第七十三話 ケの日、ハレの日(三)
ごめん、とシノくんは頭を下げた。頭突きで鼻血が出たらしく、何度も鼻の下を擦っている。
「シノくん、飲みすぎ!」
私は笑顔を作って、許そう、と心の中で唱えた。こんなことを一生の記憶にすべきじゃない、これはお酒のせいなのだ。そういうことにしてしまえば、私はシノくんを嫌いにならなくて済む。人を嫌いになるのは、すごく辛いことだ。
「ナルヤマには、事情、言っとく」
シノくんは私と視線を合わせないまま、早足で座敷の方へと戻って行った。
「リコちゃん、こっち。ごめんな跳ね飛ばしちゃって、俺は弾力あるもんなぁ」
気遣うようにおどけるカメヤンの案内で、厨房の横を抜け、従業員用の控え室に入った。ロッカーの他には長机とパイプ椅子が置かれていて、勧められるまま椅子に座る。
「あの幹事に、何かされたんよな?」
事情を聞かれるのは当然だけど、地元の友達とのトラブルを話すのは抵抗があって、即座に答えることはできなかった。
「言ったらカメヤン、シノくんを殴るよね?」
「いくら俺でも、バイト中に客を殴ったりせんって!」
茶化すように笑うカメヤンの、いつも通りの雰囲気に、話してみようという気持ちへ傾いていく。
「書き込みをね、真に受けられてたの」
「掲示板の?」
「そう……それで、キスされそうになったから、頭突きして逃げた」
「それでアイツ、鼻血出しとったんか!」
てっきり怒り出すかと思ったけど、カメヤンはさも愉快だと言わんばかりに笑った。私がシノくんを責めなかったから、カメヤンも責めることはしない。そんな気遣いが、今はありがたかった。
こういう時、たとえばメグミちゃんなら、もっと怒りなさいよと私を叱る。それは私を思ってのことだ。それでも私は、そう言って叱られることが辛い。怒るのも、許すのも、自分が楽でいられる方を選びたいのに。
「リコちゃんは頑張ったんやな。よしよし、偉かった。よくやった!」
いつかのように、カメヤンは私の頭を撫でた。その声が温かくて、私はつい本音を漏らした。
「私、本当は噂通りの女なのかな……だから、こうなっちゃうのかな」
一瞬だけ手が止まり、んなわけあるかい、と叱るように返される。
「アイツがアホなだけや。リコちゃんは拒否したし、喜んでなんかないやろ?」
「うん……ねぇ、どうしたら噂って消えるのかな……?」
メイクが崩れるのも構わずに泣き出した私の頭を、カメヤンはそっと撫で続けてくれた。
私が完全に崩れたメイクを直し終えるまで、カメヤンは一緒にいてくれた。十五分くらいはここにいただろうか。
「バイト中なのに、時間取らせてごめんね」
謝った私に、気にせんでええよと返したカメヤンは、それでも時計を見て苦笑いをした。
「ま、大丈夫よ。リコちゃんも、すぐに戻るの嫌やったやろ?」
すぐにというか、今でも戻り辛い。シノくんやナルちゃんと、どんな顔で話せばいいんだろう。不安だけど、ずっとここにいるわけにもいかない。
「何かあったら声かけてな。そこらへんの店員に、カメヤ呼べって言ってもいいからな?」
「ありがと……いざって時は、そうする」
頑張れよ、とダメ押しのように頭を撫でられた。それは私の勇気になった。
バッグからおまじないのハンカチを取り出して、そっと口元に当てる。大丈夫だと唱えながら、私はひとりで座敷に戻った。
同級生のみんなは、私がいないことなど気付かずに騒いでいた。シノくんは、さっきまで私がいた場所にナルちゃんと二人で座っている。
ナルちゃんが私に向かって手を振っても、私が隣に座っても、シノくんは手元のグラスから視線を外さないままだ。
「リコちー、大丈夫?」
「うん、後はクリーニングに出せば落ちると思う」
「そっかぁ」
ナルちゃんは頷いて、そして間髪入れず、シノくんの頭をべちんと叩いた。他のみんなには気付かれない程度の威力だけど、シノくんは痛そうに呻いた。
「このスカポンタン、あんなアホな書き込みを信じてたんだってね?」
「あっ……!」
一瞬で、血の気が引いていくのがわかった。
目の前が暗くなっていき、どんな顔をすればいいのかもわからなくなって、私は席を立とうとした。
だけどナルちゃんの温かな手が、私の手を握って離さなかった。
「大丈夫。リコちーはあんな子じゃないって、みんなわかるよ。わかんなかったのはスカポンだけだよ」
ナルちゃんの言葉は嬉しかったけど、そんなことはない。シノくんが特別なわけじゃない、信じる人は沢山いる……それが、私の見てきた現実だった。
「俺だって……百パー信じてたわけじゃ、ないんだ」
シノくんが呻く。私とは、まだ目を合わせようとしない。
「そんなわけないって、思ってたよ。だけど会ってみたら、別人みたいに変わってたから……だから、中身も変わっちゃったのかなって……」
「だからって、力尽くで気持ちを押し付けていいはず、ないでしょ?」
全てを聞いたらしいナルちゃんが、リコちーに謝んなさい、とシノくんを促した。
「ごめん、本当にごめん、どうか許して下さい……!」
シノくんは座敷の畳に頭をこすり付けるようにして、何度もごめんと繰り返しながら、泣いた。
