第七十四話 約束はいつだって不安定
後期試験を終えて春休みに入り、チガヤちゃんに紹介されたカフェでアルバイトを始めた私は、毎朝ハヤトくんのアパートへ顔を出すようになった。
休みの間は開店から夕方までのシフトで、その帰りにもう一度アパートへ寄る。彼は必ず私を家まで送り、うちの親に挨拶をして、そのまま泊まっていくこともあった。
私たちは一日でも多く、一秒でも長く、同じ景色を見ていたかったのだ。
バレンタインデーである今日も、私はバイトだ。お店のバレンタインイベントがあるので、さすがに休みは取れなかった。
そして夕方からは、サークルのみんなと部室で集まることにしていた。久しぶりの定例会は、サークル「リコリス」復活の狼煙だ。
以前、隔週ペースで集まっていた頃の私たちは、季節のイベントにちなんだ撮影会をやっていこうと話していた。何も出来なかったハロウィンとクリスマスのこともあるし、バレンタインは活動を再開する良い機会だった。
ばら撒き用のクッキーと、本命用のブラウニーを持って、私は今日もアパートへ顔を出した。
ハヤトくんは既に起きていて、私が来るのに合わせて朝食を用意していた。相変わらずサバ缶が出てくるんだけど、青魚の横にカフェオレがある光景にもすっかり慣れてしまった。今度、サバマヨトーストを提案してみよう。玉子焼きは焦げなくなった。
「今日はね、お客さんにバレンタインカードを配るの。頼まれたらサインをするんだって、緊張しちゃうなぁ」
「そうか、忙しくなりそうだな。夕方からはサークルなんだろ?」
「うん。ねぇ、その後ここに来てもいいでしょう?」
一緒に朝食を食べながら、今日の予定を話す。ダメだなんて言わないよね、と思いながら話を振った。
「明日はお店が休みだから、できれば泊まっていきたいな」
「ん、構わんが」
ハヤトくんは、私の問いに答えようとして言葉を止め、口の中に残っていたサバを飲み込んだ。
「悪い。俺も遅くなると思うから、ゆっくり来い」
「え、なんで?」
「卒業制作展の打ち上げ。残念ながら会場を提供したのが、一〇三号室のミクモさんでな……俺とスガさんは、間違いなくパシリにされる」
「あー」
このアパートに住む美術科の人たちは、後輩を手足のようにこき使う。その分だけ、面倒も見てくれるのだけど……座学系講義のノートが受け継がれていたりとか、誰かの実家から送ってきた野菜のお裾分けが回ってきたりとか、そういう古き良き、そして圧力のある、同じ屋根の下のお付き合いだ。
だから私も今日は、このアパートの住人へ配る為のクッキーを用意してきた。間接的には私もお世話になっているのだ。
「このクッキー、持って行ってね。ラッピング解いてみんなで食べれば、たぶん足りると思うから!」
テーブルの上に置いていた、クッキーが入った二つの紙袋のうち、アパート用の方をハヤトくんの方へ押す。昨晩の私はクッキー職人だったので、軽く十人分は入ってる。もう一つはサークル用で、こちらはきっちり六人分だ。
「こんなに作ってきたのか……悪いな、面倒かけるな」
「ハヤトくんは、ブラウニーもあるんだからね。後で一緒に食べようね!」
「わかった。なるべく早く抜けるようにするよ。先に着いたら待っててくれ、全員残らず酔い潰してでも、抜けてくる」
楽しみだな、とハヤトくんが笑う。二人の初めてのバレンタイン、私も楽しみだ。
食事を終えて片付けをしていると、後ろからハヤトくんが、そっと私を抱きしめた。
「今、ちょっとだけ、食べてもいいか」
「ブラウニー?」
「いや、リコを……片付けは、俺が後でやるから」
いいよ、と私は答えた。ちょっとだけで済むはずがないけど、シャワーを浴びる時間くらいはある。最近の彼は躊躇なく、私を抱きたいと言うようになった。
服も脱がないまま、台所で立ったまま、器用に片手で準備をして、ハヤトくんは私の中へと入ってきた。
どれだけ肌を合わせても、彼は決して私を雑には扱わない。そんな彼に求められると嬉しくなるし、何度でも気持ち良くなってしまう。
甘い声を漏らして、囁くように名前を呼び、啄むように唇を重ねた。
私から誘ってばかりだった頃より、心は遥かに満たされていた。
遅刻せずにきちんと出勤したお店では、開店早々にヒマちゃんが来店した。メイくんが一緒じゃないのは珍しかった。他の客席から少し離れた、厨房寄りの席に案内して、小声でそっと「一緒じゃないの」と尋ねてみる。
「タケルはおうちの用事があって、お昼は会えないんだってぇ……夕方からは、撮影会するんでしょー?」
ぶうぶう、とわざとらしく口にしながら頬を膨らませた。本気で怒ってるわけじゃないけど、ちょっぴりご機嫌斜めのヒマちゃんだ。私が日程にこだわったせいだから、そこは申し訳なかったな、と思う。
「ごめんね、来年からは一番近いお休みの日とかにするよ」
「んー、それは別にいいんだけど、待ち時間が長いと緊張する時間も長いってゆーか……」
「まだデートで緊張しちゃう?」
