第五十四話 君の「特別」になりたい

 部屋に入って扉を閉めると、私はハヤトくんに抱き付いた。

 朝が来るまで、ずっと抱きしめていて欲しい。キスして欲しい、触れて欲しい……それ以上のことだって、して欲しい。

 だって、しばらくは会えないんだ。私の結論によっては、もっと会えなくなるかもしれないんだ。


「ねぇ……独り占めって、何するの?」


 同じ気持ちでいてくれたり、しないかな。私を独り占めするって、そういう意味だったりしないかな……期待しながら、聞いてみる。


「リコを抱き締めて眠れたら、十分だ」

「それだけ?」

「それだけじゃ、足りないか?」


 私のがっかりが伝わったのか、ハヤトくんが渋い顔をした。


「足りないっていうか……会えなくなっちゃうから」

「寂しい、か……そうだよな」


 真剣な顔で、ハヤトくんが考え込んだ。

 身体を繋がなくたって、心はずっと繋がっている――私だってそう思っているし、彼がためらう理由だって、一応わかっているつもりだ。

 だけど、わかってるのはそれだけじゃない。本当はハヤトくんだって、私を抱きたいと思ってる……彼は、確かにそう言ってくれたんだ。そう簡単に諦められない。


「ちょっとだけでも、ダメかな……挿れるだけ、とか」

「それは……俺に何かの修行をさせる気か? リコは時々、エグいことを考え付くよな」


 ハヤトくんは苦笑しながら、私の髪を指先で梳いた。


「俺の理性が消し飛ぶくらい、その気にさせてみるのはどうだ?」

「えっ?」


 そんなことを言われても、何をどうしていいのか全くわからない。こうなると、困ってしまうのは私の方だ。


「ど、どうしたらいいの?」

「姫が本気を出しさえすれば、俺を興奮させるくらいは簡単だろ?」


 彼は笑っていたけれど、体良くはぐらかされたのだと思った。こういう時のハヤトくんは、少しだけ意地悪だ。


 そんなに広くない私の部屋には、ベッドの他にも本棚や勉強机、チェスト、テレビ、姿見なんかが置いてある。家具の隙間にバランスボールが埋まってるし、ヨガマットも丸まってるし、ダンベルやヨガブロックも落ちてる。床の空きスペースは布団が一組敷けるかどうかというところで、明らかに狭そうだったので、ハヤトくんにはベッドへ座るように勧めた。

 ベッドに腰掛けると、ちょうど正面に本棚がある。私が卒業アルバムを元の場所にしまっていると、ハヤトくんがそれ、とこちらを指差した。


「さっきのクラス写真、良い写真だったな」

「でしょ? あれは私とメイくんの、本気の一撃なの」

「本気の一撃?」


 その不思議そうな声に、撮影時の経緯をざっくり話すと、ハヤトくんは黙ってしまった。ああ、余計なこと言っちゃった……ミキちゃんの話なんか聞かせても、楽しい気持ちにはなれないよね。

 雰囲気を変えたくて、私はアルバムの隣に立てていた冊子を取り出した。初めて作ったコスプレ写真集で、高校生の頃のものだ。


「最初の写真集、見る?」


 ハヤトくんは、この写真集に載せているものは見たことがないはずだった。ネットにアップしているのは、大学に入ってからのものばかりだ。


「そうだな、見せて貰おうかな」


 彼が笑ってくれたので、わざと勢いをつけてベッドに座り、はいどうぞっ、と元気良く写真集を手渡す。

 ハヤトくんはひとつひとつ丁寧に、昔のリコリスを眺めている。今思えばまだ全然仕上がってない状態のコスプレを、愛おしそうに見つめていて……なんか、裸を見られるよりも恥ずかしい気がしてきた。


「この写真も、サークルで撮ったのか?」

「それは高校生の頃に出したやつだから、全部メイくんが撮ってくれた写真だよ。メイくんがサークルを作ってくれたのは、大学に入学したあとなの」


 彼の何気ない問いに対する、何気ない返事のつもりだった。だけど私の答えを聞いて、彼は写真集を机の上へ除け、そのままそっぽを向いてしまった。


「わかっちゃいたが、本当に、いつでもメイが一緒だったんだな……」


 あ、これ、ヤキモチだ――そう理解した私は、困るよりも嬉しくなってしまった。ひどい女だ、と我ながら思う。

 だって、わかるんだもの。好きだから妬いちゃうってこと。私だって、ヒマちゃんに嫉妬してしまっているから……ヒマちゃんやメイくんが欲しかったものを手にしているのに、私たちは二人揃って、なんと贅沢なことを考えているんだろう。

 私に背を向けたまま、彼は苛立たしげに頭を掻いた。


「もっと早く、リコと会いたかった。メイの代わりに、俺がそこにいたかったんだ」

「わかるよ……私も、ヒマちゃんよりも前から、ハヤトくんのそばにいたかったよ」


 同じだよ、と私が言うと、彼は素直にこちらへ向き直った。さっきの不機嫌が嘘みたいに、穏やかな表情をしている。


「そうか……リコも、同じか」


 ゆっくりと、ハヤトくんの手がこちらへ伸びる。その指先は私の耳朶をくすぐり、頬を撫で、最後に唇へと触れた。


「俺がヒマ助とはしないこと、リコがメイとはしないこと……朝まで、しようか」


 それって……と言い掛けて、飲み込んだ。はっきりと口にしてしまえば、彼にそれを強要してしまう気がして、それ以上は言えなかった。


「リコの道はリコが決めるべきだが、俺はやっぱり、俺との日常を選んで欲しい。だから俺は、最後まで悪あがきをしようと思う。リコがして欲しいことを、全部する」


 ずっと私を尊重しようとしてきた彼が、ここにきて、自分の本音を口にした。メイくんへの嫉妬が、スイッチを入れてしまったのだろうか。それとも、私も同じ思いをしていたと言ったからなのか。


「ダメだよ、無理しないで……私、ハヤトくんを選ぶから」

「違う。俺はリコの意思で、本心で、俺を選んで欲しいんだ。リコに選んで貰えるように、今の俺にできることをしたいだけなんだ」


 彼は、どう見ても真剣そのものだった。

 自分の信念を曲げてまで、私を抱くと言っているのだ。

 私に選ばれて、一緒に過ごす日々のために。

 いったい私は何様なのだろうかと、自分に呆れる気持ちもある。だけど今はそれよりも、彼の気持ちを嬉しいと思っている。

 彼は私のために、抱えているものを乗り越えるのだと、そう決意してくれたんだ。

 その決意を、私は受け止めたい。そうしたら、きっと二人で幸せになれるはずだから。


「したいこと、全部、してほしい……」


 私の返事を聞いたハヤトくんは、緊張した面持ちで頷いた。


 薄暗い部屋、ベッドの上で、私たちは向かい合う。ハヤトくんが服を脱ぎ捨てて、それから私を丁寧に脱がせてくれた。

 彼が私の身体のあちこちに、そっと唇で触れていく。私が初めて彼の部屋へ泊まった、心を繋いだ夜のように。あの夜と決定的に違うのは、私の身体がそれなりの反応を示すようになってしまったことだった。


「声は我慢だ……いいな?」


 甘く鼻を鳴らした私に、ハヤトくんがそっと囁いた。

 彼の指や唇が与えてくれる刺激を、私はどこにも逃がせなくなった。それは少しずつお腹の奥に溜まっていって、時々ぱちんと弾けてしまう。我慢できない私を見て、ハヤトくんは「可愛いな」と繰り返した。


「リコが気持ち良いなら、俺はそれだけで嬉しい。だけど今日は、それだけじゃ終われない……終わりたく、ないんだ」


 彼は脱ぎ捨てた服に手を伸ばし、ズボンのポケットから、アルミ製のケースを取り出した。中からは避妊具が何個も引き出され、なんでそんなもの持ってるの……と少しだけ、焦る。だけどその取り扱いはどう見ても不慣れな感じで、妙に安心してしまった。


「ニシに押し付けられたんだよ。彼女持ちのタシナミだろ、だとさ……アイツらしいと言えば、らしいんだが」


 私の視線に気付いたのか、照れたように苦笑する彼は、やっぱり耳まで真っ赤だった。


「リコ、嫌じゃないか?」


 ハヤトくんが、改めて私に問う。その声が微かに震えていて、私よりも彼の方が心配だった。


「嫌だなんて、ありえないよ……ハヤトくんは?」


 私の問いには返事をしないまま、彼はそっと私の頬に触れた。


「俺は、このまま終われないんだ……絶対に、終われないんだよ」


 ハヤトくんは、今にも泣き出しそうだった。そして彼の思いは少しずつ、言葉になって溢れ出てくる。


「……もう、嫌なんだ。寂しい思いをさせるのも、言い訳だけを繰り返すのも、リコの特別なものになりきれないのも……!」


 今、彼が見せているのは、心の奥で剥き出しになったままの傷だ。きっと見ないふりだってできたのに、私のために向き合って、そして余計に傷付いて……それでも、乗り越えようと必死になってくれた。

 私も一緒に、乗り越えたい。私だって、ハヤトくんを幸せにしたいんだ。


「ハヤトくん……何があっても、大好きだよ。だから、おいで?」


 私が笑顔で両手を広げると、彼は泣きそうな表情のまま、素直に身体を預けてきた。その重みも、伝わる体温も、優しく私を包んでくれる。

 彼が遠慮がちに私の中へと入ってきて、身体も心も、ゆっくりと繋がっていった。

 初めての鈍い痛みは、全く気にならなかった。それよりも、もっと深く繋がりたかった。いちばん奥まで、と彼を促すと、彼はとろけそうな表情をした。幸せだと叫んでいるようで、私の胸も幸せで一杯になった。


「ハヤトくん……私、今、すごく嬉しい」

「ああ……俺は、リコの特別なものに、なれたんだな?」


 返事の代わりに、私はそっとキスをした。

 繋がることで、特別に「なった」わけじゃない。最初からハヤトくんは、私にとって特別なひとだ。

 だけどこの行為は、決して無意味じゃない。

 特別なひとだからこそ、私は彼と繋がりたかった。言葉では伝えられない愛を、少しでも届けたかったんだ。


 朝が来るまで飽きもせず、何度も何度も繋がった。昇り詰めたいわけじゃなく、心を残らず渡してしまいたかった。

 抱き合ったまま、眠りに落ちた。目が覚めるたび、甘えるように求め合った。ゆるやかで、心地良くて、夢もうつつも混ざり合って――そこに激しさがなくても、生まれた熱は本物だった。

 幸せだけで満たされた、二人のための夜だった。

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