第七十六話 抱え続けた想いの果ては
駅前から歩いて十五分はかかる距離を五分ほどでやってきたハヤトくんは、部室のリビングへ入ってくるなり、真っ青な顔でへたり込んでしまった。
「まだ酔いが抜けてないんだろ、本当にバカだな。バカすぎて、からかう気も起こらないよ」
私の隣へハヤトくんを座らせたメイくんは、水を汲んだコップを手渡しながら悪態を吐いた。
「すまん……酒で具合悪くなるなんざ、これが初めてでな……」
「それはそれは、さすが酒豪の家系は違うね。で、酔った勢いで何してたわけ?」
斜め前に座ったメイくんから足を蹴られて、違うんだ、とハヤトくんは言った。
「俺は……相手が、リコだと思ってたんだ」
すまない、とハヤトくんが私に頭を下げた。
そんなバカな話があるかと、そう怒鳴りたい気持ちもあった。だけどさっきのヒマちゃんは、私そっくりの格好をしていたのだ。あの暗い部屋なら、声さえ出さなければ、本当に気が付かないかもしれない。
何よりも、この嘘を吐けない人が、そんな作り話をするとは思わない。
「部屋で寝てたら、ヒマ助が入ってきた。でも俺は、リコだと思ってた……リコと同じ、甘い匂いがして」
「あっ、それ……」
香水だ、と思った。私は今日、使っている香水をヒマちゃんに教えたのだ。扱っているお店も教えたし、その時には勝負服を買いに行くのだという話もしていた。
真っ暗な部屋の中、同じ香り、同じシルエット――私だと勘違いするには、十分だ。つまりヒマちゃんは、私の真似をしていた。でも、何の為にそんなことを?
まさか、計画的にハヤトくんへ迫ったとも思えない。彼が酔い潰れたのは完全に不可抗力だし、そもそもテルくんが脚立から落ちなければ、予定通りにメイくんとデートをしていたはずなのだ。
「どうして、私の真似なんか」
「僕のせいだ」
そう呟いたメイくんは、自分の膝を両手で殴った。
「どうすれば好きになってくれるのって、何度も聞かれた。でも僕は、そのままでいいって、いつもそれしか言わなかったんだ……自分の気持ちに、自信がなかった。大好きだって、言ってあげられなかったんだ」
「つまり、リコの真似をすれば、メイに好かれると思ったのか?」
ハヤトくんが、マジか、と呟きながら顔を覆った。私も言葉にならない何かを叫びそうだった。
だって、私は知っていたのだ。あの子が私を羨ましがっていたことを。「なれるものならリコになりたい」と言い、私の胸で泣いたのだ。それを告げると、二人は頭を抱えてしまった。
「まさか、こんなことになるなんて」
三人同時に、ほぼ同じ言葉を発した。
私はもう、誰を責める気にもなれなかった。もちろん悲しいし、辛い。さっきの光景を思い出すと、こみ上げてくる感情はちゃんとあるのだ。だけど私は、ヒマちゃんを責めることができない……ハヤトくんのことは、もっと責められない。
ハヤトくんはセックスという行為を、簡単にしてはいけないことだと思っている。本気の恋だけに許される、心を繋ぐための特別な儀式だ。大きな傷を二人で乗り越えて、ようやく幸せを掴めたところだったのだ。ヒマちゃんだって、それを知っていたはずだったのに。
私ではない人としてしまったという事実は、きっと深く彼を傷付けている。どんな言葉をかけてあげられるだろうかと迷い、そして、どんな言葉も意味を成さない気がした。
「ハヤトくん、私、信じてるよ。私たちは、変わらないよ……」
それしか伝えられないまま、私は彼に腕を伸ばし、胸に抱いた。
「俺は、何度もリコって呼んだんだ。なのにアイツ、止めなかったんだよ……なんでだよ、どうしてだ? 俺たちは、家族じゃなかったのか?」
ハヤトくんが、嘆く。大きな絶望を抱えているように見えて、それを打ち消す術を知らない自分が悔しかった。
「きっと、一瞬だけでも、ハヤトの愛情が欲しかったんだ」
メイくんの言葉に、ハヤトくんは何も返さない。だけどメイくんは、構わずに言葉を続けていった。
「ずっと、誰かに愛されたかった。目の前の人が羨ましかった。だけど自分も、その人を大好きだから……妬ましいなんて、言えなかった」
その声は、次第に涙声になっていった。
「僕も、兄さんに、同じ思いを抱えたことがある……だからこそ、僕があの子を、愛してあげなきゃいけなかったのに……!」
とうとうメイくんは、ヒマワリちゃん、と何度も繰り返しながら、大声をあげて泣いた。
メイくんが顔を洗いに洗面所へ行っている時、リコは平気なのか、とハヤトくんに聞かれた。並んで座っているけれど、寄りかかったりはできずにいた。
「平気っていうと、嘘。でも、怒ってはいないよ」
「何でだよ……怒れよ、そこは。俺は優しいリコが好きだし、なるべく尊重したいとも思う。だが、何でも許せばいいってものじゃないだろ」
溜め込みすぎだ、と手を握られる。そのまま握り拳を作らされて、殴れよと言わんばかりに、彼のお腹へ拳を当てられた。
「俺は、ヒマ助に腹が立ってる……酔ってた俺にも非はあるんだろうが、騙し討ちにあった気分だ。立場が逆だったら、リコはどう思う?」
