第五十九話 君と僕に必要なステップ
メイくんは首元のマフラーを巻き直すと、私の方へ小走りに駆けてきた。
「リコちゃん、いま帰り?」
「うん、メイくんは?」
「僕は部室に行くところ」
部室と言っても、本物の部室じゃない。非公認サークルは学内の部室棟を借りられないので、私たちにとっての部室は、メイくんが借りているマンションだった。
「部室、そろそろ片付けるの?」
「違うよ、今日はミヤさんの招集。カメラマンは十九時までに全員集合」
ミヤさんというのは、うちの大学の四年生で、サークルでは最年長になる人だ。メイくんが敬語を使う唯一のメンバーで、いちおう副代表ということになっている。
「みんなに会うの、いつぶり?」
「あの騒動以来だね。ハヤトたちが誤解を解いてくれたらしいし、嫌な話じゃないはずだけど……あ、そうだ」
暮れゆく空を眺めていたメイくんが、急に私の顔を覗きこんだ。
「リコちゃんも、一緒においでよ」
「え、いいの?」
「ダメなんて、誰も言わないよ」
行ってもいいのなら、行きたい。もう半年近く会っていないんだもの……みんなどうしているのだろうと、ずっと気になってはいた。だけどサークルの約束で、私が連絡先を交換しているのはメイくんだけだったから、各自の近況など知る由もなかったのだ。
「じゃあ、行く!」
叫ぶような勢いで返事をした私を見て、メイくんは穏やかに微笑んだ。
今更になって顔を出してもいいのだろうかと、そんな不安が無いわけではなかった。だけど私はただ、サークルのみんなに会いたかった。たとえ叱られても、罵られても……もう一度、みんなの顔を見たかったんだ。
部室は、大学の正門から徒歩十五分くらいの距離だ。ニッシーの家とは逆方向に向かって、川沿いの道を二人並んで歩いた。
住宅街に入り、周囲に人気がなくなると、メイくんは私に向かって左手を差し出した。手を繋ごう、という合図だ。
高校時代の私たちは、周囲に誰もいない時だけ、手を繋いで歩くことがあった。それは別に、色気のある理由などではなかった。
きっかけは、初めてメイくんと一緒に同人誌即売会へ参加した時のこと。不慣れなパンプスを履いて行った私は、帰り道で見事に転び、同人誌を道路へぶちまけてしまって……メイくんは爆笑しながら本を一緒に拾ってくれて、それ以上転ばないようにと、手を繋いで家まで送ってくれた。
つまり、私はメイくんに「放っておいたら平坦な道で転ぶ人」の烙印を押されたのだ。
「危なっかしいお姫様、お手をどうぞ」
そのセリフがくすぐったくて、私はすごく懐かしい気分で、当たり前のようにメイくんの手を取った。
「久しぶりだね、こーゆーの」
「人に見られると、誤解されちゃうからね。ヒマワリちゃんやハヤトは、いちいち誤解なんかしないだろうけど」
そう言われると、さすがに気になった。誤解はしないと思うけど、嫉妬はするんじゃないのかな……慌てて離そうとした手を、メイくんが握りしめてきた。
「部室まで、こうしてて。僕たちは、ずっとこうやってきたでしょ?」
強引な彼の手を、解くことはできなかった。彼の想いを知らなかった頃の私は、この差し出される手を、友情の証なのだと信じていた。そして、私たちは今も親友だ。ずっと親友だと誓い合ったのだ。この手を無理に振り解けば、誓いを嘘にしてしまいそうだった。
メイくんは笑顔のまま、私の手を引いて歩き出した。
「そういやさっき、カメヤンと二人で会ってたね。エロガメに頭撫でられてたけど、あっちの方がよっぽど誤解されちゃうんじゃない?」
「えー、外から見てたの?」
まあね、とメイくんが苦笑する。もしかしたら、私が出て来るまで待っていたのかもしれない。
「気付いてたなら入ってくれば良かったのに、メイくんらしくなーい」
「いや、珍しい組み合わせだから、何か特別な話でもしてるのかなって」
「特別っていうか、心配してくれてた……あの書き込み、見たんだって」
別にやましいことはないし、黙っておく必要もないことだし、そもそもメイくん相手はごまかすだけ無駄だ。私が正直に言うと、メイくんは私の前へ回りこんだ。
「何を言われたの?」
メイくんの足が止まり、自然と私の足も止まる。近くの街灯がチカチカと音をたてて点灯し、私たちを照らした。
「断った方がいいと思う、って……あとは、夢を追うことが目的になっていないか、ただの意地になっていないか、考え続けるのが大事だって」
「うん、それで?」
「それで……カメヤンが、言う通りだった。せっかく初めて描いた夢なのにって、私が思ってたのは、ただそれだけだったの」
自分の頬が、熱くなるのがわかった。どれだけ自惚れていたのかを認めるようで、正直に打ち明けるのが恥ずかしかった。
「ザイツさんに誘われて、私は他の人とは違うんだって、だから追いかければ、特別な何かになれるかもしれないって、そう思って……」
「そう思うのは、仕方ないよ。実際に、リコちゃんを特別だと思ってる僕たちがいる。僕はザイツさんが嫌いだけど、あの人の目は確かだと思ってる」
「でも私、タウン誌や折り込みチラシに載りたいわけじゃない……自分でちゃんとわかってるのに、それなのに、断るって言えないの! 私、みんなが羨ましい! みんなみたいに、夢を追いかけてみたい!」
言い終えて、涙が溢れた。繋いでいた手がするりと解けて、メイくんは私を抱き寄せた。私が泣いてしまった時、メイくんはいつもこうやって、子供をあやすように私の背中を擦ってくれる。ふたりぼっちだった頃と、何も変わらない。
「その気持ち、わかるよ。僕もみんなが羨ましくなる」
「私は、自分の気持ちがわからないよ……私、どうしたいの? メイくんは、わかる?」
こんな時、必ず答えをくれるメイくん。頼りっぱなしの自分を変えたかったのに、またこうやって甘えてしまう……本当に、私はダメな女だ。
メイくんは、僕の考えでいいなら、と前置きをした。
「きっと夢って、追わずにはいられないものなんだよ。ハヤトを好きになった時みたいに、周りの都合なんて考えられなくなる……だから、リコちゃんのは夢じゃないと思う。他人の愛情が欲しいだけだと、僕は思う」
メイくんは自分のマフラーを外して、私の首にふわりと巻いた。厳しい意見を言う時も、なるべく私が傷付かないようにしてくれる……いつもの、メイくんだ。
「リコちゃんは、ハヤトだけじゃ足りない。僕や友達、サークルのみんながいても足りない。もっと多くの人に、自分の方を見て欲しいと思ってる……バカな女に付けられた心の傷を、君は必死で埋めようとしてる」
その仮説が、的外れだとは思えなかった。全てを掴みたかった私、女の子が苦手なままの私……ずっと一緒にいたメイくんの言葉だ。根拠なんて、いくらでもある。
「愛されたがりのお姫様は、いつも他人の顔色ばかり伺ってる。そんなことをしなくても、そのままの君を愛してる人はたくさんいるのに……それをわかって欲しくて、僕はサークルを作ったんだ。出会った頃のリコちゃんに戻る日が来るって、僕は今でも信じてるんだよ」
メイくんの言葉は嬉しかったけど、不思議だった。どうしてそんなにも深く、優しく、私なんかを見守り続けてくれたのだろう。ただの恋心で、そこまでするものなのだろうか。
「何で、そこまでしてくれたの……?」
そうだなぁ、とメイくんは悩むような、それでいて優しい声を出した。
「リコちゃんがね、僕に光をくれたから」
どういうこと、と私が聞くと、メイくんは川面へと視線を投げた。
「僕は幼稚園から中学まで、私立の一貫校に通ってた。僕の素性をみんな知ってて、かなり酷い嫌がらせを受けることもあった。県立高校に進学したのは、大学受験の為とかじゃなく、そういうことが面倒になったからなんだ」
そんな話を聞くのは、初めてだった。彼の緊張を吐き出したような白い息が、一瞬だけ二人の間に舞った。
「だから僕は、誰とも親しくしないと決めていたのに……いざ入学してみたら、隣の席が距離感ゼロの、能天気な女の子だった。僕の態度なんか気にもせず、仲良くしようと言い出して、連絡先の交換を強要してきた」
「うっ」
その犯行には覚えがあって、私は呻き声をあげた。それを見たメイくんは楽しげに笑って、嬉しかったんだ、と言った。
「この街にも、僕自身と接してくれる人がいる。そう教えてくれたリコちゃんは、僕に希望を見せてくれた」
「でも……おうちのことなら、みんな知らなかったよね?」
「そうだけど、僕の心をこじ開けたのは、間違いなくリコちゃんだったよ。だから僕は誓ったんだ。同じ道を歩めなくても、どこにいても、誰といても……死ぬまで、僕は、君を」
真っ直ぐに私を見つめて、愛してる、とメイくんは言った。それは恋心を告白された時とは違って、とても穏やかなものだった。
「僕はリコちゃんに恋をしていたけれど、抱いてた想いはそれだけじゃない。いま僕が言っているのは、恋とは違う、永遠に消えないものの話なんだよ」
そこでメイくんのスマホが鳴って、私たちの会話は途切れた。時計を確認すると、十九時ちょうどだった。
「あー、遅刻かぁ……リコちゃんを連れて行くって言ったら、怒られないで済むかな?」
メッセージを見たメイくんが、返事を送信した途端、今度は通知音が鳴り止まなくなった。見てよこれ、と差し出されたスマホには、様々な萌え系キャラが浮かれ踊る、狂喜のスタンプ祭りが表示されていた。
「あいつら、本当にリコちゃんを好きすぎだよね。ふふふっ」
自分を棚に上げるように笑ったメイくんが、部室がある川向こうのマンションへと視線を投げた。その表情は、とても柔らかい。きっとメイくんは、私だけじゃなくて、みんなのことも愛してるんだろうな。
「行こう、みんなが待ってる……お姫様、お手をどうぞ」
メイくんの左手が、再び私に差し出される。私は迷わずその手を取った。
私たちは手を繋ぎ、二人並んで、川にかかる橋を渡って行った。
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