第三十六話 君と出会い、季節は廻る
翌日は快晴だった。
目が覚めるとハヤトくんは既に起きていて、朝ご飯を用意してくれていた。ダイニングテーブルに並んでいたのは、レンジで温めたパックごはん、平皿に盛られたサバの缶詰、ちょっと焦げ気味の厚焼き卵、フリーズドライのお味噌汁。一人暮らしの男の子が急遽用意したのだと思えば、十分どころか贅沢なくらいだった。
「卵焼きおいしい、甘くてしょっぱいんだね」
唯一の手料理を私が褒めると、ハヤトくんは「焦げたけどな」と苦笑する。
「お砂糖とお醤油を入れたからかなぁ、それか火加減?」
「手本を見せてくれ」
「うっ、ヒマちゃんの方が上手なんじゃないかなっ」
じゃあ一緒に練習するかと彼が笑い、結婚したらこんな感じなのかな……なんて妄想をしてしまう。食べ終えた後は二人で食器を片付けて、いつものようにコーヒーを淹れた。
八時を回った頃、アイリちゃんに代返依頼のメッセージを送った。笑顔の顔文字付きで快諾の返事が届いたものの、最後に「リコは石橋くんのせいで悪い子になっちゃったね!」と書かれていた。私の名前が呼び捨てだから、きっとメグミちゃんだ。
確かに私は、悪い子になってしまったのかもしれない。男の子のお部屋に泊まって、そのまま学校を休むだなんて、以前はとても考えられなかった。
スマホを見ながら笑っている私が気になったのか、ハヤトくんが画面を覗き込み、それワクイだろ、と言い当てた。
「人聞きが悪い事を言うなぁ。後で抗議しに行くか」
「ニッシーのとこ?」
「ああ、ユズカちゃんに頼んだヤツも気になるからな」
笑いながら立ち上がった彼は、シンクの前で煙草に火を点けて、当たり前のように換気扇のスイッチを入れた。そういう小さな気遣いこそが、彼の本来の性分なのだと思う。
ハヤトくんの希望で、今日は郊外のショッピングモールへ行くことにした。駅前からバスに乗って二十分くらい、平日なのでさほど混み合ってはいない。バスを降りた私たちは、最初にアウトレットのインテリアショップへと足を踏み入れた。
朝ご飯を食べている時、ハヤトくんは「部屋を片付けてベッドを置きたいんだ」と言い出した。放っておくと床で寝る人が急にどうしたのかと思ったら、彼は真剣な顔で「今のままじゃ、冬になったらリコが風邪ひくだろ」と言葉を続けた。確かに今のソファーベッドは、大人が二人で寝るように作られてはいない。
これからの私たちは、二人で同じ季節を歩いてゆく。秋が去ったら冬が来て、春を越えれば再び夏が巡ってくる。一緒に冬を迎える支度をしよう、というのがハヤトくんの提案だった。
「大きなベッド、置くスペースあるの?」
「ソファーは処分しても構わないんだ。卒業した先輩に貰ったヤツだからな」
「もしかして、貰うまでは床で寝てた?」
「……バレたか」
ハヤトくんが、顔をくしゃくしゃにして笑う。その表情が本当に可愛くて、私も同じように笑ってしまう。
「俺の部屋を、リコにとって居心地の良い場所にしたいんだ」
そう言って彼は、私の手をそっと握った。
彼の作品が所狭しと積まれたアトリエを、私は「
手を繋いだまま、売り場を見て回った。最初はセミダブルサイズのベッドで安いものを探していたのに、気付いたらポールハンガーだとかチェストだとか、コタツになったダイニングテーブルだとか、完全に予定になかったものまで真剣に選んでいた。本当に買うかは置いておいて、こうやって一緒に見て回るのは、とても楽しい。最終的にはベッドの他に、私の荷物を入れる為のカラーボックスを買う事になった。
「ねぇ、着替えとか置いてもいい?」
思い切って、聞いてみる。時々泊まる事を考えたら、ルームウェアの一着くらいは置いておきたい。さすがに図々しすぎるかな。いかにも彼女面をしているみたいで、ちょっと恥ずかしいような気もする。
「着替えでも、歯ブラシでも、リコが必要なら何だって置いていい。狭いのだけはどうにもならんが、そのまま住めるくらいにしちまえ。何なら住むか?」
