第五十八話 誰の希望になればいい?

 ヒマちゃんの家に泊まってからというもの、私はどうにも気分が晴れなかった。

 酔った勢いで言われた「私なら、いつでもハヤトの隣にいてあげられる」という言葉が、ずっと胸の奥に残ったままだった。

 周囲に悟られてはいけないと、普段通りに笑っているつもりだけれど、時折メイくんが訝しげな視線を向けてきた。多分、何かがおかしいことくらいは気付いている。

 ヒマちゃんのことは変わらず大好きだし、ずっと仲良くしていたい……だからこそ、なかったことにはできなかった。

 私たちの幸せを思ってくれて、背を押してくれて、何も言わずに身を引いてくれたヒマちゃん。そんなあの子の目の前で、私はハヤトくんを困らせてばかりいる。

 ザイツさんは私を「誰かの希望になれる人」だと言ってくれたけど、自分の大切な人たちをないがしろにして、私はいったい、誰の希望になればいいんだろう?


 五限目、いつもの二人とは別に受けていた講義を終え、廊下に出たところでカメヤンから声を掛けられた。見慣れた作業用のツナギは脱いでいて、ベージュのチノパンに赤いチェックのネルシャツという格好だった。


「おっす、お疲れさん」


 ニッシーやヒマちゃんは見当たらず、カメヤンは一人で人文学部棟にいたようだった。ここは第三講義室だけど、アイリちゃんたちは第一講義室にいるはずだ。


「アイリちゃんは第一だよ?」

「知っとるよ。今日はリコちゃんに用事があって来たんよ」


 カメヤンが一人で私を訪ねてくるなんて、初めてのことだ。連絡先だって交換してあるのに、わざわざ講義が終わるのを待ってるなんて、いったい何の用事だろう。


「時間ある?」

「あるけど……」

「コーヒーでも奢らせてちょーだい。アイリも了承済みやから、ちょい付きおーて。正門横のカフェでいっかな?」


 カメヤンは私が頷いたのを見て、んじゃいこか、と言って歩き出した。

 いつも通りの態度だし、そもそも昼休みには普通に喋ってたし、怒っているわけではなさそうだけど……アイリちゃんにまで許可を取ったとなると、かなり真剣な話なんだろう。きっと、モデルの話だよね。

 私の数歩前を歩いていたカメヤンは、カフェの入口の扉を開けて、私へ先に入るよう促してくれた。注文カウンターで再度「俺の奢り」と念を押されたので、素直にホットココアをお願いした。

 ホットコーヒーを手にしたカメヤンと、向かい合わせで窓側の席に座る。タンブラーへ口を付ける前に、カメヤンは真顔で私に謝ってきた。


「ごめんな、いきなり待ち伏せたりして。先に話があるって言うと、講義中に余計なこと考えるんやないかと思ってさ」

「大丈夫。モデルの話……だよね?」

「そう。メイがおると話が進まんからさ、学食やと話し辛いんよね」


 どうやら先週のヒマちゃんと同じ判断をしたらしいカメヤンは、ショルダーバッグからスマホを取り出してブラウザを起動した。


「ええと、まず言っときたいことから。夏からこっち、いろいろ話しては貰ったけど、俺なりに状況を把握したくてさ」

「うん」

「それで、自分でも調べたんよ。コスプレイヤーとしてのリコちゃんのこと、俺らと知り合う前に何があったのか。何かが起こった時にフォローする為にも、正しく知っときたかったからね」


 一瞬、息が詰まった。心の奥にある黒い記憶を、不意に覗き込まれたような気がした。だけどカメヤンは、興味だけでそんなことはしない、信頼できる人だ……信じられる、大丈夫だ。出来るだけ普通に、ぜんぜん問題ないよと言うと、カメヤンはようやく笑顔を見せてくれた。


「書き込みを見て、どう思った?」

「誰かの恨みを買っとることだけは、よぉわかった。よっぽどの敵意がなけりゃ、こんな事できんよ」


 彼はスマホの画面を、私の方へと向けた。見覚えのある掲示板、見覚えのある合成画像……二年経った今も、私への悪意は変わらずそこに残っていた。


「リコちゃんを知ってる人なら、普通はこんなもん信じないやろうね……は、ね。信じたヤツは、信じた方が都合がいいか、気軽にイジれるオモチャが欲しかったんやないかな」


 当時を知らないカメヤンの意見に、私はミキちゃんのことを思う。あの子は私をコスプレに誘ってくれたけど、それは私を引き立て役にする為だった。高校に入学した頃の私は、三つ編みでおデコ丸出しで、古い少女漫画に出てくる文学少女みたいな地味さだった。憧れの制服だけで満足していて、お化粧は大人になったらするものだと思っていて……私にお洒落を教えてくれたのは、ミキちゃんだった。

