第六十九話 それは優しさゆえのこと

 帰り道、ヒマちゃんもハヤトくんも無言だった。和ませようとするフミタカさんが、ずっと一人で喋り続けていた。

 帰宅した私たちを出迎えたエミリさんは、雰囲気を察知した途端「甘いものでも用意しますね!」と二階へ駆け上がって行った。


「兄さん、義姉さんに気遣いは無用だと伝えて下さい。ヒマ助は少し頭を冷やせ、自分がやったことの意味を考えろ。いいな!」


 ヒマちゃんを叱りつけたハヤトくんは、私やメイくんには目もくれず、自分の部屋へ入ってしまった。ヒマちゃんは弾かれたように客間へ飛び込み、わああ、と泣き出したのが聞こえた。


「あれ、冷静じゃないのはハヤトの方だね……僕、ちょっと話をしてくるよ」


 メイくんはハヤトくんの後を追い、廊下には私とフミタカさんだけが残された。


「なんだか、悪かったね」

「いえ……こちらこそ、お正月からこんな空気にしてしまって」


 それだけ言葉を交わして、そのあとは沈黙が続く。知らなかった、とフミタカさんが漏らした。半ば独白のような言葉を、私はそのまま聞くことにした。


「ハヤトがあんな風に思ってたなんて……親父は、別れたくなんかなかったんだよ。責められるべきなのは、後のことを考えなかった俺なのにね」


 力なく笑ったフミタカさんは、落ち着いたらリビングにおいで、と言い置いて二階へ上がって行った。

 ハヤトくんへの支援を「償い」だと言ったフミタカさんは、今も自分を許していない。二十年もの長い間、罪の意識を抱えたまま生きている。

 もしかして、エミリさんがあんなお願いをしてきたのは、フミタカさんの心を守るためだったのではないか。

 罪悪感を抱えて生きるのは、とても辛いこと――エミリさんの言った言葉は、私たち二人だけじゃなく、フミタカさんのことも指していたのだとしたら。

 辻褄が、合ってしまった。つまりヒマちゃんは、一番言ってはいけないことを言ったのだ。

 どうすればいいの、と思わず声が出た。眩暈がした。


 客間へ入ると、ヒマちゃんは部屋の隅に置かれたちゃぶ台に突っ伏していた。もう声をあげてはなかったけれど、涙はまだ止まっていないようだった。

 私が声をかけるより早く、ヒマちゃんが「ひどい」と呟いた。


「私、間違ったことなんて言ってないのに……!」


 正しいからって何でもぶつけていいわけじゃないよ、なんて、今のヒマちゃんには言えない。それこそ軽率に責められない。私は隣に座って、何も言わずに背中を擦った。


「ねぇ、ハヤトくんと、ちゃんと話そう」


 しばらく背中を擦り続けたあと、私はそれだけを言った。他に言えることはなかった。ヒマちゃんはこくりと頷いて、ふらりと立ち上がった。


「話、してくる」

「一緒に行こうか?」

「大丈夫、一人で行って来る……ありがと、リコ」


 ヒマちゃんは、おぼつかない足取りで廊下へ出て行った。客間に一人残された私は、窓からぼんやりと裏庭を眺めた。

 お正月を一緒に過ごそう、ただそれだけだったはずなのに、どうしてこうなったんだろう。私たちは、石橋家ここへ来るべきではなかったのだろうか。

 気が滅入ってしまいそうで、私は二階へ足を向けた。


 リビングでは、フミタカさんが一人できな粉餅を食べていた。テーブルには大皿に盛られた餅の山と、小皿と割り箸が五人分置かれている。どうやらエミリさんは、全員分の「甘いもの」を用意してしまったらしい。


「あっ、リコちゃんも温かいうちに食べなよ」


 何事もなかったように、フミタカさんが笑う。私も笑顔を作って、いただきますと小皿を受け取り、彼の隣に座った。

 お餅を一つ食べてみると、きな粉の甘さが控えめでおいしかった。エミリさんはお料理が上手だ。


「さっき、アオイちゃんが言ったことだけど」


 唐突に切り出されて、上手く相槌が打てなかった。気にする様子もなく、言葉は続いた。


「リコちゃんに出会って、ハヤトの呪いは解けたんだと言ったよね。それはつまり、二人は結婚を考えてるってことで、いいのかな」

「はい」

「おっ、即答だね。俺が二十歳の頃は遊ぶことしか考えてなかったけど、今の若い子ってすごく現実的だよね。じゃあ、未来の義妹に聞いて貰おうかな」


 フミタカさんは、何故か嬉しそうな顔をした。


「腹違いの弟が二十年ぶりに、いきなり家を訪ねて来てね。いったい何事かと思ったら、大学辞めました、学費を出して頂いたのに申し訳ありません、そう言って土下座を披露した。すごいよね、笑ったよ。お父様と結婚させて下さいって土下座した母親と重なってさ、完全にデジャブ」


 唐突に、そして饒舌に、思い出話を語り出す。その目には、少し涙が光っているように見えた。


「俺たちにとって、生まれた時から今までずっと、ハヤトは石橋家の一員なんだよ。赤ちゃんだった頃のこと、俺も親父もちゃんと覚えてる……決して捨てたつもりはない。だからこそ、石橋の姓を残して貰った。君はわかってくれるかな」