「えっ何、シノがなんか土下座しよる!」
「飲みすぎやろ、幹事しっかりせーよ」
シノくんに気付いたみんなが泣き上戸だと勘違いして笑い出し、場の雰囲気を壊すのは避けたかったので、私たちは話を切り上げた。
「誤解が解けたんだったら、それでいいよ。今回だけは許してあげる」
シノくんに耳打ちをすると、彼はようやく私の目を見て、泣きながら頷いた。
どうにか落ち着いたシノくんは幹事のお仕事をきちんとこなし、無事に同窓会はお開きになった。
みんなはいくつかのグループに別れて二次会へ行くらしく、私たちは三人でカラオケへ行くことにした。このままシノくんと別れてはいけないような気がして、私が誘った。最初シノくんは渋ったけれど、ナルちゃんの「詫びカラ奢れ!」の一言が効いた。
居酒屋を出た途端、スマホが鳴る。ハヤトくんからのメッセージだ。同窓会は終わったか、という一言だけだった。
「リコちー、彼氏から?」
「うん、同窓会は終わったかって」
「いいねいいね、仲良いね〜!」
ナルちゃんが私の顔を覗きこみ、そしてシノくんはなぜか真顔になった。
「スカポン諦め悪いぞ!」
「うるせぇ、放っといてくれ」
ふて腐れるシノくんの背を、ナルちゃんがべちんと叩く。
「うるさいとはなんだぁ! 死にそうな顔で戻って来て、一直線に泣き付いてきたくせに! ナルヤマぁ、俺は人として最低だぁ~!」
そのナルちゃんのモノマネを聞いた瞬間、私がどうして彼の行為を「気持ち悪い」と思わなかったのか、理由がわかったような気がした。
きっと、私はシノくんを信じたかった。何も変わってなんかいないと、そう信じていたかったのだ。
ナルちゃんに泣きついたシノくんは、私の知ってるシノくんだ。お酒のせいだけでは片付かないことをしたけれど、それを後悔しているシノくんも、深く傷付いているに違いない――そう考えた瞬間、とてつもなく腹が立った。それはシノくんへの怒りではなく、ずっと溜め込んできた感情の奔流だった。
「あんな噂のせいで、また友達を失くすなんて、絶対に嫌なんだけど!」
大声で叫んだ私に、二人が驚いた顔で固まった。一度叫んでしまえば、もう止めることはできなかった。
「あんなもの書き込んだバカのせいでっ、どうしてこんな思いしなくちゃいけないの? あれさえなければ仲良くできるのにっ、あれで傷付くのは私だけじゃないしっ!」
涙が止まらなくなって、ハンカチで顔を覆う。もう香りは全然わからないし、メイクなんてどうでもよかった。
「リコちーは何にも悪くない!」
「ごめんな、俺があんなことしたから! 本当にごめん、ごめんなオノミチ!」
二人は懸命に、涙を止める言葉を探していた。そんな中、二人のものとは違う声がする。
「リコ、大丈夫か?」
それは、私を守ってくれる声だった。信じられないけど、間違いなく、私の大好きな人の声だ!
「ハヤトくん!」
私は振り向きざまに、その胸へと飛び込んだ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの私を、彼は優しく抱きとめてくれる。
「どうして、どうしているの?」
「カメからメッセを貰ってな、リコが大変だから急いで来いと」
「え、でも、車じゃないと間に合わないよね……?」
「飲んでないぞ。ヒマ助を迎えに行く予定だったんだよ」
あの後すぐにカメヤンがメッセを送ったとして、それからすぐに出発しても、国道経由でこの時間に着くのは無理だ。車の免許を取ったばかりで、運転もあまり好きじゃないのに、夜の高速を飛ばして来てくれたんだ……今度は嬉しさで、泣きそうだった。
「こいつに悪さをされたんだな?」
ハヤトくんは私を抱きしめながら、低く凄むような声を出し、ひいっとシノくんが悲鳴をあげた。
「も、申し訳ありませんでした!」
「スカポン! 土下座はただの自己満足だ!」
ナルちゃんの声に私が振り返ると、土下座しようとするシノくんを、ナルちゃんが羽交い絞めにして止めていた。
ハヤトくんが地元のカラオケまで送ると言ってくれて、私たちは車に乗り込んだ。ナルちゃんが、何度もハヤトくんを誘っている。
「一緒においでよ! スカポンの奢りだからさ~!」
「悪くないな」
表情が死んだシノくんを確認してから、ハヤトくんが嫌味ったらしく笑う。私が口を挟む前に、奢るのはいいけど、とシノくんが顔をしかめた。
「俺、金置いて帰ります」
「何でだよ。リコがお前を誘ったんだろ?」
俯いたままのシノくんに、ハヤトくんが「反省してるんだろ」と声をかける。
「リコは許した、それが全てだ。ただし、その信頼を踏みにじった時は……わかるな?」
その言葉を聞いて、シノくんは「はい」と呟き、項垂れた。
「チャンス貰えて、よかったね」
泣いてしまったシノくんの手を、ナルちゃんがそっと擦っていた。
明るい朝を迎える頃には、四人で笑っていられればいいな――心の底から、そう願った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます