第九十二話 さよならなんて認めない

 ハヤトくんの「きっと最初で最後の機会だから」という希望で、私たちは終電まで遊んで帰ることにした。朝までここにいても良かったのだけど、ミヤさんに「リコちゃんはお家に帰りなさい」と叱られてしまった。うちの父親の心配性を、嫌というほど知っているのだ。

 すっかり意気投合したテルくんとミキちゃんは、格闘ゲームで熱戦を繰り広げていた。その隣ではメイくんが、ビデオゲームで遊んだことがないというハヤトくんに操作方法をレクチャーしている。一年生コンビとカンジくんは、何故かチガヤちゃんまで巻き込んで「今期の春アニメはどれが覇権を取るか」という主観全開の議論を戦わせていた。

 みんなが盛り上がる中、私はミヤさんと二人きりで話をすることになった。


 お手洗いから出るとミヤさんが待っていた。何も言わずに私へ手招きをして、そのまま機材置き場へ入っていく。何か大事な話があるんだな、ということくらいはわかる。あまり良い予感はしなかったけど、後を追って室内に入った。

 前は雑然としていたこの部屋も、テルくんの事故があってから、みんな整頓を心がけるようになった。窓辺のブラインドは下りていて、仄暗い部屋の中、ミヤさんがくるりと振り返る。


「こんな時に悪いが、話しておきたいことがあるんだ。扉は開けておくぞ、男女が二人きりだからな」

「そんなに気を遣わなくてもいいよ? ミヤさんだもん!」


 別に、扉なんか開けてなくても平気なのに。ミヤさんはいつも私を大切に扱ってくれる、誰よりも強く優しいヒーローなんだから。そもそも信頼関係がなければ、男の子ばかりの中で露出の高い衣装を着たり、野外撮影でハイエースを更衣室にしたりなんてできない。


「そうだな、俺だもんな……だが、誤解の種は少ない方がいいだろう?」

「誤解なんてする人、いる?」

「まぁ念の為だ、なるべく小さな声で話して貰いたい。俺に言われたくはないだろうがな、ははは」


 地声の大きなミヤさんが、いつになく小さな声でひっそり笑う。メイくんにまで内緒の話だなんて、今まで一度もなかったことだ。


「少し言い辛いことだが、一番にリコちゃんへ伝えたかったんだ。聞いてくれ」


 その口調は硬さを含んでいて、私に緊張を呼び起こす。ミヤさんは一度だけ、とても小さく咳払いをした。


「俺は今日、サークルを卒業しようと思う」


 ミヤさんは微笑んでいた。この話を予想していたわけではないのに、あまり驚きはなかった。何か悲しいことを言われるに違いない、そんな予感があったから。


「このサークルはもう、俺が居なくても大丈夫だ。さっきのクキタを見ただろう? 俺の仕事は終わったよ、老兵は去りゆくのみだ」

「そんなのやだ……ミヤさんがいないと寂しいよ、考え直してよ」


 どうにか撤回させたくて、引き止める言葉を探したけれど、簡単に見つかるわけもない。子供みたいな拒否しかできず、どうにかメイくんを巻き込めないか、なんて考えてしまう。


「そう言ってくれるのは嬉しいが、本来なら大学を卒業していたわけだからな」

「サークルを復活させる時、来年も一緒だって言ってくれたのに、どうして?」

「ああ、そうだったな……はは、嘘つきは嫌われてしまうな」


 ミヤさんの表情には翳りがあって、いつものように豪快に笑ってはくれない。決断の理由が知りたかった。そこそこ長い付き合いなのだ、気まぐれでこんなことを言い出す人じゃないのは知っている。必ず何か、大きな理由があるはずだった。


