第五十五話 心配は要らない筈なのに
カーテンの隙間から差し込む光が、夢のような夜の終わりを告げる。彼は名残惜しそうに、私を強く抱きしめた。
大学はお休みだけど、ハヤトくんは今日もバイトがある。なので今日は、私が彼を駅まで送って行くことにした。いつもとは逆だ。
先に身支度を整えてから、ダイニングで軽めの朝食をとっていると、お母さんが寝室から出て来てトーストを焼き始めた。起こしてしまわないよう、こっそり支度をしたつもりだったけど……パンが焼ける匂いは、隠せなかった。
「これ食べたら、駅まで送ってくるね」
「それより、ハムエッグだけじゃ足りないんじゃないの? 野菜炒めでも作ろっか? インスタントならスープもあるわよ?」
「いいから、足りるから、大丈夫だから!」
「リコじゃなくて、ハヤトくんよ。男の子なんだから」
気まずさをごまかしている私に気付いた様子はなく、普段通りのお母さんだった。少し安心したのと同時に、罪悪感も覚えてしまう。昨夜のことに気付いたところで、怒ったりはしないと思うけど……いや、むしろ大喜びで「お赤飯を炊くわ!」とか言い出しそう。ありえる。
「ハヤトくん、もっとゆっくりしていけば? 遠慮しなくていいのよ?」
「そうしたいんですが、今日は九時からバイトがあるので……すみません」
お詫びの言葉を口にしながら頭を下げたハヤトくんに、お母さんは「いつでも来て頂戴ね!」と元気良く言った。
ハヤトくんは「また来ます」と返して、もう一度、今度は深々と頭を下げた。
人通りのまばらな、早朝の住宅街。彼は私の右手を握り、自分のコートのポケットへと誘った。もう冬の入口だなと、言い訳のように呟きながら。
その後に続いたのは、無言の時間だった。彼の温もりが空気を柔らかくしてくれる。何かを伝えたいのだろうなと、そのまま彼の言葉を待つ。そうしてしばらくすると、彼は私の顔を見ないまま「会わない間は連絡も断とう」と言った。
「メッセ送るのも、ダメ?」
そう尋ねながらも、おそらくダメだと言われるだろうなと思っていた。私は以前、返事が来ないとわかっているメッセージを延々と送り続けたことがある。あんなことをしていたら、会っていなくても頭の中はハヤトくんで一杯だ。
「メッセージを見れば声が聞きたくなるし、声を聞いたら、今日くらいはと会いたくなる。会ってしまえば、帰したくなくなる……俺の方が、歯止めが利かなくなりそうなんだよ」
彼の表情は真剣なままで、視線は真っ直ぐに空へと向いている。その横顔を、私はとても綺麗だと思った。
「俺は結局、余計にリコを迷わせてるのかもな。俺の都合など、決して言うべきではないと思っていたのに……メイの大きさが見えた途端、何もかも我慢ができなくなったんだ」
本音を露わにして「悪あがきをする」と言った彼は、それを恥じているようだった。そして今、改めて、私の気持ちを大切に扱おうとしてくれている。自分だって寂しいだろうに、私が流されてしまわないよう、距離を置こうとしているんだ。
「私、言って貰えて嬉しかったよ。ハヤトくんが思ってること、全部知りたいから」
「そうか……それなら、いいんだ。だがくれぐれも、俺の為とか考えないで欲しい」
私を想う彼の気持ちが、本当に嬉しかった。だからワガママなんか言わずに、そのまま受け入れたいと思えた。
「ゆっくり考えてみる。その分、クリスマスのデートは覚悟してね」
「そうだな、ずっと一緒に過ごそう。今のバイトは二十二日で終わりなんだ」
学生相手の店だからな、と彼が言う。うちの大学は二十三日から冬休みなので、店長さんだけで回せるようになるんだろう。
「じゃあ、イブの朝から押しかけてもいい?」
「もちろん。待ってるからな」
その「待ってる」という言葉には、二重の意味が含まれている気がする。俺を選んでくれるのを待ってる、と言われているような……自惚れでは、ないと思う。
堂々と付き合うのか、隠れて付き合うのか。隠れて付き合うとしても、それはいつまで続くのか――どんな選択をするとしても、絶対に別れたりはしない。それだけは、悩むまでもなく決めているんだ。
「待ってて……あんまり、無理はしないでね」
「ああ。リコの方こそ、あまり思い詰めるなよ」
またね、と小さく指切りをして、そのまま改札でお別れをした。
ホームに向かって歩いて行く、その背中を見ているだけで、既に寂しい。だけどきっと、今の私たちなら乗り切れるよね。以前のような音信不通とは違うし、理由もはっきりしている。期間だって決めてるんだから、何も心配しなくていい……そうだよね、ハヤトくん?
ハヤトくんから話を聞いたヒマちゃんの「後からバレたらややこしくなるよ」という忠告を受け、私の事情はみんなにも共有することとなった。
週明けのランチ会で事情を話すと、真っ先にメグミちゃんが声を荒らげた。
「いまどき恋愛禁止だなんて、どこの大物アイドルなのよ! ばっかじゃないの!」
怒りをあらわにしているメグミちゃんの口に、アイリちゃんが「大声出さないの」と玉子焼きを突っ込んだ。
「なぁ、別れるわけじゃないんだよな? 頑張れよ、俺、何でも協力するからさ」
神妙な表情のニッシーが、小声で何度も念を押してくる。てっきりニッシーは、私に怒るかと思っていたけど……もしかすると、彼なりの罪滅ぼしかもしれない。一度は別れさせようとした私たちを、今度は繋ぎ留めたいと思ってくれているんだ。
ニッシーよりも、むしろ機嫌が悪そうなのは、意外なことにカメヤンだった。
「迷うのはわかるよ、わかるんやけどさ。少しはハヤトを大事にしてやってくれな? アイツ、本当にリコちゃんのことが大好きやからね……俺が言わんでも、わかっとるやろうけど」
そう諭すように言われて、私はただ、素直に頷くことしかできなかった。こういう言葉は、カメヤンに言われるのがいちばん堪えるような気がする。
そして予想通りに辛辣だったのが、メイくんだ。ここぞとばかりに冷ややかな視線を向けてくる。
「ハヤトが可哀想だね。リコちゃん、そんなにしてまでモデルやりたい?」
「えっと……迷ってる、けど、やってみたいって気持ちもあるの」
「あの人に言われるまで、そんな自分を想像したこともなかったのに? ハヤトを捨ててまで追いかけるようなもの?」
「違うよ、捨てるわけじゃないよ。別れるわけじゃないし」
「表に出せないんだったら、結局は同じようなものでしょ。ハヤトにずっと日陰者でいろって言うつもり? それならいっそ、自由にしてあげれば?」
そう言われてしまうと、何も言い返せない。ハヤトくんの優しさに甘えている私は、本当に酷い彼女だから。自由に……と言われると、その方がいいのだろうか、なんて思いも湧いてくる。
「ちょっとアンタねぇ、いくらなんでも言い過ぎじゃないの? アンタにとって親友って、扱き下ろす為の存在なわけ?」
メイくんに向かって、メグミちゃんがテーブル越しに身を乗り出していく。メグミちゃんを落ち着かせようとするニッシーを気にも留めず、メイくんは平然と言い返した。
「悪いけど、僕の定義では、甘やかす為の存在でもないんだ。今のリコちゃんは、思いがけない誘いに揺れて、冷静さを失くしてるだけだよ」
「自分だけがリコをわかってるって、そう思い込んでるだけでしょ?」
メグミちゃんが声を震わせた。どうしよう、爆発寸前だ――同じように思ったのか、アイリちゃんが「いいかげんにしなさい!」と二人を一喝した。その声は喧騒に紛れて、周囲のテーブルにまで届いた様子はない。
「メグは落ち着きなさいね。メイくんも、強い言葉でリコちゃんを思い通りに動かそうと思ってるんじゃない?」
「そう見える?」
「ごめん、見えちゃうよ。別れるかなんて二人の問題に、他人が口を挟むべきじゃないと思うの」
「……他人、かぁ」
いつも大人しいアイリちゃんの一撃は、さすがのメイくんでも抉られたらしい。気まずそうに視線を落とし、食べかけのお弁当をつつき始めた。
「何年も、ずっとリコちゃんを守ってきた僕たちは、何だったのかな。こんなにあっさり捨てられる程度の想いだと知っていたら、僕たちはリコちゃんの背中を押したりしなかったよ……それでも僕は、他人なのかな。泣きながら身を引いたあいつらも、みんな他人なのかな」
「それは……他人は、言いすぎたかも。でも二人のことは、二人で決めるべきだよ」
「アイリちゃんたちは知らないだろうけど、ハヤトがどういう恋愛スタンスなのか、僕は嫌というほど見せ付けられた。アイツはリコちゃんの為なら、軽率に退学届を出しちゃうレベルのバカなんだよ」
メグミちゃんとアイリちゃんは、顔を見合わせた。二人は手紙の騒動を知らないし、ハヤトくんが退学した理由は「東京へ出るつもりだった」とだけ説明してある。だから、メイくんの言葉の意味がわからないんだ。
「メイくん、それってどういう……」
「もー、リコだって真剣に悩んでるんだからねー! ここでケンカしたって意味ないのー!」
ヒマちゃんが割り込むように声をあげ、そのままアイリちゃんに抱き付いた。その強引な話の逸らし方で察したのか、アイリちゃんもメグミちゃんも、それ以上は何も聞かなかった。
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