第八十二話 いま、信じる道へ(一)
翌日は暖かくて、春の匂いがする日だった。
朝、フミタカさんからハヤトくんに連絡があった。アンジョウさんが帰国してくるから、月末に東京へ来るように、という話だった。
二つ返事で了承したハヤトくんは、そのまま向こうで暮らすと言った。彼の中では、それは「元に戻せない」ものなのだ。
引き止めることはできなかった。
私たちが一緒にいられる時間は、あと半月だ。
シグマさんとの約束は夕方からだったので、私はハヤトくんと一緒に、アトリエの荷物を片付けていた。
物音で様子を見に来たスガ先輩が手伝うと言ってくれて、急遽ニッシーも呼びつけられた。一番頼りになるはずのカメヤンは、残念ながらバイトだった。
部屋中に山と積まれている作品や書籍を、手分けして片っ端から梱包してゆく。私はキャンバスの扱いに慣れていないので、書籍をダンボール箱へ詰め続けた。
ハヤトくんは作業中、何度もお手洗いへ駆け込んでいた。それでも随分と頻度は減った。せめてあと一ヶ月、落ち着くための時間があれば――いくらそう思っても、時間を止めることなどできない。
梱包の済んだ荷物を部屋の片隅にまとめたところで、少し遅めのお昼ご飯になった。お弁当でも買いに行こうかと思ったのだけど、スガ先輩がデリバリーピザを頼んでくれた。
「まさかイシバシが、俺より先に出て行くなんてなぁ」
「ホントだよ、また一緒にやれると思ったのにさ」
スガ先輩が寂しそうに呟き、ニッシーは膨れてしまった。この状況を一番悔しがっているのは、誰より復学を願っていたニッシーなのかもしれない。
ハヤトくんは四人分のコーヒーを淹れながら、すまんな、と言った。
「ニシ、頼みがあるんだ。ヒマ助が孤立しないよう、グループワークの時は声かけてやってくれ」
「わかってる、ヒマワリのことは俺らに任せとけ」
心配するな、とニッシーが胸を張った。
「むしろ心配なのはお前だよ、課題作品に触るだけでゲーゲー吐きやがって」
「悪いな、ニシと違って俺は繊細なんだよ」
「は? 繊細って誰が? 美術科きっての毒舌男が何だって?」
「うるせーぞ、社交的とは言ってないだろーがっ」
今日も二人は、ニヤニヤと笑いながら悪態を吐き合う。こんな掛け合いも見られなくなるのかと思うと、とても寂しくて、切なかった。
「なぁハヤト、この部屋を引き払うのっていつだ?」
ニッシーの問いに、ハヤトくんが困った顔で「それなんだよなぁ」と返す。
「東京に行くとは決めたが、ここを引き払うのは、まだ迷っててな」
きちんと整理できてないんだ、と彼は続けた。そんな迷いをさらけ出す言葉に、まだ立ち止まれるのかなと、私は期待をしてしまう。
同じように思ったのか、ニッシーが「迷うんだったら早まるなよな」と言った。
「だいたいさ、今回のこと、親は納得してんの?」
「母さんは、金銭面は何も言わない。大学絡みの金はイシバシ側から出てるしな。リコがいるのにどうしてだとは聞かれたが……事情、言えないだろ?」
「まぁね……じゃあ、親父さんは?」
「あの人は何も言わない。兄さんも、俺が納得できるようにしろって、それだけ」
ほえー、とニッシーが声をあげた。
今回のことを、ホマレさんやフミタカさんは、いったいどう思っているのだろう。エミリさんは喜んでるかな、私が説得したと思われてるかもしれない。真実が伝わらずに済むのなら、別にそれでもよかった。
「じゃあハヤトの後、俺がここ借りようかなぁ」
ふと漏らしたニッシーの呟きに、ハヤトくんが怪訝な顔をした。
「ニシが? あんな目と鼻の先に実家があるのにか?」
「あー、うちの両親、やっと離婚決めたんだよ。家は売る、俺は一人暮らし」
その内容はとても深刻に聞こえるのに、ニッシーは笑っていた。この人は、大抵のことは笑って話す。
大学はどうするんだと、スガ先輩が軽く聞いた。
「大学卒業までは、父親から仕送り貰えることになってます。早目に住むとこ決めろって言われてて、ここなら家賃安いし、勝手知ったる美術科の巣だし……」
「ニッシー、ユズカちゃんはどうなるの?」
二人の会話に口を挟むようで気が引けたけど、私はニッシーよりもユズカちゃんの方が心配だった。ニッシーはもう大人だし、ある程度は自分で道を決めていける。だけどユズカちゃんは中学生だ、自分の好きに生きられるわけではない。
「ユズカは、俺と暮らしたいって。俺たちはさ、中学受験で志望校に落ちて以来、両親から失敗作扱いされてるからね」
もどかしいよ、とニッシーは大きな溜息を吐いた。
「父親も母親も、あんな状態のユズカを放ったらかして、自分たちのことばっかりでさ……あいつらに、ユズカを任せたくない。早く住むとこ決めて、俺と一緒に暮らそうって言ってやりたいんだ」
「わかるが、ここだけはやめとけ。こんなクソボロアパート、女子中学生が暮らせるような部屋じゃないぞ?」
スガ先輩のツッコミは、もっともだった。生活音は隣室に丸聞こえだし、住人は全員が男子大学生だし、一つしかない部屋でニッシーと一緒に寝起きすることになるわけで……それが一時的なことならともかく、長く続けられる生活スタイルだとも思えない。