「私、被写体としての魅力がなくなっちゃった?」

「いいや、そうじゃない。今日もリコちゃんは綺麗だし、これからも俺のお姫様だ」

「じゃあ、レミナさんに酷いことをしたから?」

「まさか、俺はリコちゃんの味方だ。今日の騒ぎの意味だって、きちんと理解しているつもりだぞ?」

「だったら、どうして!」


 真相に辿り着ける気配のなさに苛立つ。悔しさで涙が出てきて、心の底から嫌になる。こんな時に泣いてしまう私は、すごく卑怯だ。

 ミヤさんは辛そうに目を伏せて、人差し指を自分の唇にあてた。


「静かに。そんな声を出させてしまって、すまないな……お願いだ、どうか泣かないでくれ。みんなを心配させてしまうよ」

「むり……」

「無理じゃないさ。ほら、笑顔を見せてくれ、


 ミヤさんは少し屈んで、目線の高さを私に合わせると、よしよし、と言いながら頭を撫でてくる。まるで子供をあやすような仕草は、メイくんにも移ってしまった、ミヤさんの癖だ。

 私の頭を撫でる手は、メイくんよりも大きくて、昔から何一つ変わらない。私も変わらず泣き虫で、やだやだと泣き叫びたい駄々っ子が、心の奥で暴れている。


「俺はな、リコちゃんに笑っていて欲しいんだ。だけど俺が一緒にいたら、またレミナが何かやりかねないだろう?」


 こうするしかないんだ、とミヤさんが言った。

 ミヤさんを、引き止めたい。泣いて喚いて嫌だと言えば、仕方がないなと笑ってくれるに違いない。私を愛してくれるカメラマンのみんなは、絶対に「リコのワガママ」を受け入れてくれる。

 そして私は、それがルール違反だと知っている。みんなが私のワガママを聞いてくれるのは、今までに培ってきた信頼のおかげだ。

 リコリスは決して、みんなの想いを踏み躙ったりしない。その前提があるからこそ、みんなも私に応えてくれるのだ。ミヤさんの考えを無視することは、その信頼に傷を付けてしまう行為だから……納得して残ってもらわないと、意味がない。


「私は平気だよ? 何があっても、みんながいてくれるもん」

「ああ、リコちゃんは平気かもしれない。だが、レミナには何も残らなくなるだろう?」


 ミヤさんは私の頭を撫でる手を止め、頬を流れる涙を拭いた。


「自業自得とはいえ、今のレミナは、これまでに築き上げてきた全てを失ったんだ。人間はな、失くすものがなければ怖いものもなくなる。もしも今、アイツがヤケになって暴走したとして、それを止められる人もいないということだな」


 そこで言葉を区切ったミヤさんは、深い溜息を吐いた。


「いいか、リコちゃん。本気で誰かと戦うのなら、そういうことも考えておかなくてはならない。生きている人間を相手に、正義の鉄槌を下してゲームクリアでハッピーエンド、というわけにはいかんのだ。わかるな?」

「戦うなって、こと?」


 訴えると言ったことを、咎められているような気がした。だけどミヤさんは短く「違う」と言い切って、目を閉じた。


「リコちゃんの決断は、決して間違ってなどいない。だからこそ俺も、全力でやれることをやらねばならん。一人になったあのバカを、誰かが見張ってなきゃいかんのだ……つまり、俺は、俺にしかできないことをだな……」


 ミヤさんの声がか細くなり、私たちは黙り込んでしまう。遠くからみんなの笑い声が聞こえてきて、余計に沈黙が気まずくなる。

 ミヤさんが、自分の頬を両手でバチンと叩いた。


「俺は、レミナのところへ戻ろうと思う。こうして自分に酔ったまま、信じる道を進みたいんだ。ミヤマが言うなら仕方がないな、言い出したら聞かないからなと、俺を送り出してくれないか……!」


 懇願するような声だった。

 今のミヤさんは揺らいでいて、もしここにメイくんがいれば、簡単に言いくるめてしまうだろう。それがわかっているから、あえて私だけを呼び出したのに違いなかった。私を納得させてしまえば、そのまま押し通すことができるのだから。


「そんなの、ダメだよ……送り出すなんて、できないよ」


 私は真っ向から、ミヤさんの頼みを拒絶した。たとえ彼の理屈が正しかろうと、受け入れるわけにはいかなかった。

 だって私は、私たちは、ミヤさんのことが大好きだから。そして本当はミヤさんも、ずっと一緒にいたいと思っているはずだから――そう、私は信じているから。


「ミヤさんは、今でもレミナさんを好きなの?」


 私が意地悪な質問をすると、ミヤさんはぐっと言葉に詰まってしまう。私だって、本当はわかっているのだ。今も彼女を好きだったら、今日の騒ぎに協力するなんて、絶対にありえないことくらいは。

 嫌いじゃない、とミヤさんは答えた。好きだとは言わなかった。


「ミヤさんがレミナさんを好きだって言うなら、私はダメなんて言えない。でも、好きとは言い切れないのにヨリを戻すのは、絶対に違うと思う」

「俺だって、何もアイツを弄ぼうというわけじゃない。一度は本気で好きだったんだ……元に戻るための努力は惜しまない、カメラも捨てる。それでリコちゃんを守れるのなら本望だ」


 カメラを捨てるなんて、ミヤさんにとっては魂を捨てるようなものだ。彼なりに真剣に考えたであろうことは、強く伝わってくる。

 だからこそ、私の心は全力で「止めなければ」と叫んでいる。

 私はレミナさんが嫌いだけれど、そんな形で傷付けたいとは思わない。もしも彼女が本当に、今でもずっとミヤさんを好きだったとしたら、これ以上に残酷な話があるだろうか?

 ミヤさんが憧れる「ヒーロー」は、絶対にそんなこと、しない。後悔するとわかってて、これを認めるわけにはいかない!


「そんなのダメ! 絶対に間違ってる!」

「いいや、間違ってなどいない! 俺はこうするべきなんだ!」


 声量を落とすことも忘れて、私たちは叫ぶように、互いの感情をぶつけ合った。


「何があろうと全力で、リコちゃんを守り抜く。メイがサークルを作りたいと相談してきた時、俺たちはそう誓ったんだ……だが現実は、俺が一緒にいるせいで、リコちゃんは理不尽な目に合わされていたわけだ」

「そんなの、ミヤさん何も悪くない」

「それだけじゃない。クキタが写真を持ち出した時、本当なら俺たちの手で犯人を捜さなきゃいけなかった。それなのに俺は、クキタの様子がおかしいことにも気付かず、メイを疑う声を受け入れた。サークルが崩壊しかけたのは、俺の責任だ!」

「違うよ、そうじゃないよ!」

「違わない! あの時の俺はな、リコちゃんが人のものになったのが悔しくて、何もかもを放り出したんだ!」


 私がどれだけ否定を重ねても、ミヤさんの心へ届く様子はない。いつも大らかに笑ってくれるミヤさんが、こんなにも声を荒らげるなんて……向こうも私に同じことを思っているのか、気まずそうに視線を逸らされてしまう。

 それでもミヤさんは、言葉を止めなかった。


「俺はどう償えばいい? どうやってリコちゃんを守ればいい? その答えは、一つしかないんだ!」


 彼の声が、悲痛なものへと変わっていく。そのうちに膝をついて崩れ落ち、肩を震わせて泣き始めた。


「レミナが変わってしまったのも、リコちゃんが苦しんできたのも、何もかも俺のせいだったのなら……俺は、責任を取るべきなんだ。俺にしかできないことを、するべきなんだ……!」


 吐き出すように呟くミヤさんは苦しそうで、見ている私まで悲しくなってしまう。大好きなミヤさんが零す涙を、今すぐ止めてあげたかった。


「それでも、さよならなんて認めないよ……私が、ミヤさんと一緒にいたいんだから!」


 私は勢いに任せて、ミヤさんに抱き付いた。半ば押し倒すように、尻餅をつかせてしまう。う、と短く呻いて硬直するミヤさんのシャツにメイクがつくのも構わず、顔をぐりぐりと胸に埋めてやった。

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