第三十五話 愛しい君に捧げたいもの

 遅くなりすぎないうちにと、早々にニッシーの家を出た。家まで送ると言ってくれたハヤトくんと、駅までの道を並んで歩く。

 気持ちの良い夜風とは裏腹に、私はモヤモヤを抱えたままだった。嫉妬だ。私だってまだデートらしいデートはした事がないのに、というヤキモチをぶつけてやりたくて、あまり嫌味になりすぎない言い回しはないかと考えていた。

 どこからか、弾けるような笑い声が響いてくる。おそらく窓を開けたまま、子供がテレビでも見ているのだろう。


「俺、あんな風に笑った事、ほとんどなかったんだ」


 ハヤトくんが呟いて、私は意外だなと思う。あのヒマちゃんと一緒に暮らしていたのだから、さぞや明るい毎日だったのだろうと思っていた。


「ハヤトくんって、どんな子供だったの?」

「そうだな……嫌な子供、だな。自分から見て正しい事なら、言葉を選ばず投げ付けていいと思ってた」


 その言葉に、出会った頃のハヤトくんを思い出す。露出狂だのクソビッチだの、普通は面と向かって言わないような事を散々言われたし、本当に腹立たしかった。

 それでも私は、この人を好きになった。

 褒める時も言葉を選ばない事を知って、絵を描く時の真剣さに強く惹かれた。モデルを引き受けなければ、私はそんな一面を知ることはなかった……つまり、好きにはならなかった。あの時のたった一つの選択で、私と彼の人生は、きっと大きく変わってしまった。

 彼が周囲との縁を大切にする理由が、わかるような気がした。


「今も、変わっていないのかもしれない。図体ばかりでかくなって、頭の中身は子供のままだ」


 そう言ってハヤトくんは足を止め、私を見つめた。


「ごめんな。嫌な思い、させてないか?」


 不安げに問われて、私は即座に頭を振った。

 確かに最初の頃は色々と思う事もあったし、大きなケンカだってした。だけど今のハヤトくんは、ちゃんと優しい言葉を選んでくれる。


「大丈夫だよ」


 安心して欲しくて、私はハヤトくんに抱き付いた。他に人通りはないし、少しだけ……私の腰にハヤトくんの腕が回されて、そのまま抱き合う。


「何かあったら、抱え込まずに言ってくれるか?」

「うん……でも、露出狂より酷い言葉なんて滅多にないと思う」

「そうだな、悪かった」


 ハヤトくんが苦笑しつつ「スケッチブックの時はさ」と言葉を続けた。そういえば、あの時わざわざ窓越しにスケッチブックを掲げた理由を、私はまだはっきりと聞いてはいなかった。


「あんな写真を撮らせるなんてダメだ、止めないと、って思って……だから、とにかく邪魔をしたかった」


 その理由は、私にとっては十分に納得できるものだった。いかにも彼らしくて、つい嬉しくなる。

 ハヤトくんは、自分が正しいと信じる事の為なら、言葉だけでなく手段も選ばない。そのせいで自分が傷付いたり、周囲に嫌われたとしても、それが必要だと思えば「仕方がない」と納得してしまうんだ。尊敬する部分もあるけれど、もっと自分自身の事を考えて欲しいとも思う。

 だから、お礼は絶対に言わない。嬉しかったのは、私だけの秘密。


「私、仕返ししてやるんだって、すっごい怒ってたんだからねっ」

芸術学部ゲーガクまで乗り込んで来たよな……うわ来たか、って思ってた」

「えー、それひどいかもっ」


 最悪な出会いを思い出して、一緒に笑った。すごく昔の事のような気がするけれど、あれから半年も経ってはいない。


「あの状態から、よく今の関係になったよね」

「俺は、モデルを引き受けてくれた時から、きっとこうなると思ってた」


 回された腕に、力がこもる。確かにハヤトくんは、私が好きになる事を予言していた。


「どうして、そう思ったの?」


 確かめる為の一言が、ずっと言えなかった。だけど信頼している今ならば、どんな返事も怖くない。


「リコなら全力で、俺の本気に応えてくれると感じた。どちらも全てを曝け出すなら、きっとリコも、俺も、互いに惚れるだろうと思ってたんだ」


 あの日の私が感じた信頼は、正しかった。私は彼の望むものになりたいと願ったし、ハヤトくんもそうなる事を願ってた……私たちは最初から、ずっと同じ気持ちでいたんだ。


「俺、もう一度、リコの絵を描きたい」


 耳元でハヤトくんが囁く。私の絵を描きたい、ただそれだけの言葉がとても甘美なものに聞こえた。胸の奥が音をたてそうなくらい切なくなって、頷く事しかできなくなってしまった私に、ハヤトくんは更に囁きかけてくる。


