第七十七話 消えない痛みが春を待つ
それだけじゃないの、とヒマちゃんは言った。
「私ね、ずっと、リコになりたかったの……だから今日は、リコみたいに可愛くしようって思った。タケルが、喜んでくれるんじゃないかなって。だから、タケルが言ったことも間違ってないよ……でも」
ヒマちゃんは、今度はハヤトくんを見つめた。その途端に彼は無表情になる。その変化は、感情を隠そうとしているように見えた。
「ハヤトが私をリコって呼んだ時、私、嬉しくなっちゃったの。ああ、こんなに優しいんだって……」
ヒマちゃんの目に、涙が溜まっていく。その言葉は悲しみに満ちていて、私まで涙が出そうだった。もっと早く、もっと何か、この子にしてあげられることはなかったのだろうか。そう考えてしまうことすら、私のエゴでしかないのだろうか。
「ごめんね、ハヤト。言えなかった。違うよって、ヒマだよって、言えなかった……ハヤトのことが、好きだったの。タケルは、それを知ってて私と」
「ヒマ助、もういい。お前の気持ちは、わかってた」
ハヤトくんに言葉を止められて、ヒマちゃんの目からは涙が溢れ出した。メイくんは「泣かないで」と言いながら、その涙を優しく拭う。なのに私は、何一つ言葉を出せないでいる。
「俺は応えてやれない。だから、何も言わなかった。俺はお前と、死ぬまで家族でいたかったんだ」
「わかってる……」
「ずっと辛かっただろう、ごめんな……だがな、ヒマ助」
目を閉じて、ハヤトくんは深く息を吐いた。この先を言わせてはいけないと、私の心が焦りだした。
だけど私に、彼の決意を止める権利なんてないのだ。
「今日のお前を、許せそうにないんだ……俺、悔しいよ。ずっと一緒に生きてきた、唯一無二の親友だったのにな」
泣きながら頷くヒマちゃんの髪を、ハヤトくんがぐしゃぐしゃに掻き乱していく。私の真似を、止めさせるみたいに。
「俺が誰より信頼していたのは、間違いなくヒマ助だったよ。その信頼が壊れた今、俺はもう、ヒマ助の親友にはなれない」
「ハヤト……ごめん、ごめんなさい、私」
「もう謝るな。俺だって、許せるものなら許したかった」
彼は全てを振り切るように、頭を振った。
「俺は実家の荷物を、石橋の家に移そうと思う。俺たちはもう、家族でもない」
それだけを言って、ハヤトくんは部屋を出て行った。やだあ、とヒマちゃんが泣き崩れ、それを必死で宥めるメイくんを横目に、スガ先輩が私に「行け」と言った。
先輩の部屋を出て、ハヤトくんの後を追う。彼の部屋へ入ると、床には私の投げ付けたクッキーの包みが散乱していた。
ハヤトくんは電気も点けないまま、そのクッキーの包みを、一つ拾った。
「割れちまったな、粉々だ」
放り出されていた紙袋へ、砕けたクッキーの包みを、一つずつ丁寧に入れてゆく。隣の部屋からヒマちゃんの泣き声が聞こえてきて、ハヤトくんは顔をしかめた。
「どこか、行くか」
「……どこに?」
「どこでもいい、ここ以外の場所なら」
吐き捨てるようだった。ハヤトくんは着ていたモッズコートを放り捨てて、押入れから少し古そうなピーコートを引っ張り出して羽織り、遠出する時に使うリュックを手に取った。
「バレンタイン、台無しだな」
彼は、テーブルの上に置かれていた紙袋も掴んだ。中身はブラウニー。割れたクッキーの袋と一緒にリュックへ突っ込んで、さっさと玄関で潰れたスニーカーを履いた。
「行こう、リコ」
「うん」
行くあてもなく、部屋を出た。ヒマちゃんの泣き声と、ミクモ先輩たちの笑い声が混ざり合うアパートは、今は私たちの居場所ではなかった。
二月の夜は芯から冷えて、そして月は明るく輝いていた。
「リコさえ良かったら、なんだが……海を、見に行かないか?」
遠慮がちに、彼が言う。この近くで海と言えば、ハヤトくんが私を見つけてくれた砂浜だ。初めてデートをした秋の日に、私を連れて行ってくれた場所。
「いいよ。私も、海が見たいな」
「そうか、それなら良かった」
彼の手が、私の手を包む。その手は温かくて、何も変わらない手のひらだった。
道端の自販機で熱い缶コーヒーを買い、二人で並んで砂浜に座った。この寒い夜にそんなことをしているのは私たちくらいで、誰もいない貸切の海と星空だった。
「さーむぅーいー!」
空元気でも何でも、笑顔を見せたかった。近くに住宅がないのを良いことに、私は大声で叫んで、コートが汚れるのも構わず砂浜へ寝転がった。
「汚れるぞ、風邪ひくぞ、近所迷惑だぞ……あとは、何を言えばいい?」
「愛してるぞって、言って!」
しょうがないな、とハヤトくんが笑う。一緒になって転がって、耳元で「愛してる」と囁かれた。彼の紺色のピーコートは、あっという間に砂まみれになった。
バカな大学生が騒いでる、ただそれだけのことなのに、自分たちが最高の青春を演出しているように思えた。
「ねぇ、私のこと好き? 好きだよね?」
いつもの私ならウザがられるのが怖くて言えないことも、今なら全部言えちゃう気がする。ハヤトくんは一瞬だけ顔をしかめたけれど、すぐに笑って「ああ」と言った。
「好きだぞ、世界の誰よりもな。イシバシハヤトは、オノミチリコが大好きだ」
「じゃあ、これからもずっとそばにいて!」
「そうだな。何があろうと、心はずっと一緒にいるぞ」
「えー、そこはもちろんって返すとこじゃない?」
「俺は出来ない約束はしない主義なんだ、悪いな」
彼は例によってのイシバシ節で、ふふんと意地悪な笑いを浮かべた後、急にガバッと立ち上がった。
「だがっ、そんな俺でもー! 約束できることがあるぜー!」
海に向かって叫びだした彼は、まるで子供みたいだった。こんなに無邪気で可愛いハヤトくんを見られるのは、この世界で私だけなんじゃないだろうか?
