第六十六話 お姫様ストラグル(一)
エミリさんは、私たちを二階へと案内した。一階は外観通りに純和風な雰囲気で、階段を上がり切ると和洋折衷の、いわゆる「和モダン」な空間に切り替わった。おっしゃれー、とヒマちゃんがはしゃいでいる。
「一階はお父様の仕事場になっていて、普段は二階で生活しているんです。本当は二世帯住宅なんですけど、結局さみしいとか言って、お父様も二階で寝起きするものだから……困ったものですよね、ふふっ」
愚痴というよりも笑い話という感じで、エミリさんはそんなことをこぼした。
お父様は意外と可愛らしい人なのだな、というのが率直な感想だった。ヒマちゃんからは「日本画の凄い人」だと聞いていたし、ハヤトくんの話から伝わるイメージはあまり良いものではなかったし……きっと気難しい人なのだろうと、私は勝手に想像していた。
「すみません、面倒ばかりおかけして」
ハヤトくんが申し訳なさそうに言うと、エミリさんは小さく頭を振った。
「あっ、全然そんなことないのよ? 食事の支度とか、手伝ってくれるし!」
「それは義姉さんにいいところを見せたいんですよ、こき使ってやりましょう」
「うふふ、じゃあ肩でも揉んでもらおうかしら。国宝級の右手って言われてるのに、さすがに贅沢すぎるかしらね?」
「それだと兄さんが拗ねるんじゃないですか?」
親密な雰囲気で、笑い合う二人。それを見て完全にご機嫌斜めのヒマちゃんを、苦笑いのメイくんが手振りだけでなだめている。
「どーしてリコは何も言わないのっ」
ひそひそ声でブチ切れながら、ヒマちゃんが勢いよくこちらへ振り返る。だけど私と目が合った途端、ヒマちゃんの大きな目がさらにまんまるになった。
「すごーい、リコがそんなブサイクになってるの、初めて見たんだけどぉ!」
「あー、緊張しちゃってるんだね。頬すっごい固まってるよ」
私は自覚がないのだけれど、よっぽどひどい顔なのか、メイくんも笑いをこらえつつ私の頬に触れた。
「あはは、これ久しぶりに見たなぁ。ほらリコちゃん、笑って笑って」
「ううー、ありがと……」
「だいじょぶだいじょぶ、落ち着けリコっ!」
二人が笑いながら私の頬をぷにぷにと摘み続けても、ハヤトくんとエミリさんは、一度もこちらを振り返らずに話し込んでいた。
通されたリビングには、二人の男の人がいた。単着物を着た白髪の男性と、スウェットのセットアップを着ているスマートな中年男性。ハヤトくんのお父様とお兄さん、ホマレさんとフミタカさんだ。二人はローテーブルに何かの書類を広げて、すっかり話し込んでいる様子だった。
「ああ、ハヤトたちが着いたか。いらっしゃい、よく来てくれたね」
エミリさんが声をかける前に、ホマレさんがソファーから立ち上がる。フミタカさんは書類を片付けながら、笑顔で軽い会釈だけをした。
「君はサツキくんだね?」
「はい、サツキタケルです。お世話になります」
「こちらはアオイさんかな、大きくなりましたね。あなたがまだ赤ちゃんだった頃、一度だけ会ったことがあるんですよ」
「わぁ、そうなんですか!」
一人ずつ言葉をかける姿が、私の中にあったイメージを丁寧に崩してゆく。その視線が私へ向けられた途端、ホマレさんの目尻はますます下がってしまった。
「リコさんだね。はじめまして、ハヤトの父です」
「オノミチリコです……はじめまして。お目にかかれて嬉しいです」
「リコちゃん、うちの弟めんどくさいでしょ。迷惑ばっかりかけてるんじゃない?」
「あっ、いえ、そんなことはないです!」
フミタカさんが笑いながら茶化してきて、私はそれを否定しながら、謝るなら今ではないだろうかと迷っていた。ハヤトくんの人生を変えてしまったこと、ご家族へも迷惑をかけてしまったこと――私は、それを謝りたくてここに来たのだ。
きっと私は、良く思われていないだろうと思っていた。面と向かって罵られることはないとしても、嫌味の一つくらいは覚悟していた。笑顔で温かく迎えてくれたホマレさんは、きっと優しい人なのだろう。
だからこそ、後回しにしたら、きっと言えなくなってしまう。
この和やかな空気を、壊すことができなくなってしまう。
「あのっ、私、ずっとお詫びを言いたかったんです!」
予想もしないだろう私の言葉を受けて、ホマレさんもフミタカさんも、驚いたように私を見つめた。上手な話の切り出し方なんて、今の私にはわからなかった。
勘付いたらしいハヤトくんが、リコ、と私の名前を呼ぶ。余計なことは言わなくていい、そう言われるような気もした。
だけど私は、絶対にごまかしたくなかった。きっとそう遠くない将来、一生ものの縁続きになる人たちだ。まあいいか、で済ませることなどできない……したく、ない。
「私のせいでハヤトさんが、大学を辞めることになってしまったのは、ご存知ですか?」
「ああ、そのことですか……復学の費用を出す条件として、理由は全て話して貰いました。ハヤトが考えて決めたことです、あなたが謝ることではありません」
「ですが……」
