第六十一話 私が先に会わなくちゃ!
部室でサークルのみんなと会った後、私はしばらくの間、他学部の友達とは会わなかった。
みんなの言葉はどれも頷けるものばかりだったし、メイくんの考えも思い当たることだらけだった。客観的に見れば、ザイツさんの誘いは断るべきなのだろう。だけど、この消えない思いをどうすれば良いのか――ハヤトくんが言う通り、一人で考える時間が必要なのだと思った。
同じ学部の二人は、ずっと私に付き合ってくれた。人文学部棟の休憩コーナーで、三人でお弁当を食べた。
メグミちゃんは「自分の生き方に責任持てるのは、自分だけだもんね」と言い、アイリちゃんは「後悔だけはしないでね」と、心配そうに何度も繰り返した。
年内最後の授業日は、朝から雪がちらついていた。
「それでは諸君、良いお年を。年明けの試験をお楽しみに」
五限目終了のチャイムが鳴り、挨拶に余計な一言を添えた教授が、意地悪な笑みを浮かべて講義室を出て行った。一瞬げんなりとした空気が流れたけれど、それでも冬休みの始まりに浮き足立っているのか、すぐに講義室は賑やかになった。
飲み会や遊びの誘いが飛び交う講義室を、三人揃ってさっさと退室した。去年は自力で断りきれず、何の集まりかもよくわからない飲み会へ連れて行かれたっけ……結局どこかで聞き付けたメイくんが居酒屋まで乗り込んで来て、先輩を言いくるめて助け出してくれたけど、もうそういうわけにもいかない。ちゃんと自衛しないと。
アイリちゃんが背伸びをしながら、うわーい冬休みだあぁ、と嬉しそうな声をあげた。
「ようやくレポートから解放されたし、今更だけどクリパの計画でも立てちゃうー?」
「クリスマスはみんなデートでしょ、無理無理」
「それもそっかー。じゃあ忘年会でも……あ、ニッシーは冬コミ行くんだっけ?」
「そう、ユズカちゃんと一緒に……なんだけど、なーんかチガヤもあっちで合流するっぽいんだよねー。正直さぁ、ワタクシ面白くありませんのよー」
「ユズカちゃん、チガヤちゃん大好きだもんね」
二人の会話を聞いていて、私はなんだか居心地が悪くなってしまった。とうとうこの二人の会話に、普通に「冬コミ」という単語が出てくるようになったんだなぁ……ピュアだった二人を汚しちゃったような気分だ。別に何も悪いことはしてないはずなんだけど、何だろう、この妙な罪悪感。
「メイくんも行くらしいけど、リコちゃんは行かないの?」
「わっ、私は……お金、ないから」
「そうだよね、交通費だけでも万単位だもんね。みんなお金持ちだよね」
「ニッシーはお母さんの実家が関東だから行けるんだって言ってた」
この会話、すごく心臓に悪い。私もハヤトくんたちと東京行きます、なんて言えない……ヒマちゃんが隠したがってるし、私が勝手に予定を言うわけにもいかない。冬コミ組にどこかで遭遇したりしないといいけど。
「カメヤンはバイト漬けだって言うし、予定ガラガラなのは私たちだけかぁ。私とメグは一緒に遊んでると思うから、リコちゃんも暇な日は声かけてね!」
「明後日、久々にイシバシくんと会うんでしょ? どーなったか報告すること!」
「はーい、じゃあまた連絡するねー!」
芸術学部棟へ向かう二人を見送ったところで、バッグの中のスマホが鳴った。通知を見ると、ヒマちゃんからのメッセだった。
『ずっと会ってなくて寂しいんですけどぉ! 明日から大学休みだし、今日こそ一緒にごはん食べようよぉ! 愛してるからデートしてよぉ!』
文面からヒマちゃん節が伝わってきて、すごく微笑ましい。私もそろそろ会いたかったし、一人でずっと考えてきたことを、ヒマちゃんに相談してみたくもあった。
だけど、今日のお誘いは、とてもそれどころじゃなかった。
ヒマちゃんが「市街地に行きたい」というので、駅前広場で待ち合わせをした。メイくんにプレゼントでも買うのかなと思って、特に理由は聞いていない。
しばらくすると、ちらつく雪の中、ベージュのダッフルコートを着たヒマちゃんが駆けて来た。顔の下半分を濃緑色のマフラーで隠しながら、鼻をズビズビと勢いよく鳴らしている。
「今日は寒いねー、大丈夫?」
「う、うちの田舎よりは寒くな、ぶえっくしゅん!」
どう見ても大丈夫じゃなさそうだけど、ヒマちゃんはさっさと券売機で切符を買った。私のIC定期券を見て「私も
「ヒマちゃん、風邪ひいてるんじゃないの?」
「だ、だいじょぶ……ふぇっ、くちゅん」
必死にクシャミをこらえながら電車に乗ったヒマちゃんは、福海駅へ着く頃には既にヘロヘロだった。それでも私の手を引いて、こっちこっち、と街中をズカズカ歩いて行く。鼻をズビズビと鳴らしながら。
「ねぇ、今日はやめておかない?」
「熱ないからだいじょう……ぶぇっくしょい!」
ヒマちゃん、そろそろ腹筋が爆発するんじゃないだろうか。それより先に、肋骨が悲鳴をあげるかもしれない。何がこの子をここまでさせるのだろう。どうせ冬休みなんだし、別に今日じゃなくてもいいじゃないか。
「そんな状態でご飯食べても、おいしくないんじゃ……」
「着いたぁ!」
私たちが口を開いたのは、ほぼ同時。ヒマちゃんが私を連れて来たのは、裏通りのテナントビルの一階にある、小さなギャラリーカフェだった。扉に貼られたポスターには『三人展~日向織絵・三雲佐緒里・柳原範美~』と書かれていて、ガラス越しに見える店内には、風景を描いた油絵や、ペンで描かれたらしい緻密な人物画が飾られていた。
「たまにはこーゆーのもいいでしょ……うぇっくちゅん」
このクシャミ連発状態でギャラリーカフェなんて、私なら絶対に入れない。しかしヒマちゃんは気後れする様子もなく、満面の笑みで扉に手をかけた。
「今日はね、オリエちゃんが来てるの。すっごくリコに会いたがってたんだよ」
オリエちゃんって誰、と再度ポスターを見る。
「あの、ヒマワリさん」
「ん?」
「もしかして、オリエさんって、ハヤトくんの……」
「そうそう、お母さんだよ。私の叔母さんっ、ぶぇくしっ」
「ぎゃあ」
奇声を発した私に、ヒマちゃんが笑う。そしてクシャミ。だけど私にしてみれば、ぎゃあ、だけで済んだのは奇跡だ。本音は大声で叫びたかった。お母様にいきなり会うだなんて、心の準備ができてないにも程がある。
しかも今日の私は、イノセントワールドのアメリアワンピースを着ている。レースとフリルのお嬢様スタイル……息子の彼女に対する印象として、こういう服装はどうなんだろう。
今朝の私は「お気に入りのお洋服で学校へ行って、どこにも寄らずにお家へ帰って、お母様と一緒にクリスマス用のクッキーでも焼こうかしらウフフ」みたいな気分だったのだ。ああ、もう、朝の自分を殴りたい。
「ねぇ、ヒマちゃん。今日の服装、思いっきりイノワなんだけど……彼氏のお母様に会う服装として、これは許されるの?」
「いつも通りのリコじゃん……うぇっくちょい!」
「先に言ってくれれば、もっと無難な服を選ぶんですけど!?」
「可愛いからいいじゃん! だーいじょーぶだってぇ! へぶしっ!」
強引に話をまとめたヒマちゃんが勢いよく扉を開けたので、観念してコートを脱いだ。なるようになれー。
さほど広くない店内には、エプロン姿の男性店員と和装の女性がいた。カウンターを挟んで親しげに喋っている。店員さんのエプロンに付けられた名札には「
和装の女性がオリエさんだと、一目でわかった。横顔がハヤトくんに似ている。座っているからはっきりしないけど、おそらく身長も高そうだ。
「オリエちゃん、来たよー!」
こちらを振り返ったオリエさんは、とても綺麗な人だった。白い肌に鮮やかな紅、ショートボブの黒髪は艶があって、いかにも大人の女性という感じがした。
ただ、服装に一過言ありそうな雰囲気もあった。黒紅色を基調とした縞柄の小紋、袖口と裾にレースをあしらった薔薇色の長羽織、足元は厚底のレースアップブーツ……親世代とは思えない個性だ。私のお嬢様コーデは、はたして受け入れて貰えるのだろうか。
「あら、来てくれたのね!」
オリエさんは、微笑みながら立ち上がった。やっぱり背が高い。ブーツを抜きにしても、百七十センチ以上ありそう……いいなぁ、素敵。
「はじめまして、ハヤトの母です」
「あっ、お、オノミチリコです……!」
深々と頭を下げられて、慌てて私も頭を下げた。脳内シミュレーションすらしていない私は完全に挙動不審、礼儀も作法もあったものじゃない。どうしても緊張してしまう。
「今日は寒いわね、何か温かいものでも頼むといいわ。シバタくんの奢りね」
「はいはい、一杯だけ奢らせて貰いましょ」
オリエさんを挟むように座った私たちに、メニュー表が差し出された。ドリンクのページを眺めるものの、内容が頭に入ってこない……決めかねている私を見て、お任せでいいよね、とシバタさんがティーポットを手に取った。
ふと会話が途切れたところで、呼び付けてごめんなさいね、とオリエさんが軽く頭を下げた。
「どうしてもお会いしたくて、アオイちゃんに無理を言ってしまったの」
「そーそー、今朝になっていきなり電話してくるんだもん! せっかく福海まで出るから、イシバシよりも先に会っておきたいって……うぇっくしゅん!」
「だって私がまだ話したこともないのに、あっちが先に会うなんて悔しいじゃない? 育ててきたのは私なんだもん、負けたくないじゃないの」
「別に勝ち負けじゃなくない? ぶぇくしょい!」
子供のように唇を尖らせるオリエさんに、ヒマちゃんがツッコミを入れた。
「オリエ、アオイちゃん完全に風邪だぞ……少しは心配してやれよ」
シバタさんは苦笑しながら、二人分のジンジャーティーを出してくれた。
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