「ニシ、俺は絶対勧めない」
「兄妹での二人暮らしは、ここじゃ無理だろうな」
「もっと別のお部屋を探した方がいいよ」
私たち三人から口々に反対されて、ニッシーはメガネを外して顔を覆い、金が足りないんだよぉ、と呻きながらテーブルへと突っ伏した。
「ユズカが通ってるの、私立なんだけどさ。父親がさ、どうせ三流私立なら公立でもいいだろ、って言うわけ。アイツ金をケチりたいんだよ」
テーブルに突っ伏したまま、辞めさせたくないんだ、とニッシーが呻く。
「やっと学校行き始めたのに、友達ができたみたいなのに、転校なんてさせたくないんだ……だからって俺がバイト三昧だと、結局ユズカは一人になっちゃうだろ? あー、何でうちの親ってあんななんだよ! マジで金くれ金ー!」
身も蓋もない絶叫に、スガ先輩が呆れたように笑った。
「ニシ、今まで金の心配なんかしたことなかったんだろ?」
「それは……まぁ、はい」
「恵まれてたのは自覚しとけよ? 親に噛み付くなら、せめて自分でちょっとくらい稼いでからにしとけ?」
スガ先輩は淡々と、カメヤを見てみろバイト漬けだろ、俺だって奨学金だぞ、と苦言を呈していく。ニッシーは顔を上げなくなったし、ハヤトくんも気まずそうだった。もしもここにメイくんがいたら、耳を塞いで逃げ出したかもしれない……私も、ちょっと耳が痛い。
「それでな、お前向けの仕事があるけど聞きたいか? ブラック企業も真っ青のアットホームな職場だ」
「なんすか俺向けって……夜職ならしませんよ、俺サービス業はちょっと」
「アホ、それ向いてるの顔だけじゃねーか。妹が入り浸っても叱られない職場だよ」
先輩はスマホを取り出して、何かのサイトを表示した。トップページに「福海大学漫画研究部」と大きく書かれている。
「一度しか部会に顔を出さなかった幽霊部員は初めて見るだろうが、漫研部員用のSNSだ」
「いや、さすがに登録してますけど」
「だったらチェックしとけよ……妹のことばかりじゃなくて、自分のこともやらなきゃダメだぞ」
先輩が指差したのは掲示板で、今日の早朝の投稿だった。学籍番号は美術科の四年生のもので、タイトルは「アシ募集(一名)」、投稿者は「ミクモ」と書かれている。一〇三号室のミクモ先輩だ。
「週刊連載が本決まりだと。現役から拾いたいってよ、実質的には育成枠だな」
ニッシーは無音声のまま「まじっすか」の形に唇を動かした。
「でも俺、活動実績ゼロですよ? これ部員向けじゃ――」
「それを決めるのは俺じゃない、ミクモさんだ! いいから今すぐ行って来い!」
スガ先輩に背を叩かれたニッシーは、放り出していたメガネを掛け直して、勢いよく立ち上がった。
「ハヤトごめんっ、ちょっと行って来る!」
大慌てで転がるように部屋を飛び出したニッシーが、アパート中に響き渡る声で「あざーす!」と叫んだのは、それから五分も経たないうちのことだった。
夕方、私は予定より一本遅い電車で福海駅へ出た。ニッシーがミクモ先輩を連れて来て、そのまま連載決定のお祝いになってしまい、なかなか抜けられなかったのだ。
チガヤちゃんが待ち合わせ場所に指定したのは、オフィス・グローイングの一階にあるカフェだった。表通りの入口から入ると、ホールにいたクルシマさんが奥のボックス席へ通してくれた。
既に来ていたチガヤちゃんは、スマホをテーブルの上に伏せ、シグマさんもここに来るわよと言った。クルシマさんにカフェオレを注文すると、チガヤちゃんもコーヒーのおかわりを頼んだ。
「遅刻なんて珍しいわね。何かあったの?」
「ううん、ミクモ先輩。ニッシーが部屋に連れて来ちゃって」
「あぁ。ミクモさんの話、長いものねぇ。なんでそんなことになったの?」
「えーとね、ニッシーが、ミクモ先輩のアシスタントをすることになって……」
それだけ聞いたところで、チガヤちゃんはクスクスと笑い出した。
「いいなぁニッシー、私はメッセでサクッと断られちゃったのに」
「断られたの!?」
ニッシーがあまりにもあっさりと決めてきたから、てっきり画力があるなら誰でもいいのだと思っていた。チガヤちゃんはそうよ、と言いながらも嬉しそうに笑った。
「男子限定にはなってたんだけど、画風の問題かと思ってたの。でもね、泊り作業があるからだって。女の子扱いされたのはむず痒いけどね、ずっと私のことフクミジェンヌの男役とか言ってたのに」
「あはっ、フクミジェンヌ!」
「センスありすぎよねぇ、ふふっ」
二人で笑っていると、いつの間にか隣でクルシマさんも一緒に笑っていた。カフェオレとコーヒーを置いて、どこかの歌劇団のように歌いながら戻っていく。愉快な人だ。
手にしたカップを、チガヤちゃんは大切なもののように、両手で包んだ。
「ニシくん……もう諦めたのかと思ってたから、嬉しいわ。あのね、ニシくんの描く世界って、とても魅力的なの……温かくて優しくて、夢と希望に満ちているのよ」
チガヤちゃんはゆっくりと目を閉じて、手にしていたカップにそっと唇をつけた。
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