節を過ぎても
第九十六話 あの日描いた未来の途中
大学を卒業して、四度目の春を迎えた。
私はローカル枠の情報番組やタウン誌の仕事を貰っていて、そこそこ忙しい日々を送っている。
シグマさんが気にかけてくれるおかげだ。
生活サイクルが不規則な仕事をしているので、事務所近くのマンションに部屋を借りている。実家にはお母さんが一人で住んでいて、お父さんは東京へ単身赴任中。それでも月に一度は帰って来て、私の出た番組の録画や雑誌、広告などを全て持ち帰るらしい。父ヒデヒコ、相変わらずだ。
相変わらずじゃないのはメイくんで、彼は家を飛び出し「オフィス・グローイング」への就職を決め、私のマネージャーになった。隣の部屋に住んでいるので、学生の頃よりも一緒にいる時間は長い。
その選択は、私の為ではなかった。ずっと「私のせいでリコがひとりになっちゃった」と言い続けていたヒマちゃんの罪悪感を、少しでも和らげる為の決断だった。
恋人の「リコを守ってあげて」という願いを、全力で叶え続けている。
その強さと一途さが、とてもメイくんらしいと私は思う。
タウン誌のフォト撮影が終わってから、翌日の打ち合わせをするために事務所へ寄った。使い慣れたミーティングスペースでシグマさんと向かい合って座り、ザイツさんやメイくんも交えて、台本へ目を通していく。
明日は一緒に情報番組のロケで、大型連休に合わせたレジャースポット特集だ。隣県まで移動するので、朝五時までに事務所へ来るようにとザイツさんが告げた。
シグマさんはロケの時、私と落ち合ってから一緒に集合場所へ向かう。そして番組スタッフと合流するまでの間、とりとめもない話をする。それはシグマさんにとって、私と呼吸を合わせるための儀式であり、コンディションチェックでもあるのだ。
大まかなスケジュールの確認のあと、台本の流れを確かめながら「この場所ではどういう空気にしていこう」みたいな、ふんわりとした方針を確認していく。そんな時、彼は必ず「どうしてそうするのか」という理由を添えてくれるので、解釈の違いに起因する事故は起こしたことがない。転んで彼を田んぼに引きずり落としたことはあるけれど……あれは未だに、思い出すだけで憂鬱になる。
しばらく二人で意見を出し合い、それじゃそんな感じでいこう、とシグマさんがゴーサインを出した。
「最近リコちゃんこなれてきたよね、自信ついてきたかな。イレギュラーに強いから助かるよ」
「ありがとうございます!」
こういう時のシグマさんは、決して私を貶さない。笑顔でお礼を言う私は、その言葉を信じていない。
普段のシグマさんは「褒めて育てる」タイプではないのだ。後輩芸人にはかなり厳しくダメ出しをしている。私はただの添え物なのだろうか。花は咲いていればいいだけのもので、指導する価値もないのだろうか――そんなことを、つい考えてしまう。
「では、今日はこれで解散にしましょう。どうもお疲れ様でした」
広げていた書類をまとめながら、ザイツさんが席を立つ。挨拶を返して席を立とうとした私を、ちょっと、とシグマさんが引き止めた。
「リコちゃんさぁ、今どんなこと考えてた?」
不意に聞かれて、ごまかすこともできなかった。まさか「あなたの言葉を疑っていました」なんて言えるはずもない。
「えっと……信頼される自分になりたいって、思ってました」
当たり障りのなさそうな言葉で、嘘にならない答えを返したつもりだった。しかしシグマさんは天井を仰ぎ、座っている椅子の背に身体を預けた。
「リコちゃんは自分の仕事を、信頼に値しないものだと思ってるの?」
シグマさんの眼光が鋭くなる。今までに何度も見てきた、誰かを叱る時の顔だ。
「キャスティングに口を挟むということは、その責任を負うってこと。俺はね、信頼できるヤツしか隣に置かないんだよ。不当に低い評価は俺やスタッフへの侮辱だぜ、わかるよな相棒? 枕だとか愛人の世話だとか、どんな悪評を背負わされても、俺は絶対にお前を離さないからな!」
厳しい口調の中に、優しさの欠片が見える。羨ましいとすら思っていた視線は、いざ向けられると苦しいものだった。こんな顔をさせてしまうことが、ただひたすらに悲しかった。
「仕事を任されるってことは、既に信頼されているってこと。だから俺たちは、必ずその信頼に応えなきゃいけない。いい加減に腹括れ、度を越した謙遜は自分の価値を落とすぜ?」
「はい……すみません、でした」
恥ずかしくて俯いた私に、怒ってないよ、とシグマさんは言った。ふと気付くと、がっつりと顔を覗きこまれていた。
「でも俺、リコちゃんのそういうとこ好きよ。慢心とは無縁なとこ。つまり惚れてんの、キミに胸キュンってね? やっべオッサン告っちゃった☆」
いつも通りの軽薄な笑顔だ。女性に甘くてノリが軽いという、私の師匠が抱える問題点。いつも「ムスメに叱られちゃうんだよね」と言ってるあたり、おそらく娘さんにも同じノリで接しているのに違いなかった。