 それなのに、いざコスプレをしてみれば、私の方が目立ってしまった。もし書き込みをしたのがミキちゃんじゃなくても、あの噂が真実だと思い込めれば、さぞかし溜飲は下がっただろう。


「……それ、わかる気がする」

「そやろ? んで、俺はメイが暴れる理由も納得できたんよ。そりゃーやかましくもなるわな、平然としとるハヤトの方が不思議やわ」


 苦笑するカメヤンに、私は何も言えなかった。私だって、わかってるんだ……メイくんは、別に私を困らせたいわけじゃない。この悪意の塊が「リコリス」を知らなかった人にまで広がって、事実として扱われてしまう可能性を考えれば、強く反対するのは当然なんだ。


「これね、どちらが正しいとか、リコちゃんは悪くないとか、そういう理屈は無意味やと思うのね。メイの反対を押し切った先に何があるのか、突っ走って傷付くのは誰なのか、そっちの方が重要やない?」


 そこで言葉を区切ると、カメヤンはコーヒーに口をつけた。つられてココアを一口飲むと、いつもよりやけに甘く感じる。意外と口の中が乾いていた。


「ハヤトのことは抜きにして、誘いは断った方がいいんやないかな……お節介やなと自分でも思うけど、そういう考えもあるよってことで、いちおう俺の意見を伝えに来ました!」


 カメヤンが、テーブルに付くくらいに頭を下げた。言葉を選んでくれているのが伝わってきて、本当に心配してくれているんだと、はっきりわかる。お節介だなんて思わないし、素直に嬉しかった。


「ねぇ、頭上げて……ずっと心配かけてばかりで、本当にごめんね」

「ん? 心配なんか、ナンボでもするって。友達なんやから、当たり前やろ?」


 顔をあげたカメヤンの、言葉の響きが優しくて、少しだけ泣きそうになった。


「カメヤン、ありがと」

「……そんな顔で言われたら、さすがに照れるわ」

「え?」

「なんでもねーっす」


 ごまかすように視線を逸らしたカメヤンは、ついでに年上っぽいこと言うけどさ、と悪戯っぽく笑った。


「夢を手放すって寂しいことやけど、違う景色が見えるようになることでもあるんよ。俺は美大を諦めたけど、福海に来て良かったと思っとる。大事なのは、夢を追うってこと自体が目的になっていないか、ただの意地になっていないか、常に考え続けることやと思うよ」


 胸の奥に、何かがちくりと刺さるような感覚があった。私の中には確実に、せっかく初めて描いた夢を手放したくないという、言われた通りの思いがあったから。少し恥ずかしいような、情けないような、そんな気分だった。


「意地……だったの、かな……」

「おいおい、そんな簡単に流されたらいかんよ。いっつも思うけど、リコちゃんはもーちょい自信を持ってもいいんよ?」


 カメヤンが笑う。同じようなことを言われたのは、これで何度目だろう。確かに「リコリス」の仮面を被らなくなってから、私は自分の芯が無くなってしまったような気がする。衣装を着ていない私は、本当にダメ人間だ。

 落ち込んでいるように見えたのか、カメヤンが「よしよし」と言いながら私の頭を数回撫でた。


「まぁ、もし頑張るんやったら、俺は協力するつもりやからね。俺だけやない、ニッシーも、ヒマワリも、アイリだってメグちゃんだって……メイだって、そのはずよ」

「そう、かなぁ……」

「決まっとるやん、だって会長様よ? リコちゃんはワガママな姫ちゃんやないって、俺らは知っとるから。やけん、俺らのことは、何にも心配せんでええよ」


 笑顔の彼が、頼もしかった。なんとなく、ユズカちゃんに膝枕をしていたニッシーを思い出す。普段から年上ぶるようなことはないけど、今のカメヤンは、まるでお兄ちゃんみたいだった。


 カメヤンとカフェの前で別れて、駅へ向かって歩き出そうとした時、ふと視線を感じて振り返った。そこには、よく知っている男の子――五月サツキさんちのタケルくんが、爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。

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