第七十五話 ただ、助けを求めたくて
救急車には、私とメイくんが同乗した。検査の結果、怪我はガラス片で切った傷だけだったけれど、フローリングの床で頭を打っていたので、一晩入院して経過を見ることになった。県外に住む親御さんが到着するまでの間、ずっと私たちが付き添っていた。
目覚めたテルくんは「最近動画ばっか見てて、寝不足で眠かった。今は反省している」などと供述し、メイくんは「僕のカメラはそんなことの為に壊されたの?」と溜息を吐いた後、ちょっとは修理代出してね、と言った。
親御さんに挨拶をして病院を出る頃には、既に二十二時を回っていた。
ハヤトくんやヒマちゃんには事情をメッセで知らせていて、だけど二人とも打ち上げに呼ばれているのか、揃って既読は付かなかった。
タクシーでハヤトくんのアパートに着くと、ミクモ先輩の部屋から笑い声が聞こえてくる。うっかり顔を出せば私たちまで逃げられなくなるので、こそこそと二階への階段を上がった。
二階通路の喫煙場所にスガ先輩がいて、クッキーうまかったよ、と片手をあげた。どうやら先輩は、寒くても外で喫煙することにしているらしい。
「イシバシ酔い潰れてるぞ、ヒュウガが介抱してる」
「え?」
ハヤトくんが酔い潰れたなんて、今まで一度も聞いたことがなかった。強いお酒もペロッと飲んじゃう人なのに、体調でも悪かったのだろうか。
顔を見合わせて驚いた私たちに、スガ先輩は笑った。
「ミクモさんに勝負仕掛けて、返り討ちだよ。潰して早く抜けたかったんだろうな」
行ってやりなとスガ先輩に促され、私はそっと扉を開ける。寝てるのなら、起こしたくはなかった。
室内は真っ暗で、ヒマちゃんも奥の部屋にいるようだった。音を立てないように扉を閉め、メイくんも私もそろりそろりと歩く。襖に手をかけた時、その向こう側にありえない気配を感じた。
微かにだけど、嬌声のようなものが聞こえる。もしかして今、ハヤトくんとヒマちゃんは、朝から私としていたようなことを……同じことを考えたらしいメイくんが、私の肩をぐっと掴み、耳元で「僕が開ける」と告げた。
音も立てずに少しだけ開けた襖の、その隙間から見えたのは、ベッドの上に座っているヒマちゃんの横顔だった。暗くてよく見えないけど、髪型や服装の雰囲気は、まるで私がそこにいるみたいだ。
次第に目が慣れ、視界に浮かび上がったのは、私のコスプレをしているような格好のヒマちゃんが、ハヤトくんの上に跨っている姿だった。艶かしく動くヒマちゃんに、ハヤトくんも応じているように見えた。
衝撃を受けるより前に思考が止まり、なんで、という単語で埋め尽くされた。目の前の光景について、わかるはずもないことをつらつらと考える。
成人式のシノくんみたいに、酔った勢いでタガが外れてしまったのか?
それとも初めから、私とヒマちゃんの二股だったのか?
いや、そんなはずはない。あのハヤトくんがそんなこと、絶対にできるはずがない。私は彼を信じている。信じたいのではなく、信じているのだ。
だけどそれなら、目の前の光景は何だというの?
どうしてこんなことになっているのか、全く理解が追いつかなかった。
サークルのみんなに渡しそびれたクッキーの紙袋が、私の手から滑り落ちた。それはガサガサと大きな音を立て、ヒマちゃんがこちらへ気付くのには十分だった。
「リコ!」
ヒマちゃんが大声を上げ、そしてハヤトくんが慌てたように起き上がった。
「あ、ヒマ助?! 嘘だろ!!」
ハヤトくんが私たちを見ながら、ヒマちゃんを突き飛ばした。きゃあ、と声を上げてヒマちゃんが転がる。かろうじてベッドからは落ちなかった。
「違う、誤解だ!」
「ごめんなさい!」
ハヤトくんとヒマちゃんが同時に叫び、私は訳がわからなくなって、足元の紙袋を二人へ投げ付けた。
「意味わかんない!」
混乱したままそれだけを叫んで、私は部屋を飛び出した。驚いた顔で「どうした」と問うスガ先輩の隣を駆け抜けて、何故だか駅を目指して走った。どうして追いかけてくれないの――そんな恨み言を思ってみても、あんなにも服が乱れたまま追えるわけがなかった。
駅前広場で、足を止めた。人影はほとんどなかった。終電は既に出た後で、私に行く場所なんかない。いっそ川にでも飛び込んでやろうか? ヤケになった私の腕を、後ろから誰かが掴んだ。
「待って、リコちゃん」
「メイくん……」
息を切らしたメイくんが、私を勢いよく抱きしめた。
「一人じゃないよ、僕がいる……絶対に、一人になんて、させない」
メイくんは震える声で、言った。
私たちは、部室で朝まで過ごすことにした。機材部屋は掃除してあって、壊れたカメラやライトは片隅に寄せてあった。
リビングでメイくんはホテルにキャンセルの電話をかけて、慣れないことはするものじゃなかったね、と言って笑った。
「コーヒーでも淹れようか。バレンタインだし、ココアがいいかな」
メイくんは私をソファーへ座らせると、自分はキッチンに立った。カウンターの奥でマグカップを二つ出している。のんびりコーヒータイムなんて気にはなれない。