その言葉は本当に嬉しかったけれど、そんな事をしたらお父さんが押しかけて来そうだ、と怖い想像をしてしまった。割と気軽に顔を出しそう……うん、無理。考えるのやめよう。
家具の配送を頼んでお店を出たところで、ハヤトくんの足が止まった。
「少し早いが、混み合う前に昼メシ済ませておくか」
腕時計を見ると、十一時を回ったところだった。お昼時のフードコートで繰り広げられる惨状を考えると、混む前に食べちゃった方が良さそうだ。
「そうだね。その後は着替えを買いに行きたいなっ。一緒に選んでくれる?」
「下着は絶対に選ばないからな」
冗談で言うつもりだった言葉に先手を打たれた私は、わざと漫画的に舌を出して見せた。
フードコートのワンダフルバーガーでお昼ご飯を食べた後、モール中を歩き回った。用事のない雑貨屋に寄ったりもしつつ、私はパジャマと下着とカトラリーセットを買った。こうして彼の世界の中に、私の存在が刻まれていくのかもしれない。
買い物を終えた私たちは、来た道を戻るバスへと乗った。バスは大学の正門前を通過すると、大学駅前を経由して、市街地方面へと走ってゆく。その途中で降りた私たちは、近くの砂浜へと足を向けた。
大学から徒歩圏内にあるこの砂浜は、遊泳禁止ではあるけれど、夏になるとバーベキューや花火をする学生で賑わいを見せる。だけど今は、私たち以外の人影はない。
「俺、考え事をする時は、よくここに来るんだ」
そう言った彼が見つめる海はただ穏やかで、青く、白く、きらめいている。岩陰に腰を下ろすと、ひんやりとした潮風が頬を撫でていった。
通り過ぎた夏の余韻はなく、あの喧騒が嘘のようだ。季節と共に、忘れ去られてしまっている場所。だけどハヤトくんはあえて、初めてのデートで私をここに連れて来た。その意味を考えながら、私は何かを確かめるように、繋いでいた手を握り直した。
「入学してすぐの頃、ここで女の子を見たんだ。白いワンピースの裾を揺らして、楽しげに波打ち際を歩いていた。数人のカメラマンが彼女を撮っていて、俺は写真科の撮影実習だと思ってたんだ」
彼の言葉を聞いた瞬間、ここに来た意味がわかった。彼は間違いなく、
「まだ肌寒い時期で、水は冷たいだろうに裸足で、爪先が真っ赤になっていて……それでも彼女は、一度だって笑顔を崩さなかった。揺るぎないプライドを感じて、彼女を描いてみたいと思うようになった」
その言葉に、私の胸の奥が熱くなる。まだ出会ってもいない頃から、この人は私を認めてくれていたんだ。
ハヤトくんは目を細めて、波打ち際を伝うように、視線を左から右へと流してゆく。それはまるで、記憶の中の私を愛でているようだった。
「俺たちは最悪な出会い方をして、彼女はお詫びをしたいと言い、突き放しても食い下がった。そして俺は、強引にモデルを引き受けさせた……卑怯な手だとはわかっていたが、どうしても抑えられなかった」
彼の視線が私の方を向き、ごめんな、と擦れた声が聞こえた。
謝らないで欲しかった。私は押し切られてモデルになったわけじゃない。身体という私の作品を、的確に褒めてくれた事が嬉しくて……彼に必要とされた事を、誇らしいとすら思ったんだ。
「違うよ、私、嬉しかったんだよ!」
本当は、もっと想いを伝えたいのに、私は上手く笑う事すらできなかった。
「ありがとう、私を見つけてくれて……!」
とうとう涙を零してしまった私を、ハヤトくんは切なげに見つめた。彼の大きくて温かな両の手が、私の濡れた頬を包む。
「礼を言うのは、俺の方だよ。嫌味ばかり言う歪んだ俺を、リコは突き放したりしなかった……ありがとう。俺も、嬉しかった」
ハヤトくんも涙声だった。ちょっと意地悪で、いつも強気だけれど、本当は臆病で泣き虫な男の子――それが、私の大好きな人だ。
「だから俺、決めたんだ。たとえ何があろうとも、リコの事だけは絶対に守るんだって……」
ハヤトくんの唇が、私の唇に触れた。
この幸せがずっと続きますようにと、祈らずにはいられなかった。
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