第八十四話 いま、信じる道へ(三)
通されたリビングはすごく広くて、デザインはシンプルだけど高級そうな家具ばかりが置かれていた。絶対に開閉できないであろう壁のようなガラス窓の向こう側には、夜空と遠くの山しか見えない。リビングと続きになっているダイニングキッチンも立派で、すっかり落ち着かなくなった私を見て、俺も六年住んでるけど慣れません、とシグマさんが笑った。
リビングのソファーを勧められて座ると、シグマさんは私の隣に座り、コートやキャスケット帽を反対側に積んだ。そしてトレードマークの真っ赤な髪を手櫛で軽く整えながら、ちょっと厳しいことを言うけど、と前置きをする。
「彼氏さんは、環境を変えた方がいいね。東京へ行くって決めたこと、俺はいい決断だと思う」
そんな、と言いかけて飲み込んだ。
シグマさんは真顔で、普段の人懐っこい雰囲気は微塵も見えなかった。
「離れたくないのは、すごくよくわかるよ。でもキミたちは、今は離れた方がいいと思う」
やっぱりそうなのかという諦めと、何も知らないくせにという反発が入り混じって、私は「どうして」としか言えなかった。
シグマさんは親切で相談に乗ってくれているだけなのに、私の心は子供みたいに拗ねている。恥ずかしさもあり視線を逸らすと、大きな手が私の頬に一瞬だけ触れた。何だか「こちらを見なさい」と言われたような気がして、恐る恐る視線を戻すと、シグマさんはいつもの表情に戻っていた。
「このままじゃ共倒れって言うのかな、二人ともダメになるよ。恋に溺れすぎないで、それ以外のことも大事にしないとね! ところで、煙草吸ってもいいかな?」
「あっ、はい」
わざわざ私の許可を得て、シグマさんはローテーブルの上にあった灰皿を手繰り寄せ、ジャケットの内ポケットから煙草を取り出して火を点けた。ハヤトくんと同じマルボロだ。だけどシグマさんはスパイシー系の香水を使っているみたいで、彼からハヤトくんと同じ匂いが漂っているわけではない。そのことを、良かったと思う。いま同じ匂いを嗅いだら、また泣いてしまいそうだ。
「実は俺にもね、一緒に生きていくって決めた人がいたのよ」
「前の奥様ですか?」
「そう、ムスメのカーチャン」
チガヤちゃんには内緒ね、とシグマさんが微笑む。身内に言いたくない話って、多分この話のことだ。
「実家が近所でね、子供の頃からずっと一緒だった。だけど嫁さんは六年前、書き置き一枚残してどっかに行っちゃったの。いわゆる蒸発ってやつだね」
どうしてそんな話を私にしてくれるのか、不思議だった。その疑問が顔に出ていたのか、別に世間話ってわけじゃないよ、と付け足された。
「本題に入るための前置きみたいな話でね。ま、オッサンの昔語りだけど」
「私が人に話すとは、思わないんですか?」
「うん、キミがいい子だって方に賭けてみた」
シグマさんは、軽いノリで私にウインクをした。どんな根拠があるのか知らないけれど、何故か信用してくれているらしい……本当に、不思議な人だ。
このまま話の腰を折り続けても意味がないので、続きを待った。
「でね、嫁さんはすっげー勉強できる子でさ、関東の大学に合格したのね。目指してた夢への第一歩だよ。そして俺は俺で、
「付き合ってなかったんですか?!」
なかったんですよぉ、とシグマさんは大袈裟に仰け反った。いきなりプロポーズ……幼馴染だからできたのだろうし、好き合ってたから届いたのだろう。純愛、素敵、と思ったけれど、結局シグマさんと奥様は別れたのだ。恋ってそんなに儚いのだろうか。
「デビューしたら籍を入れようって約束して、結婚したのが二十歳の時。ジルとのコンビは最高に順調で絶好調、それを社長とアリフミが支えてくれて、家に帰れば嫁さんと娘が待っててくれる。そんなきらめく日々が、永遠に続くと思ってたよ」
シグマさんは煙草を吸い、その煙をリングにして飛ばし、少し寂しそうな顔をした。
「でもね、きらめいてたのは俺だけだった。いつの間にか嫁さんは、ひとりぼっちで娘を育ててた。俺は夢を追うのが楽しすぎて、自分のことしか見えてなくて、嫁さんがいなくなるまで全然気付いてなかったんだ」
そしてシグマさんは黙り込んだ。色々と思い出しているのか、ただ窓の外を眺めている。何を言えばいいのかわからず、私も同じように夜の空を眺めた。
シグマさんは本気で夢を追いかけて、だからこそ今の実績がある。それと引き換えに、大切な人を失ってしまった。
もしもハヤトくんが、本気で夢を追いかけるとしたら?
シグマさんみたいに、私のことを考える暇などなくなるだろうか。それとも私のことばかり気にして、本気になんてなれなくなって、掴めるものも掴めなくなってしまうだろうか。そのどちらも、怖いことだ。
もしハヤトくんが、私のことを想ってくれなくなっても、絶対あの人を嫌いになんてならない。今の私は、そう断言できるけれど……シグマさんと結婚する時の奥様だって、そう信じていたのに違いない、とも思う。
私の想いも、ハヤトくんの誓いも、いつか嘘になる日が来るのだろうか。
シグマさんは灰皿で煙草を揉み消しながら、後悔してるんだ、と言った。
「結局、俺は嫁さんの夢や未来を奪っただけだった。できればキミや彼氏さんには、同じ後悔をして欲しくないと思うよ。目の前で若者に同じ過ちを繰り返されるとね、オッサンさすがにキツいのよ☆」
そう言っておどけたのは、空気を柔らかくしたかったのだと思う。だけど私は何も返事をすることができなかった。
大丈夫だよ、と囁くような声が届く。
「キミは彼氏さんの未来をきちんと考えられる、偉い子だ……だから大丈夫、キミは間違えない」
その声が優しくて、また泣けてくる。私は偉い子なんかじゃない、エミリさんのお願いだって聞けなかったのに。離れたくないと駄々をこねたい、彼を引き止めてしまいたいのに。
「私、偉くなんかないです……どうすればいいのか、全然わからないのに」
「そりゃ人生かかってるんだから、たくさん迷って当たり前だよ」
シグマさんは、私が零した涙をシャツの袖で拭き、少し考える仕草を見せた。
「まずは、自分が一番望むものは何なのか、きちんと見定めること!」
シグマさんは笑顔で人差し指を立て、考えてごらん、と私に促した。
私が一番望むもの――そんなの、決まっている。
ハヤトくんが絵を描くことだ。描き続けてくれることだ。
わかっているのに、離れたくない。私は自分の世界から、彼の存在を失いたくない。本気で夢を追いかけて欲しいけど、私を忘れないでいて欲しい。
何よりも恐れているのは、心の距離が離れてしまうことなのだ。
素直にそれを告げると、シグマさんはそうだよねと頷いた。
「きっと、リコちゃんに必要なのは、寂しさを乗り越える力だけだと思う。だから俺は、一つ提案をしたいと思いまーす☆」
「提案……?」
お誘いなんだけどね、とシグマさんは微笑んだ。
「自分で言うのも何だけどさ。この街に住んでて俺を見ない日って、ほとんどないでしょ?」
私は頷いた。外見が整っている上に愛嬌もあるシグマさんは、地元企業が広告に使いたがるし、ローカル番組のレギュラーも複数持っている。テレビをつければ頻繁に現れるし、無料冊子やタウン誌にもよくいるし、駅や繁華街の看板でも見かける、いわば「福海の顔」なのだ。
「俺はね、嫁さんがいつ戻ってきても、迷わず俺を見つけてくれるように、必死になって仕事してるの。俺は変わらずここにいるって、輝き続けるって決めてるんだ。だからさ、リコちゃん」
言葉が切れた。私を見つめるシグマさんは真剣そのもので、気迫のようなものさえ感じてしまう。気圧されるように、私は息を飲んだ。
「俺の、相棒になってくれない?」
その意味を、捉えかねた。私が誘われていたのはモデルだったはずで、シグマさんの相棒になるのなら、それは芸人さんということではないのか。私にお笑い芸人なんて、向いているとは思えない。
「あの、相棒って、どういう意味ですか」
「タレントになって、俺と一緒にラジオやテレビに出ようってお誘い。アリフミには悪いけど、キミは喋ってる方が魅力的だと思う。あ、コントやれって意味じゃないから、そっちの心配はしなくていいよ?」
そう話すシグマさんは笑っていたけれど、その視線は全く穏やかではなかった。こんな時ではあるんだけれど、目が離せなくなるほどに綺麗だった。
「本気で考えて欲しいな。俺にできる支援は何だってするし、最初は養成所で勉強することになるだろうけど、その費用も俺が出したっていい……って言うと、下心があると思われちゃうのかな。えっと、枕営業とか愛人になれとか、そういうことは絶対にないから」
興奮気味に語っていたけれど、最後は気まずい感じになってしまった。わかってます、と私は答えた。ドラマなんかでよくある「うまいこと言いくるめて手を出そう」みたいな、下品な空気は全く感じられなかった。
「どうして、私を誘うんですか?」
そんなの決まってるだろ、とシグマさんは口角を上げた。
「一言で言えば、キミに惚れちゃったのよ。自覚なさそうだけど、キミには俺でも羨ましくなるほどの華がある。別に情だけで誘ってるわけじゃなくて、俺はキミという華を、自分の仕事に使いたい。一人前に育ててあげるから、俺の仕事を手伝って欲しい」
自分にそんなものがあるなんて話を、即座には受け入れられなかった。だけどお世辞を並べ立ててまで、シグマさんが私を口説き落とす必要なんかない。その気になれば夜のお相手には事欠かないような人だから、まさか下心ということもないだろうし……お仕事の話だって、福海で活動している芸能人なら誰だって「宮路シグマの隣」という場所を欲しがっている。
気持ちは大きく傾いていた。
目の前にいるモンスターが、私の魅力を認めている。自分のことを「衣装を着ないと何もできない女」だと思っていた私に向かって、羨ましくなるとまで言ったのだ。
本当に私が「華」なんてものを持っているのなら、シグマさんみたいに輝くことができるのかもしれない……そうすればきっと、ハヤトくんは私を忘れない。この街へ立ち寄る度に、私の笑顔を見つけてくれる。なんて魅力的な未来だろう。
世界を飛び回る
「私も……あなたみたいに、なれるでしょうか」
「なれるさ」
シグマさんはあっさりと答えた。そんなの当たり前だろ、とでも言いたげな顔をしていた。
「寂しがる暇なんて、あげないからね。俺たちは戦友になるんだ、生きるも死ぬも一蓮托生! どんな手を使ってでも、生き延びるよ?」
シグマさんが屈託なく笑い、ゆっくりと右手が差し出された。
よろしくおねがいします、という言葉を添えて、私はその手を握り返した。
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