第八十三話 いま、信じる道へ(二)
私も頑張らなきゃ、とチガヤちゃんが笑う。
「負けてられないわ。私、ニシくんのライバルなんだもの。ニシくんは焦らないと動かないから、誰かがお尻を叩いてあげないといけないの」
確かに、ニッシーにはそういうところがある。わかると相槌を打った私に、チガヤちゃんはますます笑った。
「これはね、メグにはできない、私だけに出来ることなの。たったひとつ、メグの邪魔にならない、私だけの居場所なのよ」
そう言ってチガヤちゃんは、もう一度カップへ口付けた。その表情はとても幸せそうで、本当に好きなんだなぁと思う。
奪い取ろうという訳でもない、もう叶わないとわかっている恋なのに、こんなにも真剣に向き合えるんだ。
「リコの方は、あれからどう? ハヤトと仲良くできてるの?」
急に話を振られて、私は口篭ってしまった。仲良くしてるよって、ただ頷けばいいだけなのに、そうすることができなかった。
私たちは、もうすぐ離れ離れになってしまう。仲違いをしたわけじゃないけど、伝えられない想いを抱えたままだ。今までの私たちとは、何かが違う。
「どうしたの? やっぱり、間違えたことが許せない?」
チガヤちゃんが、私の目尻を指でそっと拭った。自分の目から涙が零れてることに、私は全然気付いていなかった。
「ううん、私は気にしてない。だけど、もうダメかもしれない」
言ってもいいだろうか。ハヤトくんが、東京に行っちゃうって。ニッシーたちには言ったんだし、もう、言ってもいいよね?
「ダメって、ケンカしたの?」
「してないけど……あのね、東京、行っちゃうの。大学には戻らないって言うの、ヒマちゃんが来られなくなるからって」
「そう。すごくハヤトらしいわね」
何から言えばいいのか、どう言えば誰のことも責めずに済むのか、わからないままに言葉を放った。チガヤちゃんは、優しい声で返事をくれる。
「でもそれじゃ、リコが寂しいでしょう? もう止められないの?」
「止めたいけど……ハヤトくん、描けないの。アパートも大学も、ヒマちゃんを思い出すとダメなの。吐いちゃうの、スケッチすらできない」
そんな、とチガヤちゃんが小さく呟いた。それが何を意味するのか、ちゃんと伝わったんだと思う。
私は必死で声を押さえながら、自分の中にあるものを吐き出し続けた。声が大きくならないように、お店に迷惑をかけないように。
「だから、わたし、止められない。だって、描けなかったらダメでしょう? ハヤトくんは、描いていないとダメでしょう?」
「そうね。ハヤトは、絶対に描かなきゃいけない人ね」
どうしても声が震えてしまって、嗚咽にならないように喉を絞った。掠れた声が出る。
本当は、大声で泣き喚きたかった。
私たちを助けてと、世界に向かって叫びたかった。
涙で視界が歪み、私はハンカチで顔を覆う。今の私に、おまじないが効くとは思えなかった。
「描かなきゃダメなの。描くこと、大事にして欲しいの。なのに、私がずうっと足を引っ張ってて……!」
悲鳴になりかけた言葉を飲み込むと、昨日貰った香水の甘い香りが、私の世界を埋め尽くしていった。
ヘリオトロープの芳香は、恋が叶うと言われている。だから、ずっと身に纏っていた。ハヤトくんとの恋がいつまでも続きますようにと、願いを込めて。
そんなささやかな魔法は、効かなかった。全てが元に戻るなんて、そんな奇跡は起こらなかった。
これからどんな魔法を探せば、二人で幸せになれるんだろう?
「私、どうしたらいいんだろう……大学辞めて、一緒について行ったらいいの?」
「リコまで早まらないでよ。そんな理由で中退なんて、とても親には言えないでしょう? ハヤトがご両親に嫌われるわよ」
「そうだけど……!」
頭の中はぐちゃぐちゃで、結論らしいものは一つも出せず、思考は延々とループしている。
これからも「聞き分けの良い子」でいたいなら、笑顔で送り出せばいい。また一緒に過ごせる日がくると信じて、彼の生活が落ち着くのを待っていればいい。
そうすれば、みんな偉いねって言ってくれる。心の底から好きなんだねって、周りは納得してくれる。その方がハヤトくんだって、安心して東京へ行けるだろう。
できないわけはない、そのはずだった。ハヤトくんが退学を決めた時、私は彼を送り出した。泣き言もワガママも言ったけど、最後はちゃんと、彼の誓いを信じたんだ。
それなのに今の私は、引き止める魔法の呪文を探している。あの頃よりも絆を深めてきたはずなのに、真っ直ぐに泣き言をぶつけることすらできないでいる。
気が付けば私は、ひどく臆病になっていた。
彼が東京へ行ってしまって、アンジョウさんのお弟子さんになったら、一緒に世界中を飛び回るようになる。それが「仕事」になる以上、私なんかに構っている場合じゃない。
そうするうちに彼の心が、夢を追うことだけに染まってしまったら、もう私のことなんて忘れてしまうのではないか――そんな不安が、消えてくれない。
ハヤトくんの想いを疑っているわけじゃない。私を深く愛してくれている、そのことは強く信じている。
だけど私が信じていた日常は、いとも簡単に壊れてしまった。
彼が大学に戻って来て、あのアパートで私を描き続けてくれるはずだった未来は、あっさりと消えてしまったのだ。
二人で一緒に願った未来すら消え失せたのに、永遠に揺るがない誓いなんて、本当に存在するのだろうか?