それはたとえば、酔い潰れている時に、ハヤトくんのふりをしたメイくんが、みたいな――それは、無理だ。いくら私でも、それは許せる自信なんてない。
「俺は寛容になれない。いくらヒマ助でも……いや、ヒマ助だからこそ、許せない。世界中の誰よりも、俺はアイツを信じてたんだよ……」
その声には悔しさが滲んでいて、横顔は寂しそうで、私はそうだねとしか言えなかった。
「なぁ、リコはヒマ助と、友達を続けられるか?」
「私?」
「ああ。アイツは俺のことだけでなく、リコのことも裏切ったよな。それは間違いのない事実だろう? それでもリコは、許せるか?」
一気に捲くし立てられて、面食らう。一緒に怒ってほしいのかもしれない。だけど私はずっと、ヒマちゃんを傷付け続けてきたのだ。その罪悪感は、今だからこそ消えない。
「わからない……」
「どうしてだ?」
「だって、あの子の気持ちを知ってたのに、私は何もしてあげられなかった」
「してやれることなんか、ないだろ……俺たちが別れりゃ満足するって話でも、ない」
覚えのある会話だった。これでは、ハロウィンの時と全く同じじゃないか。あの時のまま、私たちは何も変わっていなかったのだろうか。
楽しくて幸せな日常を重ねて、本気で仲良くなれたと思っていたのは、私一人だけだったのだろうか。
「僕は、間に合うのなら、一からやり直したい」
リビングに入ってきたメイくんが、言った。ハヤトくんは視線を向けて、小さく頷く。
「ああ、そうしてやってくれ。俺はもう、アイツの親友ではいられない」
「ヒマワリちゃんと、縁でも切る気?」
「わからん。俺だって、許せるものなら許したいんだが……今はどうにも、許せそうにない。だからメイ、ヒマ助を頼む。ずっと傍にいてやってくれ」
ハヤトくんは、メイくんへ頭を下げた。それだけを見ると、とてもヒマちゃんへ怒っているようには見えなかった。
「今は許せない、それは当たり前だよ。だけどそうやって心配できるなら、いつか許せる日も来るんじゃないかな」
「そうか……そうだと、いいんだが」
「そうだよ、長い付き合いなんでしょう? オムツ時代からの付き合いなんて、そうそう切れるものじゃないよ」
だといいな、とハヤトくんが呟く。その表情はけわしかったけど、口元だけは緩んでいた。
「よし、あの子の話を聞きに行こう。僕たちの話は、全て憶測でしかないんだからね。何かを決めるのはその後だよ、そうでしょう?」
メイくんは穏やかに笑い、会いに行こう、と言った。
スガ先輩の部屋に行くと、先輩は渋い顔で私たちを出迎えつつ、大丈夫かと声をかけてくれた。正直まったく大丈夫じゃない、それも全員が大丈夫じゃない。俯く私に、先輩は察したようだった。
「絶対帰らせるなとイシバシが言うから、とりあえず部屋に閉じ込めといたぞ」
「すみません。何をするか不安だったもので、一人にできませんでした。迷惑ついでに、ここで話をさせて下さい。俺はアイツを部屋へ入れたくありません」
「……許してやれとまでは言わんが、あまり追い詰め過ぎるなよ?」
先輩はハヤトくんを諭すと、そのまま部屋の襖を開けた。ベッドの上ではヒマちゃんが布団を被って丸くなっている。その隙間から、顔だけが出ていた。
「みんな……ごめんなさい……」
ヒマちゃんがゆっくりと起き上がり、布団をベッドの端へ放り出す。彼女が着ているのは、私が持っているイノワのワンピースに似たデザインのものだった。メイクは綺麗に落とされているけれど、床に置いてあるバッグとか、髪のセットの雰囲気とか、何もかもが私に寄せてあった。ベッドへ近付くと、私と同じ香水の香りがした。
「リコちゃんのコスプレ頑張ったんだね、よく似てる。衣装を着ると、心もそのキャラになっちゃうよね」
メイくんは笑顔で、ヒマちゃんの前に屈み込んだ。
「話、できる?」
「話す必要なんて、ある……?」
「僕は話したいな」
視線を逸らすヒマちゃんに、メイくんは優しく声をかけた。
「ヒマワリちゃんの話、聞きたいな。どうしてこうなっちゃったのか、本当のことが知りたいんだ」
「見たままだよ、私はリコのふりをしたの。ハヤトは酔ってたから引っ掛かっただけで、相手がわかってて浮気したわけじゃないんだよ。だからみんな、遠慮しないで、私のことを嫌いになってよ……」
いつものように頬を膨らませたり、唇を尖らせたりはしない。投げやりに言葉を紡いで、ひたすらに自虐的なことを言った。
「でも今日は、僕とデートの約束してたでしょ。だったらこの格好は、僕の為にしてくれたんだよね? もしそうだったら、僕はその気持ちを嬉しいと思うんだけど、違う?」
「それは……違わない、けど、でも」
ヒマちゃんが、私の方を見た。泣きそうなのか睨んでるのか、大きな目は鋭く細められている。こんなヒマちゃんは見たくなくて、胸の奥が苦しかった。
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