第六十四話 君をもっと、愛をもっと

 ハヤトくんの抱えてきた荷物は、お昼ご飯を買ってきたというコンビニの袋と、駅前にあるティールームの紙袋、それとは別の小さな無地の紙袋、そして大きな黒いバッグだった。確かこの大きなバッグは、美術科の子たちが使うキャンバスバッグだ。


「そのキャンバスバッグ、何を持って来たの?」

「ああ、後で見せる。先にメシ食った方がいい、普通に食えそうか?」

「うん、食欲はあるから平気」


 ハヤトくんは私をソファーに座らせると、テーブルの上にコンビニごはんを並べていく。レトルトのおかゆとスポーツドリンクに続いて出て来たのは、オードブル仕立てのサンドイッチにローストビーフサラダ、レジ横で売ってるフライドチキン……どれもこれも、クリスマス仕様。つまんないって拗ねてるの、きっとバレちゃってたんだろうな。


「コーヒー淹れてくるよ、マグカップは猫のやつだな?」

「うん、食器棚にあるー。できたらカフェオレがいいなー」

「わかった、冷蔵庫開けるぞ。ケーキは夜にしよう」


 私がサーモンサンドに手を伸ばしたのを見届けてから、ハヤトくんはティールームの紙袋を持ってキッチンへ立った。いつも私の好みで出てくる特製カフェオレが、久しぶりに飲みたかった。


 今日は泊まるつもりで来た、とハヤトくんが言った。

 嬉しかったけど、両親に黙って泊めるわけにはいかないので、一応お母さんへメールを送る。さすがに叱られるかと思ったけれど、すんなりとお父さんの許可が下りた。おそらく信頼されているのは、私じゃなくてハヤトくんだ。

 食事を済ませて薬を飲むと、当然のように「寝てろ」と言われて、私はしぶしぶ自室のベッドに潜り込んだ。ハヤトくんは荷物を本棚の前に寄せて置くと、ベッドを背にして床に座り込み、自分で持ってきた美術系の雑誌を読み始めた。

 今日のハヤトくんも、頭の中は絵のことでいっぱいだ。そんな彼の姿に、なんとなくホッとする。長いこと描けてなさそうだったし、このまま絵の世界から遠ざかっていくんじゃないかと、少しだけ怖かったから。

 安心した私は、大人しく寝ようと目を閉じた。部屋に響くのは、彼が雑誌をめくる音だけ。その気配が心地良かった。

 しかし、私は彼が来るまで眠っていたのだ。いくら風邪薬を飲んでるといっても、そんなにぐうぐう眠れない。眠ることを諦めた私は、しばらく彼の背中を眺めていたけれど、それもすぐに飽きてしまった。


「ねー、退屈ぅー」


 厚地の白いシャツがキャンバスみたい、なんて思いながら背骨のラインをなぞってみると、彼はくすぐったそうに笑いながら振り返った。


「眠れないか?」

「さっきまで寝てたし、鼻水さえなければ元気なんだもん」

「そうか。じゃあ、ちょっと見てくれるか?」


 ハヤトくんは立ち上がって、バッグの留め具を外し始めた。私はベッドに腰掛けて、いったい何が出てくるのかと、黙ってその手を眺めていた。


「どうしても今日、リコに見せたかった」


 見慣れた大きさのキャンバスが、バッグの中から現れた。描画面を保護するためなのか、同じサイズのキャンバスを二枚合わせて、金属製のクリップで留めてある。彼はそのクリップを外して、保護用のキャンバスを裏側に重ねた。


「今更だが、仕上げたんだ」


 本棚に、キャンバスが立て掛けられた。構図に見覚えのある裸婦画は、淡い色調の世界に仕上がっている。顔をぼかすと言っていたはずのその絵は、私だとはっきりわかるように描かれていた。


「きれい」


 絵の中にいるのは自分なのに、思わずそう呟いてしまった。自分を褒めているみたいで、ちょっと恥ずかしい。ハヤトくんは嬉しそうに微笑みながら、そうか、と頷いた。

 絵の良し悪しなんてわからないけど、素直に綺麗だと感じた。陽だまりで猫のように寛いでいる私はどこか無防備で、幸せに満ちているような、とても柔らかな表情をしている。彼の絵筆は丁寧に、私たちの間にあった穏やかな空気ごと、あの夏の日々を写し取っていた。


「この絵が俺たちの始まりだから、無かったことになんて出来なかった。あの時の俺たちにしか描けなかったものを、ちゃんと残しておきたかったんだ」


 彼はキャンバスを元通りにクリップで留めると、元いた場所には座らず、今度は私の隣へと腰を下ろす。ベッドがきしんで、彼の温かな手が頬に触れた。


「母さんが余計な話をしたみたいだが、俺はどこにも行かない。これからも、俺はリコを描き続けるよ」


 彼の唇が、私の額にそっと触れた。すごく嬉しかったけど、胸の奥がきゅう、と苦しくなった。

 ハヤトくんが何かを諦めるのは、もう嫌なんだ。

 私のせいで退学したハヤトくんは、その後に用意された道も捨ててしまった。この街に残るといい、就職活動を視野に入れて動き出した。まるで人が違ったように、いわゆる「普通の道」を選ぼうとしている。

 彼は周囲に一目置かれ、時には羨まれ、教授たちには期待されているような、そんな才能溢れる人だ。ぼんやりと生きてきた私とは違う。きっと掴める夢があるのに、追いかける力があるはずなのに、そんな未来でいいわけがない。


「ハヤトくんの行きたい場所へ、行って欲しいの」


 前にも一度は伝えた思いを、改めて言葉にする。その時のことを覚えていたのか、知ってるさ、と彼は笑った。


「俺だって、今も変わっちゃいないよ。俺の行きたい場所は、リコの隣しかないんだ」


 ハヤトくんの返事も、その時と同じだった。一秒でも長く隣にいたいと、そう言ってくれたことだって、私はちゃんと覚えている。

 お互いに同じ気持ちなのに、次々といろんなことがありすぎて、ずっと迷ってばかりだった。

 だけど今なら、ハヤトくんの夢を、一緒に追うことができるはずなんだ。


「行きたいところへ、行って! もう福海に残る理由はないし、私、どこまでだってついて行くから!」


 明るい笑顔で、きっぱりと言い切った。喜んでくれると思ったのに、彼は浮かない顔をした。


「はっきり言葉にしないと、わからないんだな」


 立ち上がったハヤトくんは、まとめてあった荷物の中にある紙袋へ手を伸ばす。その中に入っていたのは、手のひらに乗るくらいの小さな箱だった。何かアクセサリーのようだけど、紙袋にも小箱にも、ブランドを示す表示は何もなかった。

 彼は私の前で跪くと、小箱を開けてこちらへ向けた。箱の中でひっそりと鈍く輝いていたのは、双翼をモチーフにしたシルバーリング。細身で可愛らしい形状だけど、羽ばたくようなデザインには、どことなく力強さも感じる。

 少しだけいびつなのは、おそらく彼が自分で作ったんだろう。ハロウィンの衣装を作っている時、カメヤンが純銀粘土の加工の仕方を教えていたのを思い出した。


「俺はいつか、リコと結婚したいと思ってる。だから安定した仕事を探すし、互いの実家が近い福海に残る。余計な苦労はかけたくないんだ、それに――」


 ハヤトくんは一呼吸置いてから、待ちたいんだ、と言った。


「もしかしたら、リコが本当の夢を見つけられるかもしれない。それが俺の夢と両立できなければ、リコは何も言わずに諦めるだろ? だからそれまでは、俺も無謀なことはしないよ」

「それは……」

「一緒に歩き始めた道を、簡単に違えるようなことはしたくない。親父と同じようなことは、絶対にしたくないんだよ」


 お父様の話を出されると、それ以上は言えなかった。黙った私を見て、彼は軽く目を伏せた後、ケースから指輪を取り出した。


「今、これを渡すのは、ずるいか?」

「ううん、ずるくなんかない」


 今日の為に用意してくれたプレゼントが、手作りの指輪だったこと。それは本当に嬉しかったから、私は笑顔で左手を差し出した。左手に嵌めて下さい、という合図。彼は戸惑うように目をしばたたかせた。


「薬指用だぞ、左手でいいのか」

「左手がいいの」

「そうか。俺も、左手だと嬉しい」


 ようやく口角を上げた彼の手で、薬指に指輪が嵌められた。少し緩めだけど、すっぽ抜けたりクルクル回ったりするほどではない。


「すごい、どうしてサイズわかったの?」

「メイから聞いた。アイツは本当に、何でも知ってるんだな」


 そう言った時のハヤトくんは、少し拗ねているようにも見えた。別に特別な指輪を贈られたことがあるわけじゃなくて、単に衣装としてのアクセサリーを用意することがあるからだ。本当にそれだけなんだけど、何だか申し訳ない気分だった。


「このデザイン、すごく可愛いね」


 指輪を褒めると、ハヤトくんは何故か視線を逸らして、ハヤブサだ、と言った。

 ハヤブサはハヤトくんの鳥だ、彼が自分の持ち物にあしらう意匠だ。この指輪を身に着けていたら、私もハヤトくんの持ち物になっちゃいそうだ。


「私、ハヤトくんのものになっちゃう」

「嫌か?」


 ふざけたつもりが、真顔で問われた。嫌だなんて思うわけがない。私はハヤトくんのものだし、ハヤトくんだって私のものだ。


「嫌じゃない。私はもう、ハヤトくんのものだもん」

「そうだな……俺も、リコのものだ」


 言ったことと言われたこと、そのどちらも恥ずかしくて、照れてしまう。

 会話が途切れると、彼の腕は私を優しく抱いた。二人でベッドに転がって、抱き合いながら唇を重ねる。

 この幸せな気持ちのまま、彼とひとつになりたかった。


「ねぇ……しよ?」

「できるわけないだろ、風邪が悪化するぞ」

「薬効いてるし、平気だよ」

「それは平気とは言わんだろ、アホか」


 むぅ、と拗ねる私にデコピンをしながら、ハヤトくんは楽しそうに笑っていた。


 結局どこにも出かけないまま、ずっと家の中で過ごした。世話を焼きに来たのだと言い張る彼に、私はひたすら甘やかされっぱなしだった。

 SNSで報告したくなるようなデートはできなかったけど、私たちはそれでいいのだ。

 帰宅したお母さんにからかわれる程度には、二人揃って顔が緩んでいたのだから。

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