第六十八話 その才能と未来のために

 考えてみて下さい、とエミリさんは再度頭を下げてから、泣きそうな顔で客間を出て行った。

 後に残されたのは数本の缶チューハイと、胸の奥を完全にかき乱された私と、顔をクシャクシャにして泣き始めたヒマちゃんだった。


「あ、あの人の言う通りなの、私がっ、福海に行きたいなんて言ったからっ……教免とるだけだったらっ、地元の短大でも良かったのにっ!」


 どう声を掛ければいいのか、迷った。適当に慰めるだけなら簡単だけど、実際どうなのかは本人が一番わかっているはずで、そしてヒマちゃんは軽々しい慰めを求めていないような気がした。ハヤトくんが退学した時、私に「あなたを守る為なのは否定しない」と言った子だ。きっとあれは、ヒマちゃんの示した誠意だった。


「でも私は、そのおかげで二人に会えた。ハヤトくんが東京に行ってたら、私たちも知り合ってなかったんだよ」


 嘘にならない言葉だけを選ぶと、ヒマちゃんはこくこくと頷いて、ありがと、と消え入りそうな声を出した。

 私は手にしていたジュースを飲み干して、空き缶ともども全ての缶を壁際へ寄せ、畳んでいた布団を敷き直した。ヒマちゃんも泣きながら立ち上がり、のろのろと自分の布団を整えると、そのまま布団へ潜り込んで行った。

 部屋の灯りを消すと、思ったより暗い。余計な情報が削ぎ落とされて、様々な気配だけが残った。

 ヒマちゃんが声を殺して泣いている。遠くから微かに聞こえる笑い声は、ハヤトくんとメイくんのものだろうか。自分の胸の奥にある不安までが音を立ててしまいそうで、ごまかすように大きく息を吐いた。


「リコ……ごめん、ちょっとだけ……」


 ヒマちゃんが私の布団に潜り込んできて、どうしよう、と呟いた。

 いつだって元気に振る舞う、健気な私の親友。この子はいつになったら、憂いなく笑える日が来るのだろう。どうすれば、泣かせずに済むのだろう。

 何だかたまらなくなって、そっと抱き寄せて、震える背をゆっくりと擦った。

 小さい頃、お母さんに叱られて泣く私へ、お父さんがしてくれていたみたいに。


「朝までずっと、こうしててあげるね」

「ちょ……それ、彼氏がするやつじゃないの……?」


 ヒマちゃんは笑ったけれど、涙はますます溢れてくる。どうしたら涙を止められるんだろう……ハヤトくんやメイくんなら、止められるのかもしれない。


「ねぇ、男の子たちのお部屋、行こっか……話、聞いてもらおう?」


 妙案だと思ったのに、ヒマちゃんは微かに首を振った。


「あんなこと言われたなんて、言えないよ。言ったらきっと、ハヤトはこの家と縁を切っちゃう……そんなの、ダメだよ」


 ヒマちゃんが、私を止めるようにしがみついた。

 それでも私は、彼の部屋へ行きたかった。私がハヤトくんを頼りたい。ねぇこんなこと言われたの、私エミリさん嫌い、これ以上あの人と仲良くしないで――もしも私がそう言ったら、ハヤトくんは迷わず私を選ぶだろう。そして今、私を選ぶ言葉が聞きたい。俺にはリコだけだよと笑って、あの大きな手で頭を撫でて欲しい。

 そんなことを思ってしまう自分が、恥ずかしくもあった。私だって、頭ではちゃんとわかってるんだ……彼の才能を、私たちの未来を、エミリさんは真剣に考えてくれている。

 本当にそれでいいのって、私だって何度も言おうとした。だけどハヤトくんはいつだって「俺がそうしたいんだ」と言ってくれた。惜しげもなく全てを捨ててしまう人と知っていながら、彼が選んだのだから仕方がないと、優しさに甘え続けてきたんだ。

 彼の才能にとって正しい道は、私と歩く道じゃない。だけど私がいる限り、きっと彼は私を選び続ける。石橋イシバシ隼人ハヤトという絵描きの、その才能と未来のために、私は身を引くべきなのだろうか。


「ねぇ、ヒマちゃん……私も、どうしたらいいんだろう」

「わかんない……ハヤトは凄いし、うちの先生じゃ物足りないと思う、けど……」


 二人で話したところで何の答えも出せるわけがなく、お互いにぎゅっと抱き合ったまま、声を殺して一緒に泣いた。

 先に眠ってしまったヒマちゃんは、どうしよう、と寝言を言った。


 元日の朝、部屋で身支度を整えていると、綺麗に小紋を着付けたエミリさんが声をかけに来た。


「おはようございます、眠れましたか?」


 ぎこちない笑顔のエミリさんは、昨晩のことを気にしているようだった。彼女自身も眠れていないのかもしれない。そんな相手に「朝まで泣いててほとんど眠れませんでした」とも言えず、結局は三人とも曖昧に笑って終わった。ハヤトくんの話には誰も触れなかった。

 案内されたのはリビングではなくお座敷で、既にみんな揃っていた。お屠蘇もお節もお雑煮も、福海のものとは全然違っていて、ヒマちゃんも「これなんだろー」とアレコレつつき回していた。エミリさんに、作り方とか聞けたら良かったんだけど。

