第六十二話 偏屈息子の描いてた夢は
ヒマちゃんが三回も鼻をかんだところで、オリエさんが壁に飾られた油絵へ視線を向けた。
「高校時代の部活仲間と、いつかグループ展をしたいわねって、随分前から話していてね。みんな子供が大きくなって、ようやく実現したのよ。私だけさっさと産んじゃったから、ずっと待ってたの!」
カラカラ笑うオリエさんは、格好良く見えた。ハヤトくんからは「ずっと苦労してきた人」だと聞いていたけど……とてもそんな風には見えない。素敵だ。
「そこのシバタくんが部長だったんだけど、全然描かなくなっちゃったのよ」
「俺は、東京の美大に行くような才能なんてないからさ」
話を振られたシバタさんは、そう呟きながら後ろを向いて、背後の棚からカップとソーサーを取り出した。こちらへ向き直った時には笑っていたけど、そんなシバタさんに、オリエさんは不満気な視線を向けた。
「才能だけで描ける絵なんか、ないわよ」
「あ、いや、努力の結果なのはわかってるよ。オリエの才能は、努力の才能」
肩をすくめたシバタさんは、手元のカップにコーヒーを注いで、オリエさんの前にあった空のカップと入れ替えた。
オリエさんはブラックのまま口をつけ、ほう、と軽く息を吐く。
「確かに、受験勉強は死ぬほど頑張ったわね」
「それなのに、あっさり辞めちまうんだもんな」
「仕方ないでしょ、人生は色々あるんだから。その時々で、全力出すしかないの」
コーヒーカップを揺らしていたオリエさんの視線が、突然私の方へと向いた。
「リコちゃんは、夢や目標ってあるの?」
その言葉を聞いて、オリエさんの背後でヒマちゃんが、私を見ながら両手を合わせて謝る仕草をした。返答に困る問いだけど、適当な答えでごまかす気にはなれなかった。
「えっと、ちょっとまだ、自分でもハッキリしないんです」
「でも、ボンヤリしている何かはあるのね?」
私が素直に頷くと、オリエさんはうふふ、と嬉しそうに笑った。
「真剣に迷うことができるのなら、きっと大丈夫よ。うちのバカ息子なんて、迷いもしないで突っ走るから……母は正直申しまして、あの子の扱いに大変困っております」
オリエさんのその言い草に、シバタさんが吹き出して笑った。ヒマちゃんも笑い転げていて、クシャミとの合わせ技で息も絶え絶えといった有様。私はどうにか持ち堪えた。
みんな、同じように思ってるんだ。ハヤトくんは何かを決めたら、そのまま突っ走ってしまうんだって。もう一つ付け足すなら、相談すらしてくれない。言われる時には既に決定事項だ――そこまで考えて、とうとう口元が緩んでしまい、オリエさんが楽しそうに私の顔を覗きこんだ。
「ねぇ、ハヤトの夢を聞いたことはあるかしら?」
「夢……?」
何ですか、と聞こうとすると、ヒマちゃんがいきなり立ち上がった。
「オリエちゃん! それ、リコには言わないでくれってっ、くちゅん!」
「んー、あなたたち、すぐにそうやって二人で秘密作るのよくないわよ?」
「そーだけどおおぉ!」
「その役目、そろそろ恋人に譲りなさいな」
「わかってるけどっ、でも今は待ってえぇ……うぇっくし!」
ヒマちゃんが、必死だ。こんなやり取りを見てしまったら、ハヤトくんに直接聞かなきゃいけない気がする……けれど、不満だったりもするのだ。私に言うなと頼んだのなら、それは立派な隠し事じゃないか。
「聞かせて下さい、知りたいです」
頭を抱えるヒマちゃんをスルーして、オリエさんは深く頷いた。
「あの子ね、世界を旅するのが夢なの。いろいろな土地の風景を描きに行きたいんだって。本当に浮世離れしてるでしょ、うちの偏屈息子」
「今は違うよ、っくしゅん! 現実味のない子供の夢だって、ハヤト言ってたし!」
「あら、大学に入る前は、タイミングを見て留学する気だったじゃない」
「それはもう行かないって決めたじゃん!」
「こんな可愛い彼女ができたんだもの、そりゃ今は離れたくないわよ。でもね、ああいうのはずっと心に残るわよ」
ヒマちゃんが強引に訂正しようと割り込むけれど、オリエさんはお構いなしだった。全てが初耳の私は、何を言うこともできない。だってハヤトくんは、それらしいことすら一度も言わなかった。私を置いて海外になんか行けないと、弟子入り話を断ったくらいなのに。
つまり、私がいるから諦めてしまったのだろうか。だとすれば、私の存在は何なのだろう。情けない思考が、感情を黒く塗り潰してくる……ああ、だからハヤトくんは、私には内緒にしようとしたんだ。
「オリエちゃん、また言い出したら止めるでしょ?」
ヒマちゃんはどうにか話の流れを「心配いらない」という方向に持っていきたいようだった。だけどもしそうなった時、私は彼を止めるだろうか……多分、止めない。ハヤトくんが言い出す時には、もう誰にも止められない。
私の考えを裏付けるように、無理よ、とオリエさんが言った。
「成人した子供の生き方なんて、止めようがないわよ。私だって、周りの反対押し切って結婚はするし子供は産むし、やりたい放題だったもの」