「そーれーはぁー、なあにー?」
私が合いの手を叫ぶと、彼はこほん、と咳払いをした。普段被っている仮面がぼろぼろと外れて、心が剥き出しになっていく。
「死ぬまでぇー! リコをー! 愛してるってことだぁー!」
「私もー! ハヤトくんをー! ずーっとずーっと愛してるぅー!」
「絶対だなー! 信じるからなぁー!」
海の向こうまで届けと言わんばかりに、二人で叫んだ。
他人が聞けば呆れるようなくだらない会話も、今は必要なことだった。冗談のように確認している問いかけは、私たちの本気の問いかけだった。
心のどこかで、不安がくすぶっている。
こんなにもあっさりと、信じていた日常が壊れてしまったから。
さすがに底冷えしてきたので、砂浜に寝転がるのはやめて、身体を寄せ合って座った。テーブル代わりのリュックの上に、温くなったコーヒーとブラウニー、砕けたクッキーを広げる。ハッピーバレンタイン、と口にしてみたものの、それは空々しく響いた。
お部屋で切り分けるつもりで、焼いたままの大きさで箱に詰めていたブラウニーは、ハヤトくんが豪快に手で半分に割った。大口を開けて齧りついた彼は、すごく嬉しそうな顔をした。
「こうやって大きな塊で食うの、物凄い贅沢してる気分だ……俺、ガキなのかな」
「今のハヤトくんは、ちょっと子供かもしれないね!」
「リコだって、子供みたいだ。欠片付いてるぞ、ご馳走さん」
彼は私の唇についていたブラウニーの欠片をつまんで、そのまま食べてしまう。自分でやっておきながら照れてしまう彼を、心から愛おしく感じた。
ブラウニーも六人分のクッキーも、二人で全て平らげてしまった。缶コーヒーを追加で買い足してきたところで、ハヤトくんが海を見つめながら、聞いて欲しいことがある、と言った。
「うん、なあに?」
「俺の……これからの話を、したい」
ヒマちゃんの泣き顔が、頭をよぎる。実家の荷物を東京へ移すと言ったのは、本気の発言なんだろうか。
「荷物、本当に移すの?」
「ああ、そうだな……今のアパートも、引き払おうかと思う」
なんとなく、予想はしていた。事故現場とも言えるあの部屋で暮らすのは、いくらなんでも辛いだろう。
もう一度、私と一緒に、新しい居場所を作ってくれるだろうか。
「じゃあ、別のお部屋借りるんだよね。物件探しなら付き合うよ? 大学から離れちゃうのは嫌だね、近くにいいとこあればいいけど! なるべく早くしないと、そろそろ新入生で――」
あえて明るく返した私に、違う、とハヤトくんは言った。
「違うんだ、リコ……もう、大学には、戻れない」
「あ……」
そうか、そうなんだ。それが何を意味しているのか、私は一気に理解した。
「ヒマちゃんが、大学に来られなくなるから……だよね?」
「そうだ。俺が戻れば、きっとアイツが辞める。辞めないとしても、授業に出なくなる。そうなれば、アイツの人生は根こそぎ台無しだ」
私は頷くしかなかった。ヒマちゃんの夢は、学校の先生になることだ。教員免許を取れなかったら、あの子は夢のスタートラインにすら立てない。だからハヤトくんは、自分が復学を諦めた。これはそういう話だ。この人はいつだって、そういう人だ。
「それでな、復学せず福海に残るのは、正直言って難しい。ヒマ助と何があったのか、まさか親には言えないからな……俺が東京へ行くのが、ベストだ。俺の気まぐれで、一応は押し通せる」
言っていることは理解できるし、仕方がないという諦めも、なくはない。だけど私は、彼の言葉に同意できなかった。
「嫌だよ、私、離れたくない!」
缶コーヒーを放り出して、私は彼に抱き付いた。それに応えるようにして、彼の腕が私を掻き抱いた。
「俺だって、離れたくなんかない……許したいよ、戻りたいよ。なぁ、どうすれば、俺とヒマ助は元に戻れるんだ?」
「落ち着いて……今はまだ、混乱してるの。大切なことを決めるのは、今じゃなくてもいいんだよ……?」
素直に頷く彼の、涙で濡れる頬に、私はそっと口付けをした。
春が来るまでに、彼の傷が癒えてくれれば――私たちはまた、同じ景色の中で笑えるはずだ。その唯一の希望を、私は決して捨てないと誓う。
春が待ち遠しく、そして、怖くもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます