第六十七話 お姫様ストラグル(二)

 ちょうど昼食を食べ終わった頃にインターホンが鳴り、応対したエミリさんは、ホマレさんに何かを耳打ちしてからリビングを出ていった。

 一言くらい連絡すればいいのにねぇ、とホマレさんが笑う。


「すまないね、大晦日だというのに落ち着かなくて。私とフミタカは外しますが……ああ、ハヤトも一緒に来なさい」

「俺もですか?」

「できるだけ同席しなさい、決して損にはならないはずだからね」


 わかりましたと返事をして、ハヤトくんもソファーから立ち上がる。リビングに残されてしまう私たち三人に、のんびりしててねとフミタカさんが言った。


「大事なお客さんだけ残すなんてありえないよね、本当にごめんね。エミリがすぐに戻ってくるから、一緒にお茶でも飲んでてよ。君たちと同世代だから、仲良くしてあげてね!」


 フミタカさんはそう言い残し、ホマレさんを追うように部屋を出て行った。同じ二十代だから同世代と言えなくもないけど、六歳も差があると、気安い友達になるには時間がかかりそう……それに残念ながら、既に仲良くなれそうもない子がいる。


「私、ほんっと無理なんですけど」


 三人だけになった途端、ヒマちゃんは唇を尖らせて、無理無理無理と呪文のように唱え始めた。正直すぎる恋人を目の当たりにしたメイくんは、困ったものだと呟きながらも嬉しそうだ。多分この人、毒吐きモードのヒマちゃんにめちゃくちゃ萌えてる。


「無理はしなくていいよ、僕が相手をするから。後でハヤトが困るような態度は取らないようにね」

「え、う、うん……タケルが、そう言うなら……」


 メイくんに優しく窘められたヒマちゃんは、一応落ち着いたようだった。


 その後、メイくんはきちんと宣言通りの役割を果たした。それはもう見事すぎるくらいの仕事ぶりで、本当にヒマちゃんは笑顔で相槌を打つだけだった。

 しかし残念ながら、ヒマちゃんの機嫌が直ることはなかった。

 エミリさんがリビングに戻ってきてから、ホマレさんたちが戻ってくるまでの数時間、メイくんはひたすらエミリさんに構いっぱなしだったのだ。いつもの爽やかな笑顔を浮かべ、エミリさんの器量を褒めちぎった。彼女もまんざらではない様子で、もはやリビングは完全に二人の世界だった。

 ヒマちゃんの為を思ってやったことだし、決してメイくんが悪いわけではないんだけど……ともかくそれが決定打になって、ヒマちゃんは完全に拗ねてしまった。


 リビングで全員揃って年を越し、年始の挨拶を交わしてから客間に戻る。部屋へ入って引き戸を閉めたと同時に、ヒマちゃんが長々と溜息を吐いた。


「はあぁ……ねぇ、私の心が狭すぎなのかなぁ……」

「そんなことないよ……ヒマちゃんは頑張ったよ、偉かったよ」


 疲れ果てたように嘆くヒマちゃんへ慰めの言葉をかけると、そうだよね、と今度は泣きそうな顔になった。


「リコも頑張ったよ……私たち、すっごい頑張ったよ」

「だよね、やり遂げたよね」


 二人で頷き合いながら、押入れの布団を出して部屋の真ん中に敷いた。私たちはこれ以上ないくらいに頑張ったと、今なら胸を張って言える。

 紅白歌合戦の流れるリビングですき焼きをつついている時も、ゆく年くる年を見ながらお蕎麦を啜っている時も、エミリさんはハヤトくんに対しての親密さが全開だった。メイくんにもかなり親しげになっていて、私やヒマちゃんへの態度とは明らかに違った。サークルの姫を演じてきた私ですらドン引きするレベル。

 ハヤトくんが東京にいる間、ずっとこの状態だったのかと思うと、お腹の底に泥水が溜まっているような気分になった。

 それでも私たちは、ずっと笑顔を絶やさなかった。ホマレさんにお酌をしながらフミタカさんのギャグにツッコミを入れ、福海にいる時のハヤトくんについて面白おかしく語り、エミリさんの作った料理をベタ褒めまでした。

 そんな努力の甲斐あって、メイくん以外は誰も私たちの暗黒面に気付いていない。ヒマワリとリコリスは、綺麗な花でいることを貫いたのだ。


「目の前でベタベタされると腹立つんだね……リコには何にも思わなかったのになぁ、えへへ、えへへへ」


 ブラックヒマちゃんは、奇妙な声を出して笑い始めた。目だけ笑ってない、怖い。家族的なやり取りをされただけでも面白くなかったみたいだし、私よりダメージ大きそう。


「ヒマちゃん、今日はもう寝よっか……明日は初詣行こうって言ってるし、ちゃんと寝ないと人酔いしちゃうよ」

「そうするぅ……いっぱい喋りたかったけどぉ、気力がゼロだあぁ~」


 私が促すと、ヒマちゃんは弱々しい呻き声を出しながら布団へ倒れこんだ。

 その時、部屋の引き戸をトントンと叩く音がした。ホマレさんやフミタカさんがこの部屋へ来るわけはないし、ハヤトくんとメイくんは二人で飲み明かすと言っていたから、おそらくこれはエミリさんだ。同じように考えたのか、ヒマちゃんは頭から布団を被ってしまった。

 深呼吸をしてから扉を開けると、パジャマ姿になったエミリさんが、缶チューハイやジュースの入ったレジ袋を抱えて立っていた。


「良かったら少しだけ、三人でお喋りしません? ご迷惑でしたら戻りますけど!」


 どうしようかなと振り返ると、ヒマちゃんは既に起き上がっていた。布団の上に正座して、エミリさんへ手招きをしている。


「大丈夫、まだ起きてまーす!」

「よかった! ごめんなさいね、少しだけ!」


 エミリさんは、本当に嬉しそうな微笑みを浮かべた。わざわざ訪ねてきちゃうあたり、悪い人ではないんだろうな……本人は普通にしているつもりで、無意識のうちに異性との距離が近くなるタイプなのかもしれない。きっと私も見方次第では同類なんだろうし、そう考えると無下にも出来ない。

 適当に畳んだ布団を部屋の隅へと押しやり、輪になって座る。その中央にレジ袋の中身を並べたエミリさんは、梅酒ソーダを手に取った。

 私がオレンジジュースを選ぶと、ヒマちゃんまで同じものを掴んだ。お酒大好きヒマちゃんが飲まないのは、そこまで気を許していないから。もちろんエミリさんはそんなことなど気付きもせず、上機嫌でプルタブを引いた。


「うふふ、仲良くして下さいねっ! かんぱーい♡」

「コチラコソー、カンパーイ」


 甘い声で乾杯をするエミリさんとは対照的に、ヒマちゃんの声からは抑揚が消えた。もしかして「リコリス」のスイッチが入ってる時の私って、こんな風に見られているんだろうか。ものすごく怖くなってきた……駄目だ、今は考えるのやめよう。


「お二人とはぜひ、ゆっくりお話をしたかったんです! 色々聞いてもいいかしら?」

「ど、どうぞ」

「ふふっ、じゃあ遠慮なく!」


 景気付けなのか、エミリさんが梅酒ソーダを呷った。この人の口からは、いったい何が飛び出すのだろう……ヒマちゃんの忍耐力が、ちょっと不安だ。


「ハヤトさんが美大を受けなかったのは、アオイさんと同じ大学へ通うためだったんですよね?」

「えっ」


 少し口篭ったヒマちゃんが、観念したように頷く。ハヤトくんがヒマちゃんに合わせて福海大に来たのは、大学の友達ならみんな知っている話だった。


「高校時代の作品を見て、美大に合格する力があったはずだって、お父様もフミタカさんも残念そうでしたよ? 地方の三流大なんかより……あっ、お二人も通われている大学なのに、失礼なことを言ってしまってごめんなさいね」


 エミリさんは慌てたように右手を口元に当て、申し訳なさそうに肩をすくめた。

 悔しいけれど、その評価は正しいと思う。全国から学生が集まる東京の美大と、地方でお山の大将やってる総合大だ。芸術系学部のことは詳しくないけど、学歴の箔が比較にならないことくらいはわかる。


「私が足を引っ張ったって、言いたいんですか?」


 俯いてしまったヒマちゃんが、吐き出すように言った。泣くのを堪えているとわかる声を聞いて、エミリさんは困ったように小首を傾げた。


「ごめんなさい、責めるつもりじゃないの。それに、アオイさんというより……日向ヒュウガの家の人たち、かしら」

「仕方ないじゃない!」


 ヒマちゃんの声は、ほとんど悲鳴だった。


「私ひとりじゃ県外には出さないって、お父さんが……だからハヤトが、一緒に受けるって言ってくれたの!」

「ええ、それはわかっているわ。だから私は、お家の人がひどいと思うの。ハヤトさんが美大を諦めた事実は、アオイさんにとっても、ずっと重荷になり続けてしまうんじゃないかしら?」

「だったらどうなのよ、他人のあなたには関係ない!」

「私は他人だと思っていないの。私はフミタカさんの妻だから、あの人にとって大切な弟は、私にとっても大切な人。弟の従妹であるアオイさんも、恋人のリコさんも、親友のサツキさんもね」


 その時、エミリさんの声にも視線にも、媚びるような素振りは微塵もなかった。そして彼女の真っ直ぐな視線は、今度は私の方へと向いた。


「ハヤトさんは、再入学の手続きを済ませたそうですね。ですが私はどうしても、福海大にハヤトさんを指導できるような教官がいるとは思えません。再入学、リコさんは納得できているんですか?」


 まさかエミリさんに、こんなことを言われるとは思わなかった。だけど東京に来ると決めた時から、それなりに覚悟はしていたんだ……私の答えは、ただ一つだ。


「彼が選ぶ道に、私はついて行きます」

「そうですか……恋を優先するなら、それが正しいのでしょうね」


 私が言葉を返す前に、エミリさんは深々と頭を下げた。


「それでも私は、お二人にお願いしたいことがあります。大学には戻らずアンジョウ先生に師事するよう、ハヤトさんに話してみて貰えませんか」


 それは決して、強要するような口調ではなかった。もしも「一緒に卒業したい」と言えば、しつこく食い下がったりはしないのだろう。なのに断ることができなかった。受けることは、もっとできなかった。


「罪悪感を抱えて生きるのは、とても、辛いことです」


 イエスもノーも選べない私たちに、エミリさんが言った。

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