「むしろ私は、あなたにお礼を言いたいんです」
謝罪を口にする前に、ホマレさんは穏やかな口調で、私の言葉を遮った。
「今回のことでようやく、ハヤトが会いに来てくれたんです。ずっと会うことは叶わなかったし、学費以外の養育費すら、一度も受け取っては貰えなかった。だけどこれでやっと、少しは父親らしいことがしてやれます……つまりあなたは、私とハヤトを繋いでくれた恩人なんですよ」
ありがとう、とホマレさんは言った。その声が本当に優しくて、私の涙腺は緩んでしまう。気を遣ってくれているだけかもしれないけど……嫌われるよりは、うんといい。
ホマレさんはハヤトくんへと視線を向けて、ほらご覧、と呆れたように言った。
「先にきちんと相談しないから、こうやってずっと気にしてしまうだろう? そんなところまで母親似で参るよ、絵筆より人間と対話しなさい」
「母さんよりはマシだと思うんですがね」
「残念だが、本当にそっくりだよ」
「……反省します」
ハヤトくんが耳まで赤くなり、それを見たみんなが笑い出す。だけどエミリさんだけは、なんとなく浮かない顔をしていた。
挨拶を済ませた後、私たちは一階の客間に案内された。裏庭に面した和室だった。
「女の子はここを使ってね。ハヤトさん、サツキさんはあなたのお部屋でいいわよね?」
構いませんよ、とハヤトくんが廊下の奥へ視線を向けた。
「この前来た時に使っただけの部屋だから、俺の荷物は特にないんだ」
「あら、いつでも越してきて構わないのに」
悪戯っぽく笑うエミリさんが、ハヤトくんの腕に触れた。さすがに私もムカッとしたけど、ますます仏頂面になったヒマちゃんの方が心配だった。どうか爆発しませんように……心の中で祈ってみるけど、どこの神様にも届く気がしない。
「一階の音はほとんど二階に響かないから、自分の家みたいに寛いで下さいね」
荷物を置いたらお昼ご飯にしましょう、と微笑んだエミリさんは、そのまま二階へと戻って行った。男の子二人は廊下の奥へと消えて行き、私とヒマちゃんは客間に入ってバッグを下ろした。
「……リコ、私、あの人ほんっと無理なんだけど」
とうとう我慢できなくなったらしいヒマちゃんが、苛立ちを吐き捨てるように「無理」と繰り返した。
どうにかヒマちゃんの心を落ち着けてからリビングへ戻ると、エミリさんが昼食の支度をしているのが、バーカウンター越しに見えた。みんなはソファーに座ったけれど、フミタカさんもキッチンをウロウロしてるし、大人数だし……思い切って、声をかけた。
「何か、手伝えることはありますか?」
驚いた様子で一瞬手を止めたエミリさんは、お客様にそんな、と困った顔をした。
「支度が出来たら呼びますから、ゆっくりしていて下さいね」
「よかったら、親父の相手をしてくれる? 俺が追い払っちゃったんだよね」
二人にそう言われて、私もリビングで待つことにした。ホマレさんはソファーに座って、ご機嫌でテレビにかじりついている。
「海外で年を越すことが多いのだけどね、今年は日本にいられて良かった。こうしてゆっくりテレビを見るのも、随分と久しぶりなのだけれど……最近は、こういう番組が流行りなのですか?」
テレビの中では、有名なお笑い芸人が集まって、罠だらけの運動会みたいなことをしている。そうでもないですよっ、とヒマちゃんが明るく返事をした。
「こういうのは、年末の定番って感じなんですよ!」
「なるほど……いや、退官してからはどうにも、世情に疎くていけません。孫の一人もいれば違うのでしょうが、それは私が選べることではありませんので」
「俺が孫みたいなものでしょう。母さんと兄さんは、大学の同期だったんですし」
ハヤトくんが笑いながら、さらりと凄いことを言った。オリエさんとフミタカさんが、大学の同期生……同世代だとは知っていたけど、そんなに近い距離にいたのか。
「そうそう、もともと俺がオリエに惚れてたの。それで何度も家に誘ってたら、俺とじゃなくて、親父と仲良くなっちゃった」
ちょうど私たちを呼びに来たらしいフミタカさんが、あっけらかんと、ホマレさんたちの馴れ初めを暴露した。
息子の想い人と結婚するって、よっぽどのことだ。そんなに好きになったのに、ハヤトくんが生まれたら、オリエさんとは別れてしまった。ハヤトくんはそのことを「産むだけ産ませて放り出した」と言ったけれど……本当に、そんな酷い話だったのだろうか。
「私をダシにするから、そういうことになるんだよ。自分の魅力で勝負しないと」
「うわー、容赦ない親父だよなぁ、ほんっとに!」
「それで義姉さんに出会えたんだから、良かったじゃないですか。おそらく母さんの頭は、脳の代わりに顔料が詰まってますからね」
「ハヤト、それお前が言うか?」
フミタカさんが愉快そうに笑い、つられて全員笑ってしまう。それでもエミリさんだけは、やっぱり浮かない表情だった。
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