「デートっていうか、お泊りなのが緊張するんだよねー」
そうなのだ、お泊りだ。メイくんから聞いたところによると、今日は自宅に相手を泊められない二人の、初めてのお泊りデートだ。それであの御曹司様は、ホテルのスイートルームを予約しちゃったのだ……。
私が「気合入りすぎじゃないですか」と言うと、メイくんは「だって特別な日でしょ? このくらいサプライズしなきゃ」と笑っていた。学生のサプライズにしては重すぎるような気がするけれど、私が口を挟めることでもなかった。
「これって、あの、その、するってことだよね?」
「え?」
「タケル……してくれる、よね。朝まで二人きりって、そういうことだよね。どうしよ、私、ちゃんとできるかなぁ……」
みるみる頬が赤くなり、その声はどんどん小さくなっていった。そっか、まだだったんだ。あえて聞かなかったけど、ヒマちゃんも何も言わなかったから、てっきりクリスマスに決着がついたのだと思っていた。
ああ、メイくんが行き過ぎなくらい気合を入れてる理由はそれだったんだ。ヒマちゃんとのはじめてを大切にしたいから、思いつく全部のことを全力でやっちゃってるんだ……メイくんの本気が伝わって、私も嬉しくなってくる。
「きっとそうだよ、良かったね。ドキドキしちゃうね」
「ドキドキどころじゃないよぅ、口から心臓出ちゃうぅ……緊張しすぎて、何かやらかしちゃうかも……」
いつもなら明るく騒ぐヒマちゃんが、両手で頬を覆いながら目を瞑った。本当にこの子はどんな時でも可愛いんだけど、緊張してても可愛いとかずるすぎる。
「ねぇどうしよ、手のひらに人とか書けばいい?」
「んー、お守りとか持ってるといいんじゃない?」
「お守りって、神社のやつ? 安産祈願とか?」
「デートに安産祈願のお守り持って来るのは、絶対におかしい」
緊張で思考回路まで壊れてるのか、ヒマちゃんがどんどん明後日の方向で返事を繰り出してくる。
「お嬢様は個性的な感性をお持ちですね、ふふっ、失礼」
ヒマちゃんのケーキプレートを運んできてくれたチガヤちゃんが、必死に笑いをこらえていた。私もそろそろ接客に戻らないとと思いつつ、一つアドバイスをした。
「私は香水がお守りだよ、ハンカチに香り付けして持ち歩くといいよ。最近はずっと、クロエのラブストーリーつけてる」
お母さんが教えてくれた、気持ちを落ち着けるおまじない。ヒマちゃんに教えてあげると、そっかぁ、と花が咲くように笑った。
「いつでもリコはいい匂いだもんね、私も買おうかなっ」
「駅ビルの三階に、ディスカウントのお店があるよ」
「ありがとー、行ってみる! これからね、勝負服買いに行くんだぁ!」
ようやく笑顔を取り戻したヒマちゃんに「Happy Valentine's Day!」と書かれたバレンタインカードを渡したところで、入口からミヤさんたちが入ってくるのが見えた。撮影会の前に寄ってくれたみんなが、私に向かって手を振っていた。
夕方にお店を出て、そのまま部室へ直行すると、みんな既に集まって準備をしていた。
「リコちゃん、衣装はこれで良かった?」
玄関で私を出迎えたメイくんが渡してきたのは、ハロウィンナイトで着用した「まほペン」の衣装から、ハロウィン要素を全て取り外したものだった。あとは赤毛のウィッグを三つ編みにして着用し、香水の瓶を持てば、作中に出てくる「恋が叶う香水」を作るヒロインの出来上がりだ。
私が「まほペン」の衣装を着たのはハロウィンだけだったから、そのままお蔵入りにするのは、かなり勿体無いと思ったのだ。
「ありがと、着替えてくるね!」
「来たばかりなんだから、急がなくていいよ。まだ荷物も降ろしてないじゃない、こっちも少し準備があるし――」
言葉を交わす私たちの耳に、ガシャン、ドスン、と大きな音が聞こえてきた。何かの機材が倒れたような音と、重い荷物が落ちたような音。一瞬でメイくんが青くなって、機材置き場にしている部屋へ飛び込んだ。
「どうした!」
メイくんの後ろから部屋を覗くと、床に撮影機材が散乱しているのが見えた。倒れたライトや転がったカメラは割れているものもあり、今日はとても撮影どころではないな、と思ったのだけど……横倒しになった脚立と、誰かの足が、見えた。
「テル!」
メイくんが駆け寄って行き、ようやく私にも部屋の中が見えた。部屋の奥にはテルくんが倒れていて、頭からは出血していた。おそらく戸棚の上段から荷物を取り出そうとして、脚立ごと倒れてしまったのだろう。
スタジオ部屋にいたみんなが集まってきて、口々にテルくんの名前を呼んだ。だけどピクリとも反応がなくて、トッキーがうぅ、と泣き出してしまった。
メイくんがスマホで救急搬送を依頼している。
ミヤさんが抱き起こそうとして、カンジくんに動かすなと止められている。
呆然とする私の隣で、クキちゃんが「大丈夫ですよ」と声をかけながら、震える手を握り締めていた。
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