「えー!?」
「ホマレさんとフミタカくんが焚き付けてるし、アンジョウさんまで応援するなんて言っちゃってるし」
オリエさんが口にする名前を、私は一人も理解できなかった。盛り上がる二人を黙って眺めていると、シバタさんが小声で話しかけてきた。
「ホマレさんはハヤトくんのお父さん、フミタカくんはお兄さんだよ。アンジョウさんは、ハヤトくんが心酔してる画家の先生」
こっそり解説されている私に気付く様子もなく、オリエさんとヒマちゃんは止めるの止めないのと言い合っている。なんか置いてけぼりだけど……それは、私自身のせいかもしれない。ハヤトくんの夢も憧れも、私は何も知らなかった。先生の名前も、その人がどんな人なのかも、どんな絵を描く人なのかすら。
何となく、別の世界の話みたいに思っていた。どうせ知ったところで理解なんてできない、私は絵心も知識もないから――そうやって、最初から理解を諦めていた。
だけど、それでも、知ろうとするべきではなかったか。
自分のことだけで頭がいっぱいで、彼が隠そうとしていないことすら、私は知ろうとしなかったんだ。
「どんな人、なのかなぁ」
つい私が呟くと、シバタさんは渋い顔をした。
「気になるよね。でもごめん、俺はよく知らないんだ」
小声で話す私たちの真横で、オリエさんとヒマちゃんの攻防戦は白熱している。そんな二人を見たシバタさんの眉間のシワが、一段と深みを増した。
「うーん……作品や評価なら、スマホで検索してみたら出るんじゃないかな」
手近にあった紙ナプキンに、シバタさんがフリガナ付きで「
「この名前で検索してごらん」
「女性の方なんですか?!」
てっきり男性だと思い込んでいた私は大声を出してしまい、オリエさんとヒマちゃんがハッとした表情でこちらを見た。私を放っていたことに、ようやく気が付いたらしい。
「オリエ、
「そうよね、やだもうごめんなさいね。私、すぐに周りが見えなくなっちゃうのよ」
「私も私も! リコ、ホントごめんねー!」
シバタさんに叱られながら、顔をくしゃくしゃにして笑うオリエさんとヒマちゃんは、この二人が親子だと言っても信じるくらいに同じ表情だった。日向さんちの血筋はどこまでも陽気らしい……ハヤトくんはお父様似なんじゃないかな、多分。
「まぁ、そんな母親が育てた、変わり者のバカ息子なんだけど……良かったら、あの子のそばにいてあげて頂戴ね」
オリエさんの、その口調はとても穏やかで、優しかった。彼と一緒に生きていくことを、認めて貰えたような気がして――それが嬉しくて、たまらなかった。
「はい!」
勢いよく返事をした私を見て、オリエさんは微笑みながら、ハヤトのことをよろしくね、と言った。
シバタさんの作ったパスタを食べながら、オリエさんは私にいろいろと質問をしてきた。私自身のことだけでなく、ハヤトくんと話していて納得できなかったことも。
どうして急に退学なんてしたのか。そして、ずっと避けてきた父親に頭を下げてまで復学する気になったのか。その心変わりを、ハヤトくんは「ただの気まぐれ」で押し通していたらしい。
「あの子がそこまで馬鹿じゃないことくらいは、一応わかっているつもり。だけど、どうしても聞き出せなかったのよ」
そんな風に言われて、黙っていられるわけがない。ヒマちゃんは人差し指を立ててしー、しー、と何度も繰り返していたけれど、私は話をすることにした。
ハヤトくんに届いた手紙と、その内容。私を守るために、退学すると決めたこと。
スガ先輩やニッシーのことをうっかり口にしないよう、かなりたどたどしくなってしまった私の説明を、オリエさんは最後まで黙って聞いてくれた。一言も私を責めることはなく、それどころか、何故か嬉しそうに笑っていた。
閉店時間になったのでお店を出ると、外は本格的に雪が降っていた。足元の悪い道を、和装のオリエさんはサクサクと歩いて行く。
「二人はこのあと、どうするの? 私はハヤトのアパートに寄ろうと思うんだけど」
顔くらい見て帰らないとね、とオリエさんが微笑んだ。ヒマちゃんは何かを言いかけて、ずびっと盛大に鼻を鳴らした。
「アオイちゃんは、帰った方がいいかしらね」
「へーきへーき、ついてく! っくしゅん!」
「リコちゃんはどうかしら?」
お誘いは嬉しかったけど、彼との約束を守りたかったのでお断りをして、駅のホームで二人と別れた。オリエさんは、また遊びましょうねと言ってくれた。
帰りの電車の中で、三人の会話を想像してみる。ハヤトくんが口を挟む隙はあるのだろうか。
笑わない子供だったのだと、彼は言っていた。賑やかな家族の中で、一人だけ笑わない男の子……実家では、どんな風に過ごしていたんだろう。今は笑えているのだろうか。
明後日まで会えない彼を想いながら、窓の向こうで降りしきる雪を眺めていた。
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