「わかっています、兄さん」


 私が返事をする前に背後から声が聞こえて、振り返るとハヤトくんが立っていた。その後ろにメイくんとヒマちゃんもいる。ヒマちゃんは暗い顔のままだった。


「夏にここへ来た時、驚きました。まだ兄さんにしか名乗っていなかったのに、俺を見た親父の第一声は、ハヤトか、でしたね」

「俺も一目でわかったよ。横顔がオリエそっくりなんだ、男版オリエだ。あの時の親父、本当に嬉しそうだったなぁ」


 目に浮かぶようだった。きっとホマレさんは、目を細めて穏やかに微笑んだのだろう。ドラマみたいに劇的でなくても、それは幸せな再会だったに違いない。


「俺は最初、親父も兄さんも信用してなかった。だけど聞いてた話と印象があまりに違って、ずっと何故なのか考えてた」


 ハヤトくんが後ろを振り返る。ヒマちゃんは変わらず暗い顔で、じっとハヤトくんを見つめていた。


「ヒマ助、俺、気付いたんだ。母さん自身は一度だって、この家のことを悪く言わなかった。それが答えだったんだよ……俺は祖父さんが言ってたことより、目の前にいる人たちを信じたい」


 ヒマちゃんは納得できてないという顔で、バカ、と何度も繰り返した。


「ハヤトのバカ……それって、イシバシの家のひとになるってことだよね。あんなド田舎にはもう帰らない、私なんかもういらない、そういうことだよね?」

「違う、そうじゃない。帰ることのできる家が、二つになっただけだ」

「ダメダメ、ハヤト、もう少し寄り添ってやらなきゃ」


 フミタカさんが言葉を挟み、ハヤトくんだけでなく、ヒマちゃんも動きが止まった。


「アオイちゃんは、ハヤトを取られると思ってるんだね。大丈夫、俺たちはそんなつもりはないよ。アオイちゃんからも、オリエからも、ハヤトを取り上げるなんてことはしないよ」


 フミタカさんは立ち上がって三人の方へと近付くと、ヒマちゃんと目線を合わせて話し始めた。


「ハヤトの抱えていたものを、アオイちゃんが教えてくれたおかげで、俺たちはもっと兄弟らしくなれると思うんだ……隠さずにぶつけてくれて、感謝してるよ」


 子供をあやすような、優しい声だった。ヒマちゃんは恥ずかしそうに俯いてしまう。


「ごめんなさい……」

「いいんだよ。アオイちゃんはああやって、ハヤトを守ってくれていたんだね。ありがとうって、お礼を言ったらおかしいのかな。君たちも兄妹みたいなものだものね。でも言いたいな、ずっと頑張っていた君に」

「えっ、あ、えっと……?」


 ヒマちゃんが、頬を赤くしてうろたえ始めた。フミタカさんは、ハヤトくんに声が似てるのだ。ハヤトくんなら絶対に言わないようなセリフは、こちらが恥ずかしくなってしまう。


「ハヤトの妹なら、俺の妹も同然だからね。ソファーへ行こうか、お兄ちゃんがお茶を淹れてきてあげるよ」

「え、ちょ、お兄ちゃんって!?」


 とうとうフミタカさんがヒマちゃんの肩を抱き、メイくんの顔が引きつった。そしてハヤトくんは、部屋の入口を見て固まっていた。


「お茶は私が淹れてきます。フミタカさん、可愛い妹ができて良かったですね」


 空のビール瓶を運んできたエミリさんが、真顔でキッチンへと入って行った。


 どうにか和やかに迎えた翌日、福海へ帰る飛行機は午前中の便だったので、朝食を取ってすぐに空港へ向かうことになった。

 手配したタクシーへ乗り込む時、ホマレさんがお年玉だと言って、私たちに白い封筒を手渡してきた。


「今年のお正月は賑やかで、実に楽しい思いをしました。良い一年になりそうです。ハヤト、またいつでも帰って来なさい」

「そうですね、また近いうちに……帰って、きます」


 ハヤトくんは照れながら、さっさとタクシーへ乗り込んで行った。あの照れ屋は誰に似たんだろうなと笑うフミタカさんの隣で、エミリさんが私に手招きをした。


「リコさんが一緒に帰って来る日、お待ちしてますからね。私、何だかリコさん、他人だと思えないんですよね……」


 エミリさんの言いたいことは、なんとなく理解できた。きっと私たちは同類なのだ。


「はぁい、また帰って来ますねっ☆」

「あっ、やっぱり!? あーん、やだぁもう♡」


 リコリス声で返した私に、エミリさんが同じトーンではしゃぐ。みんなが呆気に取られる中、察したらしいメイくんだけが、必死に笑いを噛み殺していた。


 空港へ向かう車中で、さっそくヒマちゃんが自分の封筒を開け始めた。


「お年玉って言ってたけど、お金じゃないよね。何だろうな~」


 ヒマちゃんが取り出したのは、葉書サイズの水彩画だった。弾ける笑顔のヒマちゃんが描かれていて、小さく『笑顔で』と書き添えてあった。


「えっ、すごい、石橋イシバシホマレの直筆だぁ!」


 ヒマちゃんが、弾んだ声を出した。きっとこの絵は、世間的にも「価値あるもの」なのだろう。だけど、ホマレさんが私たちにくれたのは、金銭的な価値ではないはずだ。

 私も封を開け、ホマレさんの想いを、そっと手の上に乗せた。

 描かれていたのは、青空の下で笑う振袖姿の私と、翼を広げたハヤブサ。そして『末永く』という一言だった。


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