「もう一度だけじゃ、足りないな……今のリコも、未来のリコも、何度だって俺に描かせて」


 熱のこもった言葉が耳から流れ込み、私の中にも熱を生む。

 今の彼は、どんな風に私を描くのだろうか。あの時とは少し変わった私を、同じように変わった彼の手で……何度だって、描いて欲しい。


「なぁ、今日、泊まっていかないか?」


 迷わずに頷いた私を、彼はいっそう強く抱きしめた。


 照明を点けないまま、台所から差し込む明かりだけが頼りのアトリエで、私はソファーに腰掛けた。


「今のリコを、見せて欲しい。明かりを点けてもいいか?」


 ハヤトくんは真剣な目をしていて、私はただ頷いた。

 明るくなった部屋で、彼が私を脱がせ始める。いつもなら自分から脱いでしまう私だけれど、今日は彼の手に任せてしまいたかった。

 ブラウス、スカート、キャミソール……ゆっくりと一枚ずつ、信頼している人の手で裸にされていく。まるで心まで解かれていくようで、なんだか心地良い。


「前よりも、綺麗になった」


 彼の言葉に、そんな事ないよと言いかけた。だけど私の言葉はハヤトくんの唇に遮られてしまい、んう、と甘ったるい声しか出せなかった。

 ハヤトくんは唇を離すと、せっかく点けた明かりを消した。そしてフラットにしたソファーの上に私をゆっくりと倒し、自分は服を着たままで、裸の私を抱きしめる。その腕はとても優しかった。


「ハヤトくん、好き……」

「俺も好きだ、大好きだ」


 こうして愛情を伝えられる私たちは、とても幸せな関係なのだと思う。お互いが想い合っているからこそ、できること。この幸せが嘘になる日なんて、何があろうと来るはずはない。だって今、私たちの想いはこんなにも強く、そして心はしっかりと繋がっている――。


「……本当は俺、リコを抱きたいんだよ」


 ハヤトくんが、苦しげに呟いた。「学生の間は最後まではしない」というのが、私たちの決め事だ。ハヤトくんが言い出した事だけれど、もし彼が「我慢できない」と言ったら……私の答えは、決まっている。


「私も、誰より近くに来て欲しいよ」

「そうだよな、わかってる。だけど、だけど俺は……」


 気付けばハヤトくんは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。きっと幸福や快楽への欲求よりも、お父様への複雑な感情が勝っているんだろう。いつか乗り越えられる日が来るのか、それとも。

 私は彼の背に腕を回して、思い切り強く抱きしめた。甘い香りがしなくなったシャツからは、微かに煙草の匂いがした。


「あのね、私、こうしてるだけでも幸せなの」


 返事はなかった。しばらくそうしていると、彼がごめん、と小さな声で言った。


「落ち着いた?」

「ああ……すまん、振り回してしまっているな」

「ううん。大事にしてくれて、ありがと」


 彼の頬をそっと撫でると、彼が照れたように笑う。


「その分、いっぱいキスしようよ」


 私の方からキスをして、彼の唇が応えてくれる。何度も繰り返した後に、私は彼に頬擦りをした。


「ねぇ、私ともデートしてくれる?」


 勢いで、言いそびれていた本音もぶつけておく。意味に気付いたハヤトくんが、私の額に自分の額をつけた。


「そうだな、あの子との約束を果たす前に。俺の人生初デートは、リコに捧げておかないとな」

「人生初……! か、可愛い、ぷふっ」


 いきなり乙女モードな発言をされて、つい笑ってしまった。ハヤトくんはバツが悪そうな顔をして、私の鼻を軽くつまんだ。


「そうだな、リコには何でもない事だよな。メイと二人で遊んでたんだし」

「えー、だったらハヤトくんとヒマちゃんだってぇ」


 からかうように言われて、つい言い返してしまう。だけど本気じゃないのはわかってるから、もうムキになって怒ったりはしない。


「俺らはイトコだぞ、ニシみたいな事を言うなよ」

「メイくんだって親友だもんっ」

「そう思ってるのは絶対にリコだけだ、このお人好しめ」


 笑いながら意地悪を言うハヤトくんを見ていると、安心する。少しくらい言葉が悪くても、私はいつものハヤトくんが好きだ。


「俺にとっては特別な事だから、初めてはリコがいい」


 耳まで赤くなった彼を見て、ほらね、とくすぐったい気持ちになる。

 どんな言葉を選んでも、その奥にある気持ちは、ちゃんと私に届くんだ。


 眠る間際、私に腕枕をしていたハヤトくんが耳元で「眠れそうか?」と囁いた。


「いつもより熟睡できちゃうかも」

「はは、そうだといいな。じゃあ起きたら出かけようか、学校サボれるか?」


 悪魔の囁きだぁ、と笑ってみた。一日くらいは悪い子になってもいいかもしれない。


「いいよ、代返頼んじゃう。どこいこっか、シーパラは来週行くし……」

「美術展とか興味あるか?」

「ヨクワカラナイデス」

「だよな。リコはアニメショップの方がいいか」

「ハヤトくんが興味ないよね!」


 わかっていたけど、趣味が全くかみ合わない。この辺りにデートスポットと呼べる場所なんて多くはないし、二人揃って運転免許もないから、遠出もなかなか難しい。

 二人で悩んでいるうちに、ハヤトくんの瞼がじわじわと閉じてゆき、あっという間に寝息を立て始めた。


「おやすみ、ハヤトくん」


 声をかけても返事はなく、彼は子供みたいな顔ですっかり眠り込んでしまっていた。

 その無防備な表情が、とても大切なもののように見えた。

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