 午後からは、フミタカさんが初詣へ連れて行ってくれることになった。仕事関係の人たちが新年の挨拶に来るホマレさんは、エミリさんと一緒にお留守番だ。

 玄関で送り出してくれたエミリさんは、気まずそうに私たち二人へ視線を投げた。その様子を見たハヤトくんが、私に「何かあったら言えよ」と耳打ちをしてくる。

 今回ばかりは、言えるわけがなかった。


 フミタカさんが案内してくれた神社は、家の近所の神社、と軽く言うには大きくて、参拝客がぞろぞろと列を成していた。ヒマちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねているのは、列の先頭を見ようとしているらしい。


「すごー、さすがトーキョー! 神社なのに人いっぱーい!」

「危ないからあんまり跳ねないの」


 メイくんに手をぎゅっと握られたヒマちゃんが、うひゃあ、と驚いたように声を出す。可愛い笑顔を見せているヒマちゃんが、昨日たくさん泣いたことを、彼氏であるメイくんは知らないままだ。私が泣いた時は「目が腫れてるよ」とか言って、一目見ただけで気がついちゃうのに……ヒマちゃんには、何も言わない。何だか複雑な気分だ。

 石段を上がりきったところにある境内を、ベルトコンベアーのように前進してゆく。順番が回ってきても、なんだか流れ作業みたいでゆっくり願をかけることもできず、漠然と「良い一年になりますように」みたいなことしか浮かばなかった。

 甘酒やお汁粉を振る舞っているのが見えた途端、フミタカさんがハヤト、と彼の肩を叩いた。


「男二人で彼女たちにアレ貰ってきてちょーだい、俺たちはここで待ってるから」


 たまたま空席になった休憩用のベンチを見つけたフミタカさんは、滑り込むようにそこへ座り込んだ。ハヤトくんは私に「リコは汁粉だな、甘酒で酔われちゃかなわん」と言い残し、苦笑するメイくんを連れて行った。

 三人で並んでベンチに腰掛けた途端、フミタカさんは「二人に聞きたいことがあってさ」と言った。急に男の子たちをお使いに出したのは、三人で話をする為だったらしい。


「エミリが、何か君たちに余計なことを言ったんじゃない?」


 私とヒマちゃんは、顔を見合わせた。昨晩のことを、フミタカさんに言ってもいいものだろうか――そうやって返事に困る様を、フミタカさんは肯定と捉えたようだった。


「きっと、ハヤトを東京に住ませろとか、アンジョウ先生のところへ行かせろとか、そういうことを言ったんだよね。ごめんね、それは俺のためなんだよ」

「フミタカさんのため?」


 ヒマちゃんが首を傾げる。私も不思議だった。ハヤトくんが東京に来ることが、どうしてフミタカさんのためなんだろう。


「俺はね、ハヤトの才能を伸ばしてあげたい。ハヤトから父親を奪ったのは俺だから、その償いって言うのかな……金でもコネでも、出来る限りのことをしてあげたいと思ってる。でもハヤトの人生は、ハヤトが決めるべきだからね。もう余計なことは言わせないから、今回だけは許してあげてくれないかな」

「待って下さい。それ、どういうことですか?」


 ヒマちゃんの声が、硬くなった。


「父親を奪った、って……ハヤトはずっと、ホマレさんがオリエちゃんを捨てたと思ってました。オリエちゃんは何も教えてくれなかったけど、私も祖父からそう聞いていました」

「え……ああ、そうだったんだね。でも、それは違うと断言するよ。親父はオリエを大事にしてたし、離婚したのは俺のせい」


 そう言いながら、フミタカさんは落ち着かない様子で、自分のマフラーを何度も触っていた。


「俺は本当にオリエが好きで、ハヤトが生まれた後に想いを打ちあけた。きちんとフラれて諦めたかった、そして家族になりたかった……だけど、そうはなれなかった」


 白い吐息が、喧騒に消えてゆく。それは彼の溜息だった。


「オリエは、俺と親父の関係が壊れることを避けようとしたんだ。告白した理由を説明しても、オリエは納得してくれなかった。ハヤトが大きくなってから揉めるのだけは嫌だと言われてね、親父が折れた形で離婚したんだ。ハヤトの姓を石橋のままにしていてくれと、ただそれだけを条件にして」

「じゃあ、ハヤトはずっと、何と戦ってたんですか?」


 ヒマちゃんが、フミタカさんを睨み付けた。


「アイツ、子供の頃からずっと怯えてたんですよ? 自分も父親と同じことをするんじゃないかって……恋なんかしたくないって、いつも毒ばっかり吐いて、高校も男子校を選んでた! 大学でリコに出会うまで、ずっとその呪いが解けなかった! あなたが奪ったのは、父親だけじゃないんです!」


 ただごとではない口調に、周囲の視線が集まり始めたところで、騒ぎすぎだ、と険しい声がした。


「ヒマ助、場所と相手を考えてくれ……兄さんすみません、ご迷惑をお掛けしました」


 戻ってきていたハヤトくんが、フミタカさんへと頭を下げた。だって、と食い下がるヒマちゃんに、ハヤトくんはお汁粉を押し付けた。


「もう余計なことは一切言うな。これ食ってろ」

「でもっ」

「いいから食え!」


 ハヤトくんに怒鳴られたヒマちゃんは、温かいお汁粉を見つめながら、ハヤトのバカ、と涙声で言った。


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