「ねぇ、リコはハヤトと離れたら、もう好きじゃなくなっちゃう?」
「そんなこと、絶対にないよ」
チガヤちゃんに問われて、即座に返す。
ずっと好きだ、死ぬまで好きだ。たとえハヤトくんの心の中に、私がいなくなってしまったとしても。私の心の奥底に、あの人は棲み着いたのだから。
「寂しくなって、他にイイ人探しちゃったりもしない?」
「しない……他の人じゃ、意味ない」
「そうよね。ハヤトも同じだと思うわ」
チガヤちゃんは何度も頷いた。私の返事なんて、聞く前からわかっていたのに決まっている。
「二人が同じ想いなら、離れても大丈夫なんじゃない?」
チガヤちゃんの言葉は、正しいと思う。それでも私は、不安を打ち消すことができずにいた。
夢より私を選んで、と思ってる自分がいる。
私なんか捨てて夢を追って、と思ってる自分もいる。
願いと正しさが分かれてしまって、どちらも選べなくなっていた。
約束の時間よりも遅れてシグマさんが来た時、私はテーブルに突っ伏して、チガヤちゃんに頭を撫でられていた。クルシマさんの「修羅場っすか?」という囁くような声が聞こえて、違います、とチガヤちゃんが冷たくあしらっていた。
顔をあげるとシグマさんはキャスケット帽を深く被っていて、その表情は見えなかった。彼は伝票を手に取り「俺にツケといて」とクルシマさんへ渡し、いきなり私の手を握った。
「移動しよ。俺でよけりゃ話聞くから、おいで」
シグマさんに手を引かれ、ふらふらとカフェを出た。その手は温かくて、何だかお父さんみたいだ。チガヤちゃんは何も言わずに、ただ黙ってついて来る。
ビルの地下にある駐車場に停められていた、かなり高そうな車の助手席へと案内された。宮路シグマでも国産車なんだ、やっぱり自分で運転するんだ、なんて本当にどうでもいいことを思う。チガヤちゃんが後部座席に乗り、車は郊外へ向かって走り出した。
空は既に薄暗くなっていて、時計を見ると十九時を回っていた。シグマさんお腹空いてないかな、お仕事のあとに急いで来てくれたんだろうしな……そんなことばかり、気にかかる。
「あの、大丈夫ですから、お食事行きましょう」
「そんな真っ赤なお目目で無理しないの、先に俺んち寄るよ。別に取って食ったりしないからね」
シグマさんは、自分の家へ車を走らせているらしい。福海限定スーパースター、宮路シグマの自宅へご招待……と、とんでもないことになってしまった。一気に緊張した私を見て、シグマさんは口角を上げた。
「マンション最上階のご立派な部屋だけど、事務所に借りてるだけだから、俺の趣味じゃありませんのであしからずー」
「あのタワマン、なんであんな田舎に建てたのかしらね」
「二十階建てをタワマンって言い張るのも大概だけどな」
「あ、もしかして久しぶりに会えるかしら?」
「残念、うちの姫は友達のとこでお泊り会」
チガヤちゃんとシグマさんが、何気ない会話をしている。ああ高校の最寄駅のそばに建ってるマンションだなぁなんて、ぼんやり二人の話を聞いていると、シグマさんが「そろそろいいかな」と呟いた。
「リコちゃん、全部話してみない? キミみたいな人目を気にする子が、あんな場所で泣くって、よっぽどでしょ?」
全てを見透かされてるみたいで、この人はこういうところが凄いのかも……なんて思いながら、私は少しずつ話をした。
時折チガヤちゃんに補足して貰いながら、ようやく一通りの事情を話し終えたところで、車はマンションの駐車場に入った。車から降りようとすると、シグマさんがちょっと待って、と私たちを止めた。
「チガヤちゃんには悪いんだけどさ、俺、少しリコちゃんと二人だけで話がしたいな。嫌がるようなことはしないから、ダメかな」
「リコがいいなら、私は構わないけど……理由は?」
疑いの視線とかではなく、ただ不思議そうにチガヤちゃんが尋ねる。シグマさんは「俺が身内に聞かれたくない話をしたくてね」と笑った。視線を向けられた私が頷くと、車のドアのロックが外れた。
「じゃあ、私は駅前で時間潰してる。終わったら連絡してね」
チガヤちゃんは一人で出口に向かい、私はシグマさんの案内でエントランスホールへ入った。ホテルみたいなフロントの前を通り、上階専用のエレベーターで最上階まで上がると、玄関ドアは一つしかなかった。ワンフロア専有のお家だ。
「くどいけど、この部屋は趣味じゃないからね。娘を一人にすることが多いから、セキュリティで選んだだけ」
よっぽど誤解されたくないのか、シグマさんが繰り返した。
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