「ドサクサに紛れて口説くんじゃない。しかもキミに胸キュンってお前、せめて若い子に通じるネタで出直して来い」
ザイツさんが呆れた顔で、シグマさんの頭を叩いた。
「タケル、今日はオノミチさんを部屋の前まで送って。扉の施錠まで確認すること!」
「了解です、お疲れ様でした!」
シグマさんから私を遠ざけるように、メイくんが私の手を引いて帰ろうとした。ゲラゲラ笑うシグマさんは、暢気にヒラヒラと手を振っている。
「リコちゃん、仕事にかまけて人生放り出すのもダメだぜ! 例のカレシと何かあったら躊躇するなよ? オッサン全力でフォローしてやるからさ!」
はぁい、と叫びながら、二人で逃げた。入口横の席で事務仕事をしているキョウコさんが、私たちを見ながら大声で笑っていた。
エレベーターに乗った途端、メイくんまで私を見て笑い出す。
「あははは、リコちゃん凄い顔になってる」
「シグマさん、痛いところを突いて来るんだもん……」
もう溜息しか出なかった。その「例のカレシ」とは、今更になって何かあるわけもないのだ。
仕事終わりに、一階のカフェでお茶をして帰るのが習慣だ。ビル内の入口から店内へ入ると、スタッフのテッペイくんが「お疲れさまです!」と、お日様みたいな笑顔を見せた。
「テッペイくん、今日も元気だね」
「俺は元気が売りですからね!」
テッペイくんは去年からうちの事務所に所属している、この春大学を出たばかりの男の子だ。いちおうシンガーソングライターという肩書きだけど、表立った実績はまだ何もない。駅近くの公園で弾き語りをしていて、通りかかった社長に見初められた。うちの事務所はそんな人ばかりだ。
「早くお客さんの前で歌えるといいね、テッペイ」
「今でも公園で歌ってますよ、たまには聴きに来て下さいよ」
「公園で歌ってても食えないんだから、もっと頑張れって言ってるの」
メイくんに容赦ない言葉を浴びせられ、テッペイくんは肩をすくめた。
今もこのカフェのスタッフは、本業だけでは食べていけない「ひよっ子」たちだ。だから私もメイくんも、毎日必ずここへ寄る。
自分がどんな世界にいるのかを、決して忘れないように。
私とメイくんは、定位置のボックス席へ座った。ここで何もオーダーせずにいると、私にはカフェオレが、メイくんにはホットのブレンドが出てくることになっている。毎日寄るうちに根付いた暗黙の了解。
「お待たせしました、リコさん用スペシャルカフェオレ!」
「僕のはスペシャル?」
「普通のブレンドですけど、魔法かけときます? ちちんぷいぷいおいしくなーれ☆」
コーヒーに魔法をかけるテッペイくんを見ながら、私はカフェオレに口をつけた。
私好みに作られた、テッペイくんのカフェオレは、イシバシくんを思い出す。
もう何年も会っていない、私が初めて好きになった人。
「ねぇリコちゃん、渡したいものがあるんだけど」
メイくんはボンヤリしている私の手を軽くつついて、脇に置いていたビジネスバッグから、封書を一通取り出した。
オフホワイトの華々しい封筒は、結婚披露宴の招待状だった。
「六月なんだけど、来てくれるかな?」
照れ臭そうに、メイくんが頬を染めた。
事前に打診済みのくせに、よろしいでしょうか、という顔をする。スケジュールの調整だって、あなたがするくせに。今更になって断るだなんて、ちっとも思ってないくせに。
「もちろんだよ、おめでとう」
そう告げた私は、きちんと笑えているだろうか。
招待状を開けてみると、ヒマちゃんの字で「友人代表のスピーチ、よろしくお願いします!」と書かれたメモが添えられていた。ヒマちゃんの明るい声が、耳の奥で響いたような気がした。
「スピーチ大丈夫? 緊張で噛んだりしない?」
「緊張ぐらいで噛んでたら、今のお仕事なんてできないじゃない」
「あはは、そうだよね……リコちゃん、よろしくね」
メイくんが、軽く頭を下げた。その仕草に距離を感じて、私たちはもう他人なのだと、改めて示されたような気分だった。
本音を言えば、さみしい。私の親友で、いつだって誰よりそばにいてくれたメイくん。これで私はもう、彼と「適切な距離」を取らなければならないのだろう。
だけど、メイくんの相手がヒマちゃんで良かったと思うのも、私の確かな本音だ。ヒマちゃんならきっと、メイくんを幸せにしてくれる。そしてメイくんもきっと、ヒマちゃんを幸せにしてくれる……私は、ヒマちゃんのことも大好きだから。
大切な親友が、認められないような人のところへ行ってしまわなくて、本当によかった。
「たまには私を思い出してね、ふえーん」
大げさに泣き真似をすると、僕らは毎日顔を合わせるじゃない、と呆れられた。
「あのね、僕もアオイも……死ぬまでずっと、リコちゃんの親友なんだからね」
そう言ったメイくんは、彼にしてはとても珍しく、涙ぐんでいるように見えた。
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