「ごめん、いらない」
「無理に飲まなくてもいいよ、ココアにしよう。牛乳買ってたんだよ、リコちゃんが何か作ってきてくれるだろうからって」
「いいから、こっち、きて」
そんなことより、隣にいて欲しかった。誰かの気配が近くにないと、自分が粉々になってしまいそうな気がした。
「今は、こっちの方が効くのかな」
メイくんは、すぐに隣へ来てくれて、私の肩を抱き寄せた。この人は平気なのだろうか、自分の彼女が目の前であんなことをしていたのに。
「ねぇ、メイくんは平気なの?」
「平気じゃないけど……きっとリコちゃんは、僕よりも辛いからね。僕は、裏切られることには慣れてるしさ」
彼は笑顔で、とても悲しいことを言った。だけどその声はいつもと変わらなくて、温かかった。
「泣いてもいいよ。言いたいこと、全部、言っていいんだよ」
自分だって辛いはずなのに、私の心を守ろうとしてくれる。メイくんはいつだってそうなんだ。どうして私は、この人を好きにならなかったんだろう。メイくんを好きになっていたら、きっと、今みたいな思いをすることはなかった……。
「私、メイくんを好きになればよかった!」
彼の胸に身体を預けて、しがみついた。苦しくて、悲しくて、全部押し流して欲しかった。
「メイくん……好きに、なりたいよぅ……」
彼の腕に力が篭って、リコちゃん、と耳元で聞こえた。
「なってくれたら、嬉しいよ……でもリコちゃんは、まだハヤトが好きなんだよね?」
嘘はつけなくて、頷いた。私はハヤトくんを嫌いになんかなれない。あんな場面を見てしまっても、彼の手が恋しくてたまらない。だからこそ苦しかった。
「助けて、メイくん」
これだけは、言ってはいけない。そう思っても止められなかった。メイくんの手が、私の頬を包んだ。
「僕だって、助けて欲しい……いいよね、いいんだよね、僕たち」
切なげに言われて、目を閉じた。キスをして、その後は? 私たちは朝まで、二人きりでここにいるのだ。このままメイくんに抱かれれば、私は楽になれるだろうか。余計に悲しくなるだけかもしれない。それでも今は、メイくんにすがりたかった。
唇を重ねようとした時、スマホが鳴った。通話の着信音だった。ハヤトくんだろうなと気になって、ついバッグの方へ視線を向けた。
「やっぱり、無視できないんでしょ?」
メイくんは笑いながら立ち上がり、床に置いていたバッグを私の膝の上へ置いた。
取り出したスマホはハヤトくんからの着信を知らせ続けていて、躊躇する私の代わりにメイくんの指が通話開始をタップした。観念して、耳に当てる。
「リコ、すまん! 今どこにいるんだ!」
声だけでも、必死なのだとわかる。車が走る音が聞こえる。多分、駅前だ。私を探しているんだろう。
いま、一人でいるのだろうか。ヒマちゃんが隣にいたり、するのだろうか。
「ヒマちゃんは?」
「アイツはスガさんに預けてきた。頼む、居場所を教えてくれ!」
「ごめん、言いたくない」
会いたくなかった。彼が咄嗟に言った「誤解」という言葉を信じたいのに、顔を見たら責め立ててしまいそうだった。
「落ち着くまで、会いたくないの」
少し間があって、わかった、と返事が聞こえた。どうしてすぐに引き下がるの、もっと必死に「すぐに会いたい」って、頼み込んでもいいんじゃないの? そんなことを考えてしまう私は、きっと今、すごく醜い顔をしているに違いない。
「一つだけ信じて欲しい。俺が好きなのは、リコだけだ……死ぬまでずっと、リコだけなんだよ」
その誓いを、疑う気にはならなかった。うん、と短く返すと、彼はか細い声でよかったと言った。
「なぁ、どうしても会えないか」
「ごめん、今は無理。ケンカになっちゃう」
「ケンカにはならない、好きなだけ罵っていい。ただ、俺の話も聞いて欲しい」
「電話じゃダメなの?」
「顔を見て話したいんだ。リコ、どこにいるんだ?」
言葉を交わすうちに、受け入れてしまいたくなった。どうにか修復しようとしている、その意思を示してくれることは嬉しかった。
胸の内をぶつけても、受け止めてくれるのだろうか。ますます傷付くことにはならないだろうか。色々な思いが渦巻くけれど、決して嘘は吐かない人だと、それだけは今も信じている。言い訳を並べて懐柔するようなことは、彼に限って絶対にないはずだ……。
「リコちゃん、僕も一緒に会うよ。僕もハヤトの話を聞きたい」
メイくんが隣で囁いた。メイくんがいてくれたら、冷静に話が出来るだろうか。あんな流れでキスをしようとした直後に、さっそく彼を頼ってしまうなんて……私は本当に、どうしようもない、バカだ。
メイくんが、私の手からスマホを取った。
「部室にいる、僕と一緒だ。場所はわかるだろ? 七階の最奥、鍵の番号はリコちゃんの誕生日」
それだけ言って、メイくんは私にスマホを返した。通話